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ルソー『化学教程』連載第10回

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『化学教程』第一部
第一編 物体の諸要素とそれらの構成について
第一章 物質の原質について(続き)

29 ベッヒャーの語るこの実験を彼が行ったという証拠を、私たちはまったく持っていない。そうすると彼が実験をしなかったという証拠も私たちは持っていないことになるが、これは確かなことである。このような疑惑のうちにあって、もし〔彼の証言の〕真実らしさを示してくれるいくばくかの可能性が見出せるのであれば、ベッヒャーのこの証言は何らかの重要性をきっと持つだろう。ところで、三界には〔物体の〕要素となる原質principes matérielsがあり、これらの原質同士はしばしば類比の関係によって秩序づけられている。私があとで示すように、このような類比関係から推測して、私たちはベッヒャーの証言をともかくも妥当なものと認めることができる(1)。もっと言えば、ベッヒャーが本当に実験を行ったと仮定した上で、もし三界の諸原質が同じ性質を持ち、かつそれらが同じ効果を生み出すならば、三界の諸原質の間には、問題となっている類比どころか完全な同一性を容易に認めえる、とまで私は言いたい。そして、人々もこの同一性を認めざるをえないだろう。まず動植物について言えば、〔それらに含まれる原質同士の〕同一性は明らかである。というのも、動物の物質は植物の物質になるからであり、その逆もまた然りであるからだ。鉱物と植物についても、〔両者に含まれる原質が同一であることは〕同じように明らかである。というのも、植物に含まれるエン、土あるいはアルカリ基体base alcalineは、地中から引き出される岩エンや〔エン〕基体と全体的によく似ており、このことは〔鉱物と植物の〕エンが同じ原質、とりわけ同じガラス化土から構成されているということを示しているからである。[A:19]ベッヒャーが各界のガラスの中に見出したと称する固有の色について言えば、こういった色は私にとって依然として何よりもまして胡散臭いものである。[F:27]植物の灰から作られたガラスの緑色からは、動物界のガラスverre animalに見出せる肉体の色を連想することはできないのではないかと私はだいぶ怪訝に思っている。そもそもこれらのガラスを構成する物質の混合の違いこそが色の違いを生み出す原因なのである。ただしガラス化原質principe vitrifiableはどの物質においても同じものである。この物質〔ガラス化原質〕に関するシュタール氏の説明に関しては、いずれもっと詳しく見てみることにしよう。

(1)ルソーの余白書込:エナメルは羊の骨によって作られる。すなわち、凹面鏡を用いて動物の骨をガラス化させることによって作られる。
 仕事の苦労を伝える「人骨は陶器の中に含まれる成分のひとつである」という日本の諺の起源をさかのぼることも無駄ではないだろう。
 余白書込に関する訳注:手稿の形式上、この余白の書込に関して二つの問題がある。第一の問題は、エナメルに関するこの書込が本文のどこにかかっているかである。手稿を見る限り、ルソーは本文を書いた後、しばらく経ってこの書込を行っている(本文とインクの色が違う)。第二の問題は、書込を挿入するための記号が本文中にないことである。したがって、内容からこの書込が注の役割を果たす箇所を推測しなければならない。訳者は、ガラス化に関する実験を伝えるベッヒャーの証言についてルソー本人が検討している文章全体に対応すると考える。というのも、動物の骨を燃やすこことによってエナメルが得られるという事実は、ベッヒャーの言う三界に共通して存在するガラス化土の存在の可能性を示唆するからである。よって、この位置にルソーが注をつけたと推測した。
 次に言及すべきは注の内容的問題である。ルソーがここで「エナメル」とみなしているものは陶磁器に用いられる釉薬(陶磁器にガラス状の表面を作る上薬)であり、それは凹面鏡を使って太陽光線を集めその熱で羊の骨を燃やし、灰にすることによって得られるもののようである。ちなみに『化学教程』から40年後に出版された年刊学術雑誌『自然学、博物誌、技芸に関する考察』第31巻には、石灰化させ熱湯で洗った「羊の骨」を長時間火にかけることによって白色のエナメル物質が得られる実験が記録されている(Observations sur la physique, sur l’histoire naturelle et sur les arts, t. XXXI, Paris, Bureau du Journal de Physique, 1787, p. 129)。この釉薬に関する書込からも分かるように、ルソーの伝える「ガラス化vitrification」とは、ある物体が燃焼し、その物体に含まれているガラス化土が流出して透明な皮膜が作られる過程のことである。
 ルソーは「羊の骨」の釉薬の問題から、陶磁器の製法に関する日本の諺を紹介している。この諺とほぼ同一の文がケンペル(Engelbert Kæmpfer, 1651-1716)の『日本誌』仏訳に出てくる(Kæmpfer, Histoire du japon, livre V, chap. III, t. II, La Haye, P. Gosse & J. Neaulme, 1729, p. 168)。すなわち、「人骨は陶器の中に含まれる成分である les os humains sont des ingrédients qui entrent dans la Porcelaine」という諺である。おそらく、ルソーはこの仏訳を参照してこの注を執筆したと考えられる。『日本誌』で話題となっているのは、志田焼用の粘土を白くするための〈骨折りな仕事〉であり、これは骨灰を使って白い磁器を作る際に人骨が用いられているのではないかというヨーロッパにおける日本のイメージが背景にある。この〈骨折りな仕事〉のことを、ルソーは動物の骨をガラス化させるという困難な作業のことと考えており、このガラス化の難しさが元となって、問題の諺ができたのではないかと考えているようである。
 以下では、『日本誌』邦訳の(1779年に刊行されたドイツ語版を底本とし、『江戸参府旅行日記』と題され抄訳となっている)当該箇所を引用しておく。「さて、われわれはさらに半時間進んで、嬉野のもう一方の地区を過ぎ、さらに二時間、(左手に人家の続くところを通り過ぎて)塩田村に着き、そこで昼食をとった。/この土地では粘土で作った非常に大きな一種の壺が焼かれ、ハンブルクの壺と同じように、水瓶として使われている。/ヨーロッパの人々の間では、マルタン〔ビルマのマルタバン湾に臨む同名の街をいうか〕という国名からマルトアンという名で呼ばれていて、同地〔引用者注:マルタン〕でたくさん作られ、インド中に売られるのである。塩田からは、果てしない平野を東方へと流れ島原湾に注ぐちょうどよい川があるので、これらの壺は舟で運ばれ、他の地方に送られる。/この地方や嬉野,それに続く丘陵、さらに肥前国の至る所の丘や山の多くの場所で見つけられる油っこい白土から、日本の陶器が作られる。この土はそれ自体かたくてきれいであるが、しきりにこねたり引きちぎったり、混ざりものを除いてはじめて完全に加工される。それゆえ、美しい陶器を作るには「骨が折れる」という諺が生まれた」(ケンペル『江戸参府旅行日記』齋藤信訳、東洋文庫/平凡社、1977年、84頁)。
 上記の「骨が折れる」という訳文は、底本であるドイツ語版の「美しい陶器を作るには人骨が必要である」という文の意訳であろう(Engelbert Kämpfer, Geschichte und Beschreibung von Japan, aus den Originalhandschriften des Verfassers, 2. Bd,Lemgo, Meyer, 1779, S. 203)。

・・・続きは近日中に特設サイトで公開開始いたします。


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