『異界への旅――世界のシャーマニズムから臨死体験まで』ヨアン・ペテル・クリアーノ著、桂芳樹訳、工作舎、2021年8月、本体3,800円、四六判上製364頁、ISBN978-4-87502-531-3
★原書は『Out of this World: Otherworldly Journeys from Gilgamesh to Albert Einstein』(Shambhala, 1991)。序論に曰く「本書の目的は、異界遍歴や変性意識状態、体外離脱体験、臨死体験などについての、簡潔だが包括的な比較文化研究を行うことにある」(20頁)。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。ヨアン・ペテル・クリアーノ(Ioan Petru Couliano 〔Culianu:クリアーヌとも〕, 1950-1991)はルーマニアの宗教学者で、エリアーデの高弟。長らくシカゴ大学で教鞭を執りましたが、大学構内で〈暗殺〉され、生涯を終えました。既訳書に『ルネサンスのエロスと魔術――想像界の光芒』(桂芳樹訳、工作舎、1991年)、『霊魂離脱〔エクスタシス〕とグノーシス』(桂芳樹訳、岩波書店、2009年)、『エリアーデ=クリアーヌ往復書簡』(ダン・ペトレスクほか編、佐々木啓/奥山史亮訳、慶應義塾大学出版会、2015年)などがあります。なお、クリアーノの著書の翻訳に尽力されてきた桂芳樹(かつら・よしき, 1932-2018)さんは本書『異界への旅』の本文訳了後に逝去されています。そのため、訳者あとがきがありません。
★「異界への旅に関するすべての歴史的資料を蒐集することは途方もない仕事であり、かつて試みられたことのないものである。筆者は、このテーマに対する最近の一般的関心の深さを物語る章から始めて、地理的、年代記的にあらゆる伝統を提示するべく取捨選択した。これらの異なった伝承のあいだの深い類似性と、異界への旅の一般的法則の形成に当たっての、最近に至るまでのシャーマニズムの圧倒的重要性をいかに評価するかは、読者の判断に委ねる。〔…〕人間の心のあいだの相互作用の複合的な過程は、われわれの多数が旧石器時代を遡って、さらにホモ・サピエンスの黎明に達する幽暗な根源を共有しているという認識をすら抱かせるのである。「異界への旅」は、人類のもっとも強固な伝統の一つであるという点で、このたぐいの信仰に属するように思われるのである」(32頁)。
★「その多様性にもかかわらず、ここで研究した伝統はすべてとはいわないまでも、大部分は多くの基本的特徴を共有している。第一には死後亡霊として生存し続ける「遊離霊魂」に対する信仰があった。この霊魂は一定の条件のもとでは肉体から遊離して、黄泉の国を訪れる。失神、夢、臨死体験、幻覚剤による意識変性、感覚離脱またはその対極、感覚麻痺などはこのような離脱が起こるための条件の一部である。/シャーマンはこのような離脱の専門家であり、それゆえに「魂呼ばい」としての機能を果たすのである。〔…〕シンガポールの霊魂飛翔における霊媒の地獄の描写と、ダンテの『神曲』におけるそれとの間には、ただ言述〔ディスクール〕と神学のちがいがあるに過ぎない。両者ともに地獄の劫罰と親しい死者の霊との対話の形式を共有する」(312頁)。
★「信仰というものが、相互作用し、合体することは避けられないとしても、人類のすべての伝統は類似の前提から並行的に発展している。この結果は、驚くべき多様性における統一性である。/多様性とは死者の国の膨大な数と種類、死後の世界で罰せられる倫理的逸脱と賞せられる徳行の驚くべき種類である。にもかかわらず、このような世界の存在と因果応報に関する思想は普遍的なのである」(313頁)。
★本書に「頌辞」を寄せているハーヴァード大学世界宗教研究所所長のローレンス・E・サリヴァンはこう記しています。「ここに集う衆庶に知らしめよう。諸氏は天国と地獄への羈旅に立たんとしている」(8頁)。「クリアーノ氏は意想外の対比を創出することに、職人的特殊技能をもっている。氏は資料を一つに溶かして、それらの異同を明らかにし、時空の次元を視覚化し、時空を旅する人類共通の普遍的能力の問題を提起する。科学と文学、民族学と哲学、歴史と体系を意識的に結合する。創作と実証科学のような別のジャンル、ニールス・ボーアとホルヘ・ルイス・ボルヘス、アルベルト・アインシュタインとギルガメシュのような相隔たった人物を並列して吟味する」(同)。
★本書を中心に書棚を編むとしたら、なかなか壮大な書物群の山河の景観が見られるでしょう。幸いなことに巻末に「邦訳文献」がありますから、それを参考にしつつ、ブックフェアもできるだろうと思います。おそらくもっとも面白くなりそうなのは、異界旅行を主題にしたコミックや絵本、あるいは映像作品を、文献一覧にある古今の文学書や宗教書、哲学書と一緒に並べることでしょう。クリアーノが生きていれば、なおも現在の文化の諸相に探究の歩みを進めていたに違いないからです。
★このほか、最近では以下の新刊との出会いがありました。
『いま言葉で息をするために――ウイルス時代の人文知』西山雄二編著、勁草書房、2021年8月、本体3,500円、4-6判上製336頁、ISBN978-4-326-15480-7
『吉本隆明全集26[1991-1995]』吉本隆明著、晶文社、2021年8月、本体6,500円、A5判変型上製554頁、ISBN978-4-7949-7126-5
『人間になるということ──キルケゴールから現代へ』須藤孝也著、以文社、2021年8月、本体2,400円、四六判並製296頁、ISBN978-4-7531-0363-8
『浄土の哲学――念仏・衆生・大慈悲心』守中高明著、河出書房新社、2021年8月、本体2,750円、46判上製272頁、ISBN978-4-309-22825-9
『推敲』トーマス・ベルンハルト著、飯島雄太郎訳、河出書房新社、2021年8月、本体3,600円、46変形判上製308頁、ISBN978-4-309-20836-7
『中村桂子コレクション いのち愛づる生命誌(7)生〔な〕る――宮沢賢治で生命誌を読む』中村桂子著、藤原書店、2021年8月、本体2,200円、四六変型判上製288頁+カラー口絵4頁、ISBN978-4-86578-322-3
『文明開化に抵抗した男 佐田介石 1818-1882』春名徹著、藤原書店、2021年8月、本体4,400円、四六判上製480頁、ISBN978-4-86578-320-9
『アメリカンビレッジの夜――基地の町・沖縄に生きる女たち』アケミ・ジョンソン著、真田由美子訳、紀伊國屋書店、2021年9月、本体2,300円、46判並製428頁、ISBN978-4-314-01182-2
『ジェンダーと脳――性別を超える脳の多様性』ダフナ・ジョエル/ルバ・ヴィハンスキ著、鍛原多惠子訳、紀伊國屋書店、2021年8月、本体1,800円、46判上製203頁、ISBN978-4-314-01185-3
『夢を見るとき脳は――睡眠と夢の謎に迫る科学』アントニオ・ザドラ/ロバート・スティックゴールド著、藤井留美訳、紀伊國屋書店、2021年9月、本体2,200円、46判上製336頁、ISBN978-4-314-01186-0
『現代思想2021年9月号 特集=〈恋愛〉の現在――変わりゆく親密さのかたち』青土社、2021年8月、本体1,600円、A5判262頁、ISBN978-4-7917-1418-6
★クリアーノとの響きあいで何点か特記しておきます。異界と隣り合わせの現世をめぐって、その起源を辿ろうとする旅は、探究者によって様々な相貌を与えられます。『吉本隆明全集26』の中核をなす『母型論』は「言葉と、原宗教的な観念の働きと、その総体的な環境ともいえる共同の幻想とを、別々にわけて考察した以前の自分の系列を、どこかでひとつに結び付けて考察したい〔…〕人間の個体の心身が成長してゆく過程と、人間の歴史的な幻想の共同性が展開していく過程のあいだに、ある種の対応を仮定すること」(8頁)をめぐる晩年の試み。「母の形式は子どもの運命を決めてしまう」(11頁)という書き出しが印象的です。「明治の近代以後から現在までナショナリズムとかインター・ナショナリズムとか、西洋を基準に使われているオリエンタリズムといった概念や論議は、ほんとうは空虚で無意味なもので、さしあたってこういう概念を基にして流布されている論議、対立概念はすべて普遍性の方向にむかって解体されなくてはならないのではないか」(7頁)という吉本の問題意識とその格闘が刻印されています。
★新型コロナウイルスの大流行とその相次ぐ変異によって日常の変容を余儀なくされつつある私たちの世界=現世における生のありようと知の状況と条件をめぐって、欧米の哲学者が果敢に挑んだのが、独自編集となる論文集『いま言葉で息をするために』です。主にオンラインで公開されてきた各国の論説を集成したもの。編者の西山雄二さんは巻頭の「はじめに」でこう書いています。「本書に収録されたテクストはいずれも、感染症の拡大が私たちにさまざまな不自由さを強いるなかで、精神的な息苦しさに風を通そうとする息吹に満ちている」(xviii頁)。
★現世のそうした〈息苦しさ〉を前に、過去の知的水脈から新世界への想像力を掬い出しているのが『浄土の哲学』と『人間になるということ』です。『浄土の哲学』の「序」で守中さんは次のように述べます。「最終的に私たちは、称名念仏という行ないから新しい社会的紐帯を作り出す運動の原理を、それも、念仏という祈りの情動によって結ばれた、しかし絶えず新たに生成し、その都度新たな場を出現させる非-可算的な集団、すなわち浄土コミューンを作り出す原理を導き出すつもりである。国民国家の論理そして世界資本主義の論理の〈外〉をいかに開くべきか」(16頁)。なお同書の装丁は先日急逝された桂川潤さんによる最後の仕事のひとつです。
★いっぽう、須藤さんは『人間になるということ』の「前書き」でこう書いています。「人間になるということを、人格を備えた人間になるということ、あるいは他者に対しても人格と尊厳を備えた存在としてしかるべき関わり方ができるようになることとして具体的に考えていく。そうした事柄についてキルケゴールが考えていたところを辿り、また現代の状況に置き直して考えてみたい。現在のこの国が抱える様々な問題は、煎じ詰めれば、人間になるということ、すなわち人格と尊厳に対する無理解に収斂するように思われてならないからである」(8頁)。
★異界への接続回路を必然的に含む人間の内的世界を見直すにあたっては、紀伊國屋書店さんの新刊2点、『ジェンダーと脳』と『夢を見るとき脳は』を参照したいと思います。脳科学や神経科学の最前線から、クリアーノや吉本が遠望した文明の古層と伝統を再照射するためのいくつかの視点を得られるでしょう。「私が言いたいのは、どの人の脳もそれぞれ他の人と異なる特徴を持ち、全体としてその人に特有のモザイクを形成しているということだ。〔…〕人はみな「女性的な」特徴と「男性的な」特徴のパッチワークなのだ」(『ジェンダーと脳』13頁)。「19世紀以降、科学は脳や心との関係に着目して、新しい角度から夢の問題に取り組むようになり、21世紀に入ったいま、研究はいよいよ核心に迫りつつある」(『夢を見るとき脳は』11頁)。「フロイトやユングの仕事については、従来と少し異なる視点で見ていく。〔…〕夢が創造活動を後押しする仕組み、夢で個人的な洞察を得る方法を掘り下げ、明晰夢や予知夢の世界にも足を踏み入れる。〔…〕夢は覚醒時にはできない方法で未来を予測することができる」(同書12~13頁)。
★あるいは科学とは別のかたちで深淵に向けて投錨する試みとしては、ベルンハルトの1975年の小説『Korrektur』の訳書である『推敲』が、読者を死と隣り合わせの迷宮へと連れ出してくれるでしょう。訳者あとがきによれば、本作の主人公である科学者ロイトハマーは、かのウィトゲンシュタインをモデルにしているとのことです。
★「いつだってやりすぎるのだ、そしていつも限界ぎりぎりまで突き詰めてしまう、とロイトハマー。けれども超えることはなかった。一旦超えてしまったら、何もかもおしまいだ、とロイトハマー。私たちはその時を待っている、その時という言葉には下線が引かれている。その時が来たとしても、その時が来たかはわからない。しかしその時は来る。生ある限り、限界まで集中することができる、とロイトハマーは書いている。怖がることはない。森の空地へ、ひらけたところへ」(302頁)。
★最後に、死へと傾斜する理性の陥穽と隣り合わせである現実を踏まえつつも、生きることについて現代人が学び直すとすれば、それは中村桂子さんが提示されたようなシンプルな立場に立ち返る必要があるように思います。「現代の考え方でいくと、新型コロナウイルスにしても温室効果ガスにしても、科学技術の力で問題解決をしようということになりますが、これまでのような自然を征服しようとする方法での解決はできないでしょう。〔…〕科学の知識とそれを基にした技術は重要です。けれども、もっとも大事なのは私たちの意識です。あたりまえすぎるくらいあたりまえであるために、特段意識せずにきた、「人間は生きものであり、自然の一部である」というところから始める生活様式を組み立て、それを支える自然征服型ではない科学技術に目を向けるのでなければ、問題は解決しません」(『生〔な〕る』3~4頁)。
★「まず自然の物語に耳を傾け、そこにある知恵を身に着けることです。そのとき頭に浮かぶのが、宮沢賢治です。すべての作品の最初に置かれる言葉を、「きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむ」とし、“虹や月明りからもらったお話を語る”と言っているのですから。/賢治が語る自然の中にあるさまざなま物語に耳を傾け、生きものであることを意識しながら新しい生き方を探るのは楽しい挑戦になることでしょう。競争に明け暮れて格差社会をつくるよりは、自然に秘められた知恵に学び、すべての人が本当の幸せを感じる社会をつくる方が楽しいに決まっています」(同書4頁)。