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注目新刊:ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』講談社、ほか

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『暗黒の啓蒙書』ニック・ランド著、五井健太郎訳、木澤佐登志序文、講談社、2020年5月、本体1,900円、四六判上製272頁、ISBN978-4-06-519703-5


★ついに、イギリス出身の哲学者でブロガーのニック・ランド(Nick Land, 1962-)による2012年発表のテクスト「The Dark Enlightenment(暗黒啓蒙)」が完訳されました。まず最初に言っておかなければならないのは、現代思想の主戦場はもはや紙媒体ではなくネットに移っているということです。日本語訳書に序文を寄せた木澤佐登志さんが優れたブロガーであることからもはっきりしているように、紙媒体(木澤さんはいまものすごい勢いで紙媒体にも寄稿されていますが)はもはやそのエスタブリッシュメントとしての地位を失い、ネットを後追いするしかなくなっています。「暗黒啓蒙」もまた印刷されざるネット上のテクストであり、それが日本では国内最大手の出版社が刊行する紙媒体の書籍になるわけですが、それはひとまずの代替物としては良しとしましょう。というのも「暗黒啓蒙」は長文のテクストであり、訳書では本文だけでも240頁近い分量になります。これだけ長い文書の場合、印刷された複写を手元に置いておくことは無益とは(まだ、に過ぎませんが)言えないでしょう。


★木澤さんによる序文「『暗黒の啓蒙書』への「入口」」は書名のリンク先で立ち読みできますし、「現代ビジネス」でも公開されています。木澤さんはこう書きます。「ランドはそのPART 1〔新反動主義者は出口(イグジット)へと向かう〕において、ティールやヤーヴィンら新反動主義者たちの思想を紹介しながら、そこで目指されているのは民主主義の「出口(イグジット)」へ向かうことであると要約してみせる。/すなわち、この腐敗が宿命付けられた民主制の〈外部〉を目指すこと、そして同時に民主政に代わるオルタナティヴな体制を具体的に構想すること、これこそが新反動主義の要諦なのだという」。ちなみに帯文はこうです。「民主主義と平等主義の欺瞞を暴け。資本主義を加速せよ。民主主義を棄て去り、資本主義を極限まで推し進め、〈出口〔イグジット〕〉を目指すのでなければ、真の自由は獲得できない――。“現代思想の黒いカリスマ”が放つ、禁断の書」。


★各パート冒頭には日本の読者向けに要約が付されていますので、まずはそこを通しで読んでみるのも良いと思います(中核となる部分を追うためならたったの4頁で、すべを読んでも10頁に過ぎません)。本文に戻ってランドの議論についていくためにはある程度の教養が必要にはなりますが、彼が分析する現代社会像を理解するために必要なのは、教養ではなくむしろ共感です。ランドが次のように書いていることについて共感するのはさほど難しいことではないでしょう。「民主主義というウイルスが社会を覆いつくしていくにつれて、苦心して積みかさねてきた習慣や、先を見越して思考する態度、あるいは慎重になされる人的かつ産業的な投資といったものは、その場の勢いだけの不毛な消費主義や財政上の無節制、そして「リアリティ・ショー」的な政治のサーカスに置きかえられてしまうことになる。将来は別の誰かのものになってしまうかもしれないのだとしたら、なされるべきはいまこの瞬間にそのすべてを喰らいつくしてしまうことなのだというわけである」(PART 1, 31頁)。


★加速主義を「行き過ぎた夢追い人たち」の思想と貶めるのは割と簡単かもしれませんし、議会制民主主義への絶望感や、既成秩序の崩壊と人類滅亡の予感に凡庸さを認めるのも比較的には容易でしょう。しかし、ランドの「暗黒啓蒙」の功績は、その思想内容の是非に掛かっているというよりは、彼が見せた「到来しかねない未来」のヴィジョン、その批判的可視化に存するのだろうと感じます。見えないはずのものをランドは私たちの目前に鮮やかに描いて見せた。ゆえに私たちはその未来(という名の現在)を選択することもできるし、選択しないこともできます。むろん二者択一しか私たちに残されていないのではなく、ランドの議論の中から使える武器と手ごわい武器を選別し、なおかつ「手ごわい武器」を捨てずに手元に置いてさらに改造を試みることも可能でしょう。一番ダメなのは、ランドを異端視して無視することです。ランドのニーチェ的思考実験を「西洋社会特有の病理であり、日本では通用しない」と斬って捨てるのも早計です。


★確かに、ランドが分析しているアメリカの社会状況と日本のそれとは違いますから、ランドの議論をそのままスライドさせることができるわけではありません。ゆえに、日本人の誰かが日本人向けの「暗黒啓蒙」を書くことは可能でしょう。私個人としては、3.11以後の社会状況をめぐってピーター・ティールが2004年にスタンフォード大学のシンポジウム「政治と黙示録」で行った講演「シュトラウス主義者の時代(The Straussian Moment)」(所収:Politics and Apocalypse, Michigan State University Press, 2007)に、木澤さんが序文で言及されていたことに注目したいと思います。ティール講演の論旨は木澤さんが要約されているので再説しませんが、ここで言うシュトラウス主義者という名称は、ドイツ出身のアメリカの政治哲学者レオ・シュトラウス(Leo Strauss, 1899-1973)に由来するものと見ていいかと思います。


★一部の弟子たちの政治的影響力のせいでネオコンの思想的源流のひとつと目されることがあるシュトラウスですが、シュトラウスの著書を読めばそうした解釈が誤解であることは明白です。ただし道徳重視と哲人政治への志向が保守主義や貴族主義に通底する契機がまったくないかと言えば、そこはもう少し掘り下げて分析する必要があるのだと思われます。ランドの啓蒙主義批判や現代ギリシア批判には、明示的ではないにせよ、シュトラウスの称揚する古代ギリシア思想との比較を促す回路を見出すことができるのかもしれません。


★ティールの発表を収めた『政治と黙示録』の編者であるロバート・ハミルトン=ケリーは序論の「時代の兆候を読むこと」と題された節で、カール・シュミット、レオ・シュトラウス、エリック・フェーゲリンの3人の政治哲学者を召喚します。この3人は論集において幾度となく言及されている特異点的知性です。この3名は『暗黒の啓蒙書』には出てきませんが、政治において「良かれと思ったこと」や理想が現実への落とし込みにおいて反転したり横すべりしたりして本来の意義から逸脱するような思想的事故に見舞われることがある、という観点からすると、シュミット、シュトラウス、フェーゲリンをどのように読むかということが存外の重要性を帯びてくる可能性があると思われます。あるいはここにシュペングラーやエルンスト・ブロッホも加えていいのかもしれません。つまり理想=光(啓蒙)と反転=暗黒(脱啓蒙)との落差について考えること。


★このほか最近では以下の新刊との出会いがありました。


『神々は真っ先に逃げ帰った――棄民棄兵とシベリア抑留』アンドリュー・バーシェイ著、富田武訳、人文書院、2020年5月、本体3,800円、4-6判上製296頁、ISBN978-4-409-52081-9
『文化は人を窒息させる――デュビュッフェ式〈反文化宣言〉』ジャン・デュビュッフェ著、杉村昌昭訳、人文書院、2020年5月、本体2,200円、4-6判上製140頁、ISBN978-4-409-10043-1



★『神々は真っ先に逃げ帰った』は『The Gods Left First: The Captivity and Repatriation of Japanese POWs in Northeast Asia, 1945-1956』(University of California Press, 2013)の全訳。バーシェイ(Andrew E. Barshay, 1953-)はカリフォルニア大学バークレイ校の歴史学教授で、専門は近現代日本史。既訳書に『南原繁と長谷川如是閑――国家と知識人・丸山眞男の二人の師』(宮本盛太郎監訳、ミネルヴァ書房、1995年)と、『近代日本の社会科学――丸山眞男と宇野弘蔵の射程』(山田鋭夫訳、NTT出版、2007年)があります。今回の新刊は過酷なシベリア抑留を体験した捕虜たちの精神世界を「画家の香月泰男、評論家の高杉一郎、詩人の石原吉郎を通じて描いたもの」(訳者あとがきより)。書名の由来について訳者は、著者が「満州や朝鮮の神社の「神体」が真っ先に保護され、本国に搬送された点に注目したわけである」(同)と説明しています。著者は序章で以下のように書いています。


★「天照大神と子孫、明治天皇の御神体の挑戦からの返送は、日本人の祖国帰還の最初の例となった。最初の帰還者は、その高いステータスのゆえに、兵士、現地官吏、居留民の誰よりも先に脱出させられたのである。〔…〕日本の支配が崩壊するや、植民地社会で「神々」の位置を占めた官僚や高級将校は、極めて慎重に退去が準備されていた。残る人々は放置され、死亡するか、生き残っても、よくて自分たちがいかに裕福な生活から惨めな生活に転落したかを思い知らされたのである」(19~20頁)。


★著者はこうも書いています。「私の関心事は、抑留それ自体、それに至る前史だけではなく、抑留体験者の一部――全体のうちではほんの少数――による自身の個人的回想の帰国後の出版物である。この努力、すなわち回想し、折り合いをつけ、思い出を克服さえする戦いは、それぞれの個人的・集団的文脈を持っている。これらの回想は、抑留体験をつかむ上でも、歴史を書く上でも不可欠なのである。〔…〕本書が抑留史を書く仕事への一つの貢献になればと思っている」(24頁)。


★『文化は人を窒息させる』はまもなく発売(28日取次搬入予定)。『Asphyxiante culture』(Pauvert, 1968)の全訳で、日本語版オリジナルの「付属資料」として、「無作法の居場所」(1967年パリ装飾美術館での展覧会カタログの序文)が訳出されています。意外ですが、日本でも高名なこの画家の著書が訳されるのは今回が初めてだそうです。杉村さんは訳者あとがきでこう本書を紹介しています。「彼が「文化的芸術」と呼ぶ既成の規範の枠内にとどまる芸術を批判をし、かつそうした芸術を繁茂させる背景をなす「文化という制度」を厳しく批判した乾坤一擲の快著と言える」。連続性のある断章形式で綴られる冷徹な知識人/文化人批判、国家批判は痛快というべきで、なぜもっと早く翻訳されなかったのか、不思議なくらいです。


★「私は個人主義者である。つまり私は、私の個人としての役割は社会的利害関係が引き起こすあらゆる拘束に反対することだと考えている。個人の利益は社会の利益と対立する。この二つの利益に同時に役立とうとすると、偽善と混乱に陥ることになる。国家が社会の利益を見張り、私は個人の利益を見張るということだ。しかし私は国家の顔をひとつしか知らない。警察の顔だ。政府の全省庁はこの顔しか持っていないように私には思われる。警視総監と警察官からなる文化の警察としての文化省しか私には想像できない。その顔つきはきわめて敵対的で不愉快である。〔…〕社会秩序に対立する気紛れ、独立不羈、反逆といったものは民族集団の健全性にとって最も必要なものである。集団の健全度は集団的規律への違反者の数で測ることができる。「従属」精神以上に集団を硬直させるものはない」(11~12頁)。


★「教授とは目録製作者であり、規格化推進者であり、「優位に立った」ものの確定者であり、いつどこでこの優位が生じたかを決める者である」(15頁)。


★「「社会的なもの」の増大と「個人的なもの」の衰退という近年の際立った特徴は、作家たちが投票用紙をポケットに入れて政治や法律に関心を集中することから生じている。1900年の作家たちがポケットに入れていたのは爆弾(またはパイプ)であった。近年の作家たちは法律に望みを託す。かつての作家たちは法律から逃れることしか考えていなかったのに」(16頁)。


★「今日、文化という概念は、本質的に宣伝広告的であり、宣伝広告のメカニズムによく合致した度し難く単純な作品を指し示すものとなっている。要するに、作品の価値はしだいに宣伝広告の価値に移行しているのである」(54頁)。


★「真理はひとりひとりのものとしてしか存在しない。そしてそれは注意深く保護されなくてはならない」(55頁)。


★「国家の膨大な数の係員、大学教授、論説家、注釈家、商売人、投機家、広告業者などによって構成された文化の分配装置は、農産物や工業製品の分配において利潤を貪るネットワークと同じほど巨大で寄生的な団体をなしている。芸術生産の領域においては〔…〕優先権による利潤が重要である。なぜなら、この寄生虫的分配団体は、おのれが強化されるにつれて、芸術は創造そのものよりも解釈や発見や流布が重要であると考えるようになり、しかもそういう考えを押しつけようとするからである。かくしてこの領域においては、真の生産者は芸術家ではなくて、芸術家の作品を紹介しそれを優位に立たせる者たちであるということになる」(73~74頁)。


★「これまで書いてきたことは、私がずっと以前から書きつけていたメモに基づいている。私はそこで、「長い射程」を持った概念や原理を告発し、断片的思想やベクトル(方向)としてのみ有効な「「短い」射程の原理をそれに取って代えようとした。〔…〕旋回運動をする世界にアプローチするには、回転する概念が必要なのだ」(114~115頁)。


★このように、引用するとキリがないほどこの本は警句と洞察とに満ちています。いささか古めかしい議論のように感じる向きもあるかもしれませんが、現代人はデュビュッフェの時代からさほど隔たっているわけではなく、根っこの部分の多くは変わっていないのではないでしょうか。


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