★まず、まもなく発売となる紀伊國屋書店さんの注目新刊2点をご紹介します。
『人体はこうしてつくられる――ひとつの細胞から始まったわたしたち』ジェイミー・A・デイヴィス著、橘明美訳、紀伊國屋書店、2018年11月、本体2,500円、46判上製444頁、ISBN978-4-314-01164-8
『10億分の1を乗りこえた少年と科学者たち――世界初のパーソナルゲノム医療はこうして実現した』マーク・ジョンソン/キャスリーン・ギャラガー著、梶山あゆみ訳、井元清哉解説、紀伊國屋書店、2018年11月、本体1,800円、 46判並製324頁、ISBN978-4-314-01165-5
★デイヴィス『人体はこうしてつくられる』は、『Life Unfolding: How the human body creates itself』(Oxford University Press, 2014)の訳書です。帯文に曰く「直径0.1mmの細胞が、思考し言葉を操る生物になるまで――未解明領域の残る《ヒトの発生》という複雑な生命現象のプロセスを、一般読者へ向けてやさしく解説する」と。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。本書を驚きとともに読んだという訳者はこう紹介しています。「そもそも生物の発生は、わたしたちがふつうに思い描く「つくる」とはまったく異質の事象である。そこには詳細は設計図もなければ、現場監督もおらず、既存の機械や工具を使えるわけでもない。たった一つから始まって、最終的に兆の単位まで増えるヒト細胞のどれ一つとして、「人体の完成形はこうです」という全体像を知らないし、どこか外部から指示がくるわけでもない。では人体は、いったいどうやってつくられていくのだろうか?/それを専門外の読者にもわかるように教えてくれるのが本書」である、と(訳者あとがき、377頁)。著者自身もこう書いています。「あなたがあなた自身の始まりを知りたいなら、人が物を作るやり方から類推するのではなく、まったく違う世界へ足を踏み出さなければならない。〔…〕それはあなたがまだ足を踏み入れたことのない領域への旅であり、既成概念を捨て、新しい考え方を受け入れていく旅になる」(29頁)。
★ジョンソン/ギャラガー『10億分の1を乗りこえた少年と科学者たち』は、『One in a Billion: The Story of Nic Volker and the Dawn of Genomic Medicine』(Simon & Schuster、2016)の訳書。帯文はこうです。「2007年5月、ものを食べると腸に穴が開き、皮膚から便が漏れるという奇病を患った2歳の少年がウィスコンシン小児病院に運ばれる。“10億人にひとり”レベルの症例で診断名もつかない。このままでは命が持たないと思われた。万策つきた医師たちは2009年、最後の手段として臨床の場では世界に例のないゲノム解析により、原因遺伝子を突きとめるという大胆な試みに踏み切る」。すでに十分ドラマティックですが、本書の中身はさらにドラマに満ち溢れています。多大な費用を投じた少年のエクソーム解析の結果、X染色体の遺伝子変異による「XIAP欠損症」が奇病の正体だと分かります。約32億個の塩基対のうちたったひとつが間違っていたことに起因する難病だったわけでしたが、少年は骨髄移植によって健康を取り戻しました。その道のりには涙も枯れはてるような苦しみと困難が次々に少年とその家族に襲い掛かります。医師たちと学者たちの奔走と努力と協力によって、難病治療の突破口が開けたことは感動的ですらあります。DNA解析とゲノム医療の未来を強く感じさせる一冊です。
+++
★次に、発売済の新刊で最近出会った書目を列記します。
『日本人の自然観』鈴木貞美著、作品社、2018年10月、本体5,800円、四六判上製786頁、ISBN978-4-86182-722-8
『帝国日本の科学思想史』坂野徹/塚原東吾編著、勁草書房、2018年10月、本体7,000円、A5判上製448頁、ISBN978-4-326-10271-6
★鈴木貞美『日本人の自然観』は、帯文に曰く「日本人はいつから自然を愛したのか。科学史と人文史におる画期的大成」と。序章にはこう書かれています。「日本人の自然観を、今日、改めて問いなおそうとするのは、二〇世紀後期の科学=技術(=は区別と関連づけ)の発展が、洋の東西を問わず、古代から存続してきた「自然の恒久性」の観念を確実に破壊しつつあり、それに伴い、「日本人の自然観」についての見方にも大きな転換が見られるようになったからだ」(3頁)。「本書は、読者の関心により、どこから読んでもらってもよい。が、全体は、今日の科学史をはじめとする学術史の国際的展開を見渡し、また今日、要請されている学術の文・理統合的推進という課題にこたえるべく、「方法の発見」を意識して著してゆくつもりである」(28頁)。目次詳細は以下の通りです。
序章 今日、自然観を問う意味
第一章 自然観の現在
第二章 二〇世紀末、人文系の自然観
第三章 「日本人」と「自然」と
第四章 東西の科学および科学観
第五章 中国の自然観――道・儒・仏の変遷
第六章 古代神話とうたの自然観
第七章 中古の自然観
第八章 中世の自然観
第九章 江戸時代の自然観
第一〇章 日本近代の自然観
第一一章 「自然を愛する民族」説の由来
第一二章 寺田寅彦「日本人の自然観」
第一三章 敗戦後から今日へ
あとがき
注
事項索引
外国人名(含団体)・書名および作品名索引
日本人名・書名索引
★「生産力の向上にかけ、自然破壊を続けるか、それとも自然保護にまわるか、という選択の岐路に立たされたまま、長期的ヴィジョンを欠いたまま、そのときどきの契機に振りまわされてきた日本の政治と思想のジグザグ〔…〕文化ナショナリズムの動きと密接に関係する、日本人の自然観が、迷走に迷走を重ねているのも、無理はないように思えてくる、だが、そうであればこそ、学は、その立て直しをはなるべきだろう」(708頁)。カヴァーの装画に長谷川等伯の「松林図屏風」をあしらったその静かなたたずまいとは対照的な、熱のこもった論述に圧倒されます。「結局のところ、わたしの意識の底に潜んでいるのは、人間の生存権の問題なのだと思う」(あとがき、728頁)。そうしるす著者の感覚は読者にとっても共感できるものではないでしょうか。
★『帝国日本の科学思想史』は、勁草書房より刊行されてきた、金森修(かなもり・おさむ:1954-2016)さんの編書3点――『昭和前期の科学思想史』2011年、『昭和後期の科学思想史』2016年、『明治・大正期の科学思想史』2017年――の続編として構想されたものとのことです。あとがきにはこう説明されています。「晩年の金森さんが力を入れ、思い入れをもっていた「日本の科学思想史」シリーズの最終巻となるのが本書である。当初は本人が編者となって刊行することを構想していたが、病状の悪化を受け、16年春に企画は編者のふたりに委ねられることになった。編者に名はないが、本来なら本書もまた金森修編で刊行されていたはずの著作である」。8本の論考に、編者二氏による序章が付されています。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。「本書ではとくに「日本」が拡大し帝国となった時代に、科学技術をどのように見てきたのか、そのための制度をいかに設計してきたのか、そしてそれをどのように運用してきたのかを検証する」(2頁)と序章にあります。
★さらに次の発売済新刊との出会いもありました。
『ホワイト・トラッシュ――アメリカ低層白人の四百年史』ナンシー・アイゼンバーグ著、渡辺将人監訳、富岡由美訳、東洋書林、2018年10月、本体4,800円、A5判上製480頁、ISBN978-4-88721-825-3
『西部劇論――その誕生から終焉まで』吉田広明著、作品社、2018年10月、本体4,600円、A5判上製512頁、ISBN978-4-86182-724-2
『G・H・ミード著作集成――プラグマティズム・社会・歴史』G・H・ミード著、植木豊編訳、作品社、2018年10月、本体4,600円、四六判上製756頁、ISBN978-4-86182-701-3
『マルセル・デュシャンとは何か』平芳幸浩著、河出書房新社、2018年10月、本体2,500円、46判並製304頁、ISBN978-4-309-25609-2
★アイゼンバーグ『ホワイト・トラッシュ』は『White Trash: The 400-Year Untold History of Class in America』(Viking, 2016)の全訳。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。渡辺将人さんによる解説の言葉を借りると、ホワイト・トラッシュとは「アメリカの貧困層に属する下層の白人のことで〔…〕1850年代に本格的に定着したアメリカ英語」であり、本書はそれを主題として「アメリカの階級史を解剖する」もの。この国の建国史に精通した歴史家ならではの説得的な筆致で、アメリカにおいて「白人最下層の階級が常に存在してきた」ことが赤裸々に分析されています。平等を掲げた国民的自負によって抑圧され、否認されてきた主に南部やアパラチア地方の人々の、格差を伴なった長い長い歴史です。著者ナンシー・アイゼンバーグ(Nancy Isenberg, 1958-)はルイジアナ州立大学教授の歴史学者で、著書が日本語訳されるのは初めて。『思いやりのある子どもたち』(北大路書房、1995年)など発達心理学の訳書があるアリゾナ州立大学教授ナンシー・アイゼンバーグ(Nancy Eisenberg, 1950-)とは別人です。
★吉田広明『西部劇論』は、ハリウッド映画の西部劇670作品を紹介する書き下ろし長篇評論です。ジョン・フォードからクリント・イーストウッドまで、扱う登場人物は1000名以上。200点の参考図版を収録しています。巻末には、アメリカ初の西部劇とされる1903年の『大列車強盗』から1980年の『ロング・ライダーズ』までを個別に解説した「西部劇主要作品解説」や関連年表、作品名索引と人名索引を完備。全9章の章立てを以下に列記します。
第一章 初期西部劇――ブロンコ・ビリー/フォード/ウィスター/ハート
第二章 古典的西部劇――ウォーショー/ハサウェイ/フォード
第三章 西部劇を変えた男――ウィリアム・A・ウェルマン
第四章 フィルム・ノワール=西部劇――バザン/バーネット/ウォルシュ/マン/ブッシュ/ヨーダン
第五章 神話と化す西部劇――フォード/レイ
第六章 不透明と透明の葛藤――フォード/ベティカー/ホークス/ケネディ/デイヴス
第七章 西部劇の黄昏――ペキンパー/ペン/アルトマン/ヘルマン
第八章 オルタナティヴ西部劇――ポロンスキー/アルドリッチ/カウフマン/ミリアス/チミノ/ラヴェッチ=フランク/ベントン
第九章 西部劇に引導を渡した男――クリント・イーストウッド
★『G・H・ミード著作集成』は、9本の「既発表論文・草稿選」と、主著の講義録『精神・自我・社会』、講義草稿『現在というものの哲学』の3つの柱からなる主要論考集。2段組で本文だけでも700頁近い大冊ですが、分冊せずにまとめて1冊としたところがポイントです。人名索引と事項索引あり。編訳者の植木さんはこれまでに、デューイ『公衆とその諸問題』(ハーベスト社、2010年)や『プラグマティズム古典集成――パース、ジェイムズ、デューイ』(作品社、2014年)を上梓しておられます。今回の本の訳者解説「G・H・ミードの百年後――21世紀のミード像のために」ではこう綴っておられます。「21世紀ミード像というものがあるとすれば、それは20世紀ミード像の語彙と概念を突き抜けたところで描かれるものとなるだろう」(699頁)。なお、9本の「既発表論文・草稿選」の明細を以下に列記します。論文名(公刊年)で、このたび初めて翻訳されたものには※印を末尾に付します。なお、ミードの「国を志向する精神と国際社会を志向する精神」が触発を受けたところのウィリアム・ジェイムズの論文「戦争の道徳的等価物」(1910年)も本書では併せて訳出されています。
特定の意味を有するシンボルの行動主義的説明(1922年)
科学的方法と道徳科学(1923年)
自我の発生の社会的な方向付け(1925年)
知覚のパースペクティヴ理論(没後出版:1938年。執筆年代不詳)※
諸々のパースペクティヴの客観的実在性(1927年)
プラグマティズムの真理理論(1929年)
歴史と実験的方法(没後出版:1938年。執筆年代不詳)※
過去というものの性質(1929年)
国を志向する精神と国際社会を志向する精神(1929年)
★平芳幸浩『マルセル・デュシャンとは何か』は書き下ろし入門書。先ごろカルヴィン・トムキンズによるデュシャンへのインタヴュー本『マルセル・デュシャン アフタヌーン・インタヴューズ』を手掛けたばかりの河出書房新社の編集者Yさんが担当されています。帯文に引かれた森村泰昌さんといとうせいこうさんの推薦文は書名のリンク先でご確認いただけます。著者の平芳幸浩(ひらよし・ゆきひろ:1967-)さんは『マルセル・デュシャンとアメリカ――戦後アメリカ美術の進展とデュシャン受容の変遷』(ナカニシヤ出版、2016年)を上梓されており、四半世紀にわたってデュシャンの研究を続けてこられた方です。今回の新著は「基本的に時間軸に沿いながら、重要な六つのトピックに分けて、その全貌を紹介しようとするもの」(9頁)。目次詳細を以下の掲出します。
はじめに
第1章 画家としてのデュシャン――遅れてきたキュビスト
第2章 レディメイドを発明する
第3章 「花嫁」と「独身者」の世界
第4章 「アート」ではない作品を作ることは可能か
第5章 アートとチェス――Iとmeのちょっとしたゲーム
第6章 美術館に投げ込まれる「遺作」――現代アートとデュシャン
マルセル・デュシャンをもっと知るために――日本語で読めるデュシャン関連書籍一覧
あとがき
註
図版一覧
★ミードは「I」と「me」の融合について語りますが(『精神・自我・社会』1934年、第四部「社会」第35章「社会活動における「I」と「me」の融合」487~495頁)、平芳さんはデュシャンの1920~40年代における「Iとmeのちょっとしたゲーム」(211頁)について言及しています。「相手の期待をはぐらかしたり、想定される反応の裏をかいたり、とデュシャンはアイロニカルなゲームを演じ続けたのである。〔…〕後年このようなアイロニカルな身振りをデュシャン自身は「Iとmeのちょっとしたゲーム」とも呼んだのであった。この「Iとmeのちょっとしたゲーム」つまり自己と自己像が演じる大局のような様相を、デュシャン自身が積極的に作り出していくのもまた1920年代のことであった」(210~211頁)。さらに後段ではデュシャンにおける「Iとmeの間のアンフラマンスな差異」(237頁)が解説されます。「アンフラマンスの例はどれも身体的であるがゆえに官能的である。〔…〕デュシャンが微細なズレや遅延を感じ取ろうとしたものたちは、それがまさしく人間の認知を越えている(当然下方に)がゆえに、身体的なある種の「ざわめき」のようなものとして立ち現れてくるのである」(同頁)。
★ミードの場合、Iとmeの融合は、宗教や愛国心における高揚感、チームワークにおける一体感などに見られるもので、「社会的状況における「I」と呼んできた行為作用自体は、全体を統一する源泉であるのに対して、「me」は、この作用行為の自己表現を可能にする社会的状況である」(494頁)と説明されます。「音楽においては、関連する情動的反応の点からみて、おそらく何等かの類の社会的状況がつねにある。音楽のもつ高揚感は、こうした情動的か前に対する関連性を有していると思われる。「I」と「me」の融合という考えは、こうした高揚感を説明する上で、非常に適切な土台となる。私が思うに、行動主義的心理学は、こうした美学理論の発展に絶好の機会となる。美的経験において反応が有する意味作用は、絵画批評家や建築批評家によってすでに強調されている」(同頁)。
★ミード(1863-1931)とデュシャン(1887-1968)がともに、社会や美的経験についてそれぞれの立場から思索を深めていたことには、何かしらの同時代性や、地理的経済的背景の相違があったと言えるでしょうか。一方は巨視的に一体感や高揚感に注目し、他方は微視的に差異=ズレと官能性に着目。思想史的探究が必要かもしれません。
+++
★最後にここ最近の雑誌の中からいくつか取り上げます。
『現代思想2018年11月号 特集=「多動」の時代――時短・ライフハック・ギグエコノミー』青土社、2018年10月、本体1,400円、A5判並製230頁、ISBN978-4-7917-1373-8
『文藝 2018年冬季号』河出書房新社、2018年10月、本体1,300円、A5判並製680頁、ISBN978-4-309-97957-1
『フィルカル Vol.3, No.2』ミュー、2018年9月、本体1,500円、A5判並製370頁、ISBN978-4-943995-20-3
『兜太 TOTA vol.1〈特集〉一九一九 私が俳句』藤原書店、2018年9月、本体1,200円、A5並製200頁、ISBN978-4-86578-190-8
★『現代思想2018年11月号 特集=「多動」の時代』は、伊藤亜紗さんと貴戸理恵さんの討議「動きすぎる体/動かない体の〈コミュニケーション〉――吃音と不登校の交差点」と、ドミニク・チェンさんと若林恵さんの討議「コンヴィヴィアリティを促す「共話」の力」をはじめ、松本卓也さんの「ADHDの精神病理についてのノート』や、スージー・ワイズマンによるデヴィッド・グレーバーへのインタビュー「ブルシット・ジョブの上昇」などが読めます。「ブルシット・ジョブ」(=クソどうでもいい仕事)というのは、グレーバーが今年上梓した最新著『Bullshit Jobs: A Theory』(Simon & Schuster, 2018)の題名でもあります。本作についてはすでに日本語でいくつかの紹介記事をネット上で読むことができますが、このインタヴューの解題においても酒井隆史さんが長い紹介文を寄せておられます。同書は岩波書店から訳書が刊行される予定のようです。ちなみに酒井さんはグレーバーの訳書『官僚制のユートピア』(以文社、2017年)でbullshit jobsを「クソしょうもない仕事」とお訳しになっておられます。
★『文藝 2018年冬季号』では第55回文藝賞の受賞作2篇が掲載。また「新発見 唐十郎幻の第一作」として小説「懶惰の燈篭」(42枚)とシナリオ「幽閉者は口をあけたまま沈んでいる」(64枚)が掲載。山本貴族光さんの連載「季評 文態百版」は第3回で2018年6月から8月を観察。同誌秋号に掲載され、今般単行本としても刊行された庄野さんの「ウラミズモ奴隷選挙」についても言及があります。庄野さんはTPP反対派であり、この小説もTPP批准後の某国とその某国より独立した女性だけの国が物語の舞台です。庄野さんは単行本の前書きでTPPを「恐怖のメガ自由貿易」であり、「民を奴隷にし、国土を植民地にする。国益を叩き売り、日本を汚染物質と病気まみれにさせていく。弱いものから死なせて「邪魔な人間」をがんがん殺していく。そして全ての金を外国に持ち去ってしまう。田畑も海も林も、山も森も、国民から強奪する、そうです! これこそがメガ自由貿易というもの。悪魔の最終兵器〔…〕人喰い条約」(9~10頁)であると糾弾しています。『ウラミズモ奴隷選挙』は小説ではありますが、人文書でナオミ・クラインやデヴィッド・グレーバーらと一緒に販売してもおかしくない気がしますし、フェミニズムの棚でも異彩を放つのではないかと想像します。現代日本の病根に迫る重要作です。
★『フィルカル Vol.3, No.2』は3月に発売された前号よりわずか12頁ほど総頁数が減ったもののそれでも例年以上に分厚くなりつつあり、誌面の充実と発展を実感させます。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。小特集は「スポーツ」。翻訳ではルヴフ=ワルシャワ学派のカジミエシュ・トファルドフスキ(Kazimierz Twardowski, 1866-1938)のテクスト3篇が掲載されています。「ポーランド国民哲学についてのもうひとつの小論」(1911年)、「論理の共用について」(1920年)、「もっと哲学を!」(1935年)。中井杏奈(なかい・あんな:1985-)さんによる翻訳と懇切な解説による第1回掲載で、全2回を予定しているとのことです。なお、同号の発売を記念して、来月以下の通りイベントが行われます。
◎長門裕介×松本大輝トークセッション「スポーツの哲学へのいざない」
日時:2018年11月7日(水)19:00開場 19:30開演
場所:ジュンク堂書店池袋本店 4F 喫茶コーナー
料金:1,000円(ドリンク付き。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いください)
予約:事前のご予約が必要です。ジュンク堂書店池袋本店1階サービスコーナーもしくは書店お電話(03-5956-6111)までお願いいたします。
内容:最新の哲学で文化を分析する雑誌『フィルカル』。その最新号では「スポーツ」を特集しています。それにちなみ、この刊行記念イベントではスポーツの哲学に、倫理学と美学の観点から迫ります。いい試合とは何か? フェアプレーとは? スポーツとアートの違いは? プレーの華麗さとは? そうした問いの哲学的な分析の入口へと、倫理学と美学の俊英が、漫画や実際の試合などの実例を通してご案内します。
★『兜太 TOTA vol.1〈特集〉一九一九 私が俳句』は今年2月に98歳でお亡くなりになった俳人、金子兜太さんの名前を誌名に掲げた雑誌の創刊号です。『存在者 金子兜太』(藤原書店、2017年)の執筆参加者により、金子さんの生前から企画され、金子さん自身の賛同も得ていたものとのこと。金子さんの最晩年の戦場体験語り部としての活動に寄り添ってきた黒田杏子さんが編集主幹をつとめておられます。その黒田さんの「創刊のことば」によれば、金子さんの「巨きな創作世界とその生き方を、皆さまとご一緒に学んでゆきたいと思います」と。巻頭には金子さんの最後の一句とともにこんな発言が引かれています。「なぜ戦争はなくならないのか。一言で答えさせて下さい。「物欲」の逞しさです。あらゆる欲のうちで最低最強の「欲」ですが、それだけにもっとも制御不可能、且つ付和雷同を生みやすい欲と見ています。そこに人間の暮しが、武力依存を募らせる因もある」(初出:『短歌』2017年8月号別冊付録「緊急寄稿 歌人・著名人に問う なぜ戦争はなくならないのか」)。なお、同じく9月には金子さんの俳誌「海程」の後継誌「海原」も創刊されています。
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『人体はこうしてつくられる――ひとつの細胞から始まったわたしたち』ジェイミー・A・デイヴィス著、橘明美訳、紀伊國屋書店、2018年11月、本体2,500円、46判上製444頁、ISBN978-4-314-01164-8
『10億分の1を乗りこえた少年と科学者たち――世界初のパーソナルゲノム医療はこうして実現した』マーク・ジョンソン/キャスリーン・ギャラガー著、梶山あゆみ訳、井元清哉解説、紀伊國屋書店、2018年11月、本体1,800円、 46判並製324頁、ISBN978-4-314-01165-5
★デイヴィス『人体はこうしてつくられる』は、『Life Unfolding: How the human body creates itself』(Oxford University Press, 2014)の訳書です。帯文に曰く「直径0.1mmの細胞が、思考し言葉を操る生物になるまで――未解明領域の残る《ヒトの発生》という複雑な生命現象のプロセスを、一般読者へ向けてやさしく解説する」と。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。本書を驚きとともに読んだという訳者はこう紹介しています。「そもそも生物の発生は、わたしたちがふつうに思い描く「つくる」とはまったく異質の事象である。そこには詳細は設計図もなければ、現場監督もおらず、既存の機械や工具を使えるわけでもない。たった一つから始まって、最終的に兆の単位まで増えるヒト細胞のどれ一つとして、「人体の完成形はこうです」という全体像を知らないし、どこか外部から指示がくるわけでもない。では人体は、いったいどうやってつくられていくのだろうか?/それを専門外の読者にもわかるように教えてくれるのが本書」である、と(訳者あとがき、377頁)。著者自身もこう書いています。「あなたがあなた自身の始まりを知りたいなら、人が物を作るやり方から類推するのではなく、まったく違う世界へ足を踏み出さなければならない。〔…〕それはあなたがまだ足を踏み入れたことのない領域への旅であり、既成概念を捨て、新しい考え方を受け入れていく旅になる」(29頁)。
★ジョンソン/ギャラガー『10億分の1を乗りこえた少年と科学者たち』は、『One in a Billion: The Story of Nic Volker and the Dawn of Genomic Medicine』(Simon & Schuster、2016)の訳書。帯文はこうです。「2007年5月、ものを食べると腸に穴が開き、皮膚から便が漏れるという奇病を患った2歳の少年がウィスコンシン小児病院に運ばれる。“10億人にひとり”レベルの症例で診断名もつかない。このままでは命が持たないと思われた。万策つきた医師たちは2009年、最後の手段として臨床の場では世界に例のないゲノム解析により、原因遺伝子を突きとめるという大胆な試みに踏み切る」。すでに十分ドラマティックですが、本書の中身はさらにドラマに満ち溢れています。多大な費用を投じた少年のエクソーム解析の結果、X染色体の遺伝子変異による「XIAP欠損症」が奇病の正体だと分かります。約32億個の塩基対のうちたったひとつが間違っていたことに起因する難病だったわけでしたが、少年は骨髄移植によって健康を取り戻しました。その道のりには涙も枯れはてるような苦しみと困難が次々に少年とその家族に襲い掛かります。医師たちと学者たちの奔走と努力と協力によって、難病治療の突破口が開けたことは感動的ですらあります。DNA解析とゲノム医療の未来を強く感じさせる一冊です。
+++
★次に、発売済の新刊で最近出会った書目を列記します。
『日本人の自然観』鈴木貞美著、作品社、2018年10月、本体5,800円、四六判上製786頁、ISBN978-4-86182-722-8
『帝国日本の科学思想史』坂野徹/塚原東吾編著、勁草書房、2018年10月、本体7,000円、A5判上製448頁、ISBN978-4-326-10271-6
★鈴木貞美『日本人の自然観』は、帯文に曰く「日本人はいつから自然を愛したのか。科学史と人文史におる画期的大成」と。序章にはこう書かれています。「日本人の自然観を、今日、改めて問いなおそうとするのは、二〇世紀後期の科学=技術(=は区別と関連づけ)の発展が、洋の東西を問わず、古代から存続してきた「自然の恒久性」の観念を確実に破壊しつつあり、それに伴い、「日本人の自然観」についての見方にも大きな転換が見られるようになったからだ」(3頁)。「本書は、読者の関心により、どこから読んでもらってもよい。が、全体は、今日の科学史をはじめとする学術史の国際的展開を見渡し、また今日、要請されている学術の文・理統合的推進という課題にこたえるべく、「方法の発見」を意識して著してゆくつもりである」(28頁)。目次詳細は以下の通りです。
序章 今日、自然観を問う意味
第一章 自然観の現在
第二章 二〇世紀末、人文系の自然観
第三章 「日本人」と「自然」と
第四章 東西の科学および科学観
第五章 中国の自然観――道・儒・仏の変遷
第六章 古代神話とうたの自然観
第七章 中古の自然観
第八章 中世の自然観
第九章 江戸時代の自然観
第一〇章 日本近代の自然観
第一一章 「自然を愛する民族」説の由来
第一二章 寺田寅彦「日本人の自然観」
第一三章 敗戦後から今日へ
あとがき
注
事項索引
外国人名(含団体)・書名および作品名索引
日本人名・書名索引
★「生産力の向上にかけ、自然破壊を続けるか、それとも自然保護にまわるか、という選択の岐路に立たされたまま、長期的ヴィジョンを欠いたまま、そのときどきの契機に振りまわされてきた日本の政治と思想のジグザグ〔…〕文化ナショナリズムの動きと密接に関係する、日本人の自然観が、迷走に迷走を重ねているのも、無理はないように思えてくる、だが、そうであればこそ、学は、その立て直しをはなるべきだろう」(708頁)。カヴァーの装画に長谷川等伯の「松林図屏風」をあしらったその静かなたたずまいとは対照的な、熱のこもった論述に圧倒されます。「結局のところ、わたしの意識の底に潜んでいるのは、人間の生存権の問題なのだと思う」(あとがき、728頁)。そうしるす著者の感覚は読者にとっても共感できるものではないでしょうか。
★『帝国日本の科学思想史』は、勁草書房より刊行されてきた、金森修(かなもり・おさむ:1954-2016)さんの編書3点――『昭和前期の科学思想史』2011年、『昭和後期の科学思想史』2016年、『明治・大正期の科学思想史』2017年――の続編として構想されたものとのことです。あとがきにはこう説明されています。「晩年の金森さんが力を入れ、思い入れをもっていた「日本の科学思想史」シリーズの最終巻となるのが本書である。当初は本人が編者となって刊行することを構想していたが、病状の悪化を受け、16年春に企画は編者のふたりに委ねられることになった。編者に名はないが、本来なら本書もまた金森修編で刊行されていたはずの著作である」。8本の論考に、編者二氏による序章が付されています。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。「本書ではとくに「日本」が拡大し帝国となった時代に、科学技術をどのように見てきたのか、そのための制度をいかに設計してきたのか、そしてそれをどのように運用してきたのかを検証する」(2頁)と序章にあります。
★さらに次の発売済新刊との出会いもありました。
『ホワイト・トラッシュ――アメリカ低層白人の四百年史』ナンシー・アイゼンバーグ著、渡辺将人監訳、富岡由美訳、東洋書林、2018年10月、本体4,800円、A5判上製480頁、ISBN978-4-88721-825-3
『西部劇論――その誕生から終焉まで』吉田広明著、作品社、2018年10月、本体4,600円、A5判上製512頁、ISBN978-4-86182-724-2
『G・H・ミード著作集成――プラグマティズム・社会・歴史』G・H・ミード著、植木豊編訳、作品社、2018年10月、本体4,600円、四六判上製756頁、ISBN978-4-86182-701-3
『マルセル・デュシャンとは何か』平芳幸浩著、河出書房新社、2018年10月、本体2,500円、46判並製304頁、ISBN978-4-309-25609-2
★アイゼンバーグ『ホワイト・トラッシュ』は『White Trash: The 400-Year Untold History of Class in America』(Viking, 2016)の全訳。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。渡辺将人さんによる解説の言葉を借りると、ホワイト・トラッシュとは「アメリカの貧困層に属する下層の白人のことで〔…〕1850年代に本格的に定着したアメリカ英語」であり、本書はそれを主題として「アメリカの階級史を解剖する」もの。この国の建国史に精通した歴史家ならではの説得的な筆致で、アメリカにおいて「白人最下層の階級が常に存在してきた」ことが赤裸々に分析されています。平等を掲げた国民的自負によって抑圧され、否認されてきた主に南部やアパラチア地方の人々の、格差を伴なった長い長い歴史です。著者ナンシー・アイゼンバーグ(Nancy Isenberg, 1958-)はルイジアナ州立大学教授の歴史学者で、著書が日本語訳されるのは初めて。『思いやりのある子どもたち』(北大路書房、1995年)など発達心理学の訳書があるアリゾナ州立大学教授ナンシー・アイゼンバーグ(Nancy Eisenberg, 1950-)とは別人です。
★吉田広明『西部劇論』は、ハリウッド映画の西部劇670作品を紹介する書き下ろし長篇評論です。ジョン・フォードからクリント・イーストウッドまで、扱う登場人物は1000名以上。200点の参考図版を収録しています。巻末には、アメリカ初の西部劇とされる1903年の『大列車強盗』から1980年の『ロング・ライダーズ』までを個別に解説した「西部劇主要作品解説」や関連年表、作品名索引と人名索引を完備。全9章の章立てを以下に列記します。
第一章 初期西部劇――ブロンコ・ビリー/フォード/ウィスター/ハート
第二章 古典的西部劇――ウォーショー/ハサウェイ/フォード
第三章 西部劇を変えた男――ウィリアム・A・ウェルマン
第四章 フィルム・ノワール=西部劇――バザン/バーネット/ウォルシュ/マン/ブッシュ/ヨーダン
第五章 神話と化す西部劇――フォード/レイ
第六章 不透明と透明の葛藤――フォード/ベティカー/ホークス/ケネディ/デイヴス
第七章 西部劇の黄昏――ペキンパー/ペン/アルトマン/ヘルマン
第八章 オルタナティヴ西部劇――ポロンスキー/アルドリッチ/カウフマン/ミリアス/チミノ/ラヴェッチ=フランク/ベントン
第九章 西部劇に引導を渡した男――クリント・イーストウッド
★『G・H・ミード著作集成』は、9本の「既発表論文・草稿選」と、主著の講義録『精神・自我・社会』、講義草稿『現在というものの哲学』の3つの柱からなる主要論考集。2段組で本文だけでも700頁近い大冊ですが、分冊せずにまとめて1冊としたところがポイントです。人名索引と事項索引あり。編訳者の植木さんはこれまでに、デューイ『公衆とその諸問題』(ハーベスト社、2010年)や『プラグマティズム古典集成――パース、ジェイムズ、デューイ』(作品社、2014年)を上梓しておられます。今回の本の訳者解説「G・H・ミードの百年後――21世紀のミード像のために」ではこう綴っておられます。「21世紀ミード像というものがあるとすれば、それは20世紀ミード像の語彙と概念を突き抜けたところで描かれるものとなるだろう」(699頁)。なお、9本の「既発表論文・草稿選」の明細を以下に列記します。論文名(公刊年)で、このたび初めて翻訳されたものには※印を末尾に付します。なお、ミードの「国を志向する精神と国際社会を志向する精神」が触発を受けたところのウィリアム・ジェイムズの論文「戦争の道徳的等価物」(1910年)も本書では併せて訳出されています。
特定の意味を有するシンボルの行動主義的説明(1922年)
科学的方法と道徳科学(1923年)
自我の発生の社会的な方向付け(1925年)
知覚のパースペクティヴ理論(没後出版:1938年。執筆年代不詳)※
諸々のパースペクティヴの客観的実在性(1927年)
プラグマティズムの真理理論(1929年)
歴史と実験的方法(没後出版:1938年。執筆年代不詳)※
過去というものの性質(1929年)
国を志向する精神と国際社会を志向する精神(1929年)
★平芳幸浩『マルセル・デュシャンとは何か』は書き下ろし入門書。先ごろカルヴィン・トムキンズによるデュシャンへのインタヴュー本『マルセル・デュシャン アフタヌーン・インタヴューズ』を手掛けたばかりの河出書房新社の編集者Yさんが担当されています。帯文に引かれた森村泰昌さんといとうせいこうさんの推薦文は書名のリンク先でご確認いただけます。著者の平芳幸浩(ひらよし・ゆきひろ:1967-)さんは『マルセル・デュシャンとアメリカ――戦後アメリカ美術の進展とデュシャン受容の変遷』(ナカニシヤ出版、2016年)を上梓されており、四半世紀にわたってデュシャンの研究を続けてこられた方です。今回の新著は「基本的に時間軸に沿いながら、重要な六つのトピックに分けて、その全貌を紹介しようとするもの」(9頁)。目次詳細を以下の掲出します。
はじめに
第1章 画家としてのデュシャン――遅れてきたキュビスト
第2章 レディメイドを発明する
第3章 「花嫁」と「独身者」の世界
第4章 「アート」ではない作品を作ることは可能か
第5章 アートとチェス――Iとmeのちょっとしたゲーム
第6章 美術館に投げ込まれる「遺作」――現代アートとデュシャン
マルセル・デュシャンをもっと知るために――日本語で読めるデュシャン関連書籍一覧
あとがき
註
図版一覧
★ミードは「I」と「me」の融合について語りますが(『精神・自我・社会』1934年、第四部「社会」第35章「社会活動における「I」と「me」の融合」487~495頁)、平芳さんはデュシャンの1920~40年代における「Iとmeのちょっとしたゲーム」(211頁)について言及しています。「相手の期待をはぐらかしたり、想定される反応の裏をかいたり、とデュシャンはアイロニカルなゲームを演じ続けたのである。〔…〕後年このようなアイロニカルな身振りをデュシャン自身は「Iとmeのちょっとしたゲーム」とも呼んだのであった。この「Iとmeのちょっとしたゲーム」つまり自己と自己像が演じる大局のような様相を、デュシャン自身が積極的に作り出していくのもまた1920年代のことであった」(210~211頁)。さらに後段ではデュシャンにおける「Iとmeの間のアンフラマンスな差異」(237頁)が解説されます。「アンフラマンスの例はどれも身体的であるがゆえに官能的である。〔…〕デュシャンが微細なズレや遅延を感じ取ろうとしたものたちは、それがまさしく人間の認知を越えている(当然下方に)がゆえに、身体的なある種の「ざわめき」のようなものとして立ち現れてくるのである」(同頁)。
★ミードの場合、Iとmeの融合は、宗教や愛国心における高揚感、チームワークにおける一体感などに見られるもので、「社会的状況における「I」と呼んできた行為作用自体は、全体を統一する源泉であるのに対して、「me」は、この作用行為の自己表現を可能にする社会的状況である」(494頁)と説明されます。「音楽においては、関連する情動的反応の点からみて、おそらく何等かの類の社会的状況がつねにある。音楽のもつ高揚感は、こうした情動的か前に対する関連性を有していると思われる。「I」と「me」の融合という考えは、こうした高揚感を説明する上で、非常に適切な土台となる。私が思うに、行動主義的心理学は、こうした美学理論の発展に絶好の機会となる。美的経験において反応が有する意味作用は、絵画批評家や建築批評家によってすでに強調されている」(同頁)。
★ミード(1863-1931)とデュシャン(1887-1968)がともに、社会や美的経験についてそれぞれの立場から思索を深めていたことには、何かしらの同時代性や、地理的経済的背景の相違があったと言えるでしょうか。一方は巨視的に一体感や高揚感に注目し、他方は微視的に差異=ズレと官能性に着目。思想史的探究が必要かもしれません。
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★最後にここ最近の雑誌の中からいくつか取り上げます。
『現代思想2018年11月号 特集=「多動」の時代――時短・ライフハック・ギグエコノミー』青土社、2018年10月、本体1,400円、A5判並製230頁、ISBN978-4-7917-1373-8
『文藝 2018年冬季号』河出書房新社、2018年10月、本体1,300円、A5判並製680頁、ISBN978-4-309-97957-1
『フィルカル Vol.3, No.2』ミュー、2018年9月、本体1,500円、A5判並製370頁、ISBN978-4-943995-20-3
『兜太 TOTA vol.1〈特集〉一九一九 私が俳句』藤原書店、2018年9月、本体1,200円、A5並製200頁、ISBN978-4-86578-190-8
★『現代思想2018年11月号 特集=「多動」の時代』は、伊藤亜紗さんと貴戸理恵さんの討議「動きすぎる体/動かない体の〈コミュニケーション〉――吃音と不登校の交差点」と、ドミニク・チェンさんと若林恵さんの討議「コンヴィヴィアリティを促す「共話」の力」をはじめ、松本卓也さんの「ADHDの精神病理についてのノート』や、スージー・ワイズマンによるデヴィッド・グレーバーへのインタビュー「ブルシット・ジョブの上昇」などが読めます。「ブルシット・ジョブ」(=クソどうでもいい仕事)というのは、グレーバーが今年上梓した最新著『Bullshit Jobs: A Theory』(Simon & Schuster, 2018)の題名でもあります。本作についてはすでに日本語でいくつかの紹介記事をネット上で読むことができますが、このインタヴューの解題においても酒井隆史さんが長い紹介文を寄せておられます。同書は岩波書店から訳書が刊行される予定のようです。ちなみに酒井さんはグレーバーの訳書『官僚制のユートピア』(以文社、2017年)でbullshit jobsを「クソしょうもない仕事」とお訳しになっておられます。
★『文藝 2018年冬季号』では第55回文藝賞の受賞作2篇が掲載。また「新発見 唐十郎幻の第一作」として小説「懶惰の燈篭」(42枚)とシナリオ「幽閉者は口をあけたまま沈んでいる」(64枚)が掲載。山本貴族光さんの連載「季評 文態百版」は第3回で2018年6月から8月を観察。同誌秋号に掲載され、今般単行本としても刊行された庄野さんの「ウラミズモ奴隷選挙」についても言及があります。庄野さんはTPP反対派であり、この小説もTPP批准後の某国とその某国より独立した女性だけの国が物語の舞台です。庄野さんは単行本の前書きでTPPを「恐怖のメガ自由貿易」であり、「民を奴隷にし、国土を植民地にする。国益を叩き売り、日本を汚染物質と病気まみれにさせていく。弱いものから死なせて「邪魔な人間」をがんがん殺していく。そして全ての金を外国に持ち去ってしまう。田畑も海も林も、山も森も、国民から強奪する、そうです! これこそがメガ自由貿易というもの。悪魔の最終兵器〔…〕人喰い条約」(9~10頁)であると糾弾しています。『ウラミズモ奴隷選挙』は小説ではありますが、人文書でナオミ・クラインやデヴィッド・グレーバーらと一緒に販売してもおかしくない気がしますし、フェミニズムの棚でも異彩を放つのではないかと想像します。現代日本の病根に迫る重要作です。
★『フィルカル Vol.3, No.2』は3月に発売された前号よりわずか12頁ほど総頁数が減ったもののそれでも例年以上に分厚くなりつつあり、誌面の充実と発展を実感させます。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。小特集は「スポーツ」。翻訳ではルヴフ=ワルシャワ学派のカジミエシュ・トファルドフスキ(Kazimierz Twardowski, 1866-1938)のテクスト3篇が掲載されています。「ポーランド国民哲学についてのもうひとつの小論」(1911年)、「論理の共用について」(1920年)、「もっと哲学を!」(1935年)。中井杏奈(なかい・あんな:1985-)さんによる翻訳と懇切な解説による第1回掲載で、全2回を予定しているとのことです。なお、同号の発売を記念して、来月以下の通りイベントが行われます。
◎長門裕介×松本大輝トークセッション「スポーツの哲学へのいざない」
日時:2018年11月7日(水)19:00開場 19:30開演
場所:ジュンク堂書店池袋本店 4F 喫茶コーナー
料金:1,000円(ドリンク付き。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いください)
予約:事前のご予約が必要です。ジュンク堂書店池袋本店1階サービスコーナーもしくは書店お電話(03-5956-6111)までお願いいたします。
内容:最新の哲学で文化を分析する雑誌『フィルカル』。その最新号では「スポーツ」を特集しています。それにちなみ、この刊行記念イベントではスポーツの哲学に、倫理学と美学の観点から迫ります。いい試合とは何か? フェアプレーとは? スポーツとアートの違いは? プレーの華麗さとは? そうした問いの哲学的な分析の入口へと、倫理学と美学の俊英が、漫画や実際の試合などの実例を通してご案内します。
★『兜太 TOTA vol.1〈特集〉一九一九 私が俳句』は今年2月に98歳でお亡くなりになった俳人、金子兜太さんの名前を誌名に掲げた雑誌の創刊号です。『存在者 金子兜太』(藤原書店、2017年)の執筆参加者により、金子さんの生前から企画され、金子さん自身の賛同も得ていたものとのこと。金子さんの最晩年の戦場体験語り部としての活動に寄り添ってきた黒田杏子さんが編集主幹をつとめておられます。その黒田さんの「創刊のことば」によれば、金子さんの「巨きな創作世界とその生き方を、皆さまとご一緒に学んでゆきたいと思います」と。巻頭には金子さんの最後の一句とともにこんな発言が引かれています。「なぜ戦争はなくならないのか。一言で答えさせて下さい。「物欲」の逞しさです。あらゆる欲のうちで最低最強の「欲」ですが、それだけにもっとも制御不可能、且つ付和雷同を生みやすい欲と見ています。そこに人間の暮しが、武力依存を募らせる因もある」(初出:『短歌』2017年8月号別冊付録「緊急寄稿 歌人・著名人に問う なぜ戦争はなくならないのか」)。なお、同じく9月には金子さんの俳誌「海程」の後継誌「海原」も創刊されています。
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