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注目新刊:『ドゥルーズ 思考のパッション』『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』ほか

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『ドゥルーズ 思考のパッション』ピエール・モンテベロ著、大山載吉/原一樹訳、河出書房新社、2018年3月、本体4,300円、46判上製400頁、ISBN978-4-309-24527-0
『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家――国家・戦争・資本主義』ギヨーム・シベルタン=ブラン著、上尾真道/堀千晶訳、書肆心水、2018年3月、本体3,900円、四六判上製352頁、ISBN978-4-906917-77-8
『リズムの哲学ノート』山崎正和著、中央公論新社、2018年3月、本体2,200円、四六判上製272頁、ISBN978-4-12-005066-4
『中国名詩集』井波律子著、岩波現代文庫、2018年3月、本体1,340円、A6判並製480頁、ISBN978-4-00-602297-6


★今月はドゥルーズ研究書の重要作が立て続けに発売となっています。モンテベロ『ドゥルーズ 思考のパッション』は哲学書出版の名門ヴランから2008年に刊行された『Deleuze : La passion de la pensée』(Vrin, 2008)の全訳で、シベルタン=ブラン『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』はこれまた学術書出版の雄であるPUFから2013年に刊行された『Politique et État chez Deleuze et Guattari : Essai sur le matérialisme historico-machinique』(PUF, 2013)の全訳です。前者の目次詳細は以下に掲げます。後者は版元さんのそれはウェブサイトでご覧になれます。


書誌
イントロダクション
第一章 内在のパラドックス:存在と思考、ヌースとピュシス(作用:可逆性)
第二章 一義性のパラドックス:一と多、存在と意味(作用:離接的総合)
第三章 共立性のパラドックス(「超越論的経験論」、「非人称的超越論的領野」、「処女解体」「共立平面」)
第四章 自然のパラドックス:形式と実質、内容と表現(操作:二重分節)
第五章 器官なき身体(CsO)のパラドックス:生と死、苦行(精神/身体)、そして生産(生殖質/神霊〔ヌーメン〕)(中立化の実践)
第六章 美学のパラドックス:肉と宇宙〔コスモス〕(操作:図像)
第七章 即自的現われのパラドックス(操作:存在と現われ、光と意識との交差配列)
結論 哲学的絶対と諸々の錯覚

訳者あとがき
人名索引


★ピエール・モンテベロ(Pierre Montebello, 1956-)はフランスの哲学者で、何冊かのドゥルーズ論のほかにメーヌ・ド・ビランやニーチェに関する著書があります。ギヨーム・シベルタン=ブラン(Guillaume Sibertin-Blanc, 1977-)もフランスの哲学者で、ドゥルーズ/ガタリ論のほかに近現代の政治哲学を扱う著書を上梓しており、「アクチュエル・マルクス」誌の編集委員を務めています。二人とも訳書が出るのは今回が初めてですが、今後日本でも注目度が増すのは間違いありません。


★モンテベロは本書のイントロダクションの冒頭でこう切り出します。「ドゥルーズの哲学は、まず何よりもパラドックスの哲学としてその姿を現す」と。「哲学が哲学であるためには、いつも良識に用心しなければならないのである。というのも、良識は「本質的に分配、配分するものであり」、「諸事物を区別」するものであるからだ。それゆえ、良識の本質を表す定式は、「一方と他方」というものになるだろう。良識の関心はいつも、真実無比の方向を見つけることなのだ」(9頁)。上に列記した目次からも分かる通り、モンテベロは様々なパラドックスを論じていきます。その中の一つが第二章で扱われる「一義性のパラドックス」で、イントロダクションでは次のように説明されています。


★「多は第一のものである、多は原子論的である、多はモナド的なものである、多は物質的である、多は算術的である…と肯定する伝統もあれば、〈一〉は多を支配し、抑制し、組織し、取り囲む原理であると断言する伝統もある。要するに、一元論なのか、多元論なのか。世界はアナーキーな散乱状態なのか、君主による統一状態なのか。カオスなのか、コスモスなのか。必要になるのは、別の問いの立て方を発明することである。すなわち、これらの堅固な対立に浸透するのに十分なほどのしなやかさを備え、同時に二つの方向を掴むための操作を発明しなければならないということだ。それは、「〈一〉‐多」、「ノマド的散乱と戴冠せるアナーキー」、「カオスモス」といった、現実のなかに二つの方向を同時に織り上げる離接的総合という操作ということになるだろう。このようにして、一義性のパラドックスは、あらゆる哲学史を、つまり〈一〉と多の歴史を横断する対立から生じ、まさに離接的総合という操作によってこの対立の歴史を中立化するのである。離接的総合が施されたとき、〈一〉はもはや多の対立物ではなくなる。それどころか、〈一〉の指導原理を持たない固有の総合を産出するのは多の離接作用ということになるのである。つまり離接的総合は、それによって〈一〉が多とアレンジメントを形成する操作なのであり、型紙もモデルもなく、中心もモチーフもないままに、バラバラのピースが結びつくパッチワークのようなものである。/かくして、一義性は存在と意味、〈一〉と多という二つの面を備えた「存在論的命題」ということになる」(22~23頁)。


★モンテベロはドゥルーズの読解を通じ、哲学が「思考による解放の企み、運動の再開」(345頁)を望んでおり、「思考が思考しうるもの、それを思考は全ての閉鎖に抗して、〈開かれ〉として思考せねばならない」(350頁)と結論しています。訳者の大山さんは本書を「第一級のドゥルーズ研究書」として高く評価されています。


★シベルタン=ブランの訳書巻頭の「導入」も、モンテベロの本と同様に非常に印象的です。曰く「ドゥルーズ=ガタリの政治思想はひどくないがしろにされている。ときにいわゆるミクロ政治的アプローチのために後回しにされている。ときに言及されたかと思えば、フーコー、ネグリ、ランシエールなど同時代の思想家のために頼まれてもいない思弁を補う役を担わされている。別のときには奇妙な外挿法ではぐらかされている。ドゥルーズの著作の形而上的、ノエシス的、存在論的言表に政治的含意が読み取られる一方で、近代政治思想の集中と分裂の中心をなす鍵シニフィアンについての二人の命題は、いっさい考慮に入れられないのだ。もちろん彼らに公正であろうとすれば、言説の取り締まりを訴えて、もろもろの言表を言説的国境へと追い払い、「形而上学」、「美学」、「政治」のおのおのの管轄へと帰そうとすることなどあってはならない。彼らこそ、いつもそれらの輪郭を攪乱しようとしてきたのだから」(11頁)。


★幸いなことに日本ではこうしたシベルタン=ブランの指摘に呼応するかのように昨年末、佐藤嘉幸/廣瀬純『三つの革命――ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(講談社選書メチエ、2017年12月)が上梓されています。同書第二部第一章には『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』への言及があります(153頁、注2)。シベルタン=ブランと佐藤さんとの間にはエティエンヌ・バリバールがいることにも留意すべきかと思います。『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』の訳者解説では第六章「マイノリティへの生成変化、革命的なものへの生成変化」と結論がバリバールの『大衆の恐怖』(1997年)や『暴力と市民性』(2010年)での議論を踏まえていると指摘されています。また、バリバールは佐藤さんの指導教官であり、彼のもとで佐藤さんは『権力と抵抗――フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』(人文書院、2008年)の元となる博士論文を書いておられます。


★シベルタン=ブランは『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』の元となる博士論文を、バリバールと同じくアルチュセールの弟子にあたるピエール・マシュレーのもとで書いており、その成果は本書とそれに先行する『ドゥルーズと『アンチ・オイディプス』――欲望の生産』(2010年)として出版されています。マシュレーへと捧げられた『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』が提案する『資本主義と分裂症』の読み筋を導くのは「政治空間における暴力の場をめぐる問い」(17頁)であり、「よりはっきり述べるなら、政治的衝突が暴力の非政治的次元へ転落し、葛藤の可能性じたいが抹消されるような、極限化への上昇の道をめぐる問いである」(同)とシベルタン=ブランは述べます。それは国家や戦争や資本主義による極限的暴力の上昇に抗するドゥルーズ=ガタリの思想に、多元的なマクロ政治学を見る読み筋であると見て良いものかと思われます。本書の結論が「ミクロ政治は起こらなかった」と題されているのはそうした背景によるものでしょうか。


★『リズムの哲学ノート』は、『アステイオン』第78~85号(2013年5月~2016年11月)での連載に大幅な加筆を施したもの。目次詳細は以下の通り。


第一章 リズムはどこにあるか
第二章 リズムと持続
第三章 リズムと身体
第四章 リズムと認識
第五章 リズムと自然科学――近代科学が哲学に教えるもの
第六章 リズムと「私」
第七章 リズムと自由――あるいは哲学と常識
あとがき
参考文献
人名・書名索引


★著者にとって「リズムの哲学」という主題は、約30年前の著書『演技する精神』で最初にとりあげて以来、「おりに触れて言及しつつも、正面からは書くことのなかった」主題(「あとがき」より)だといいます。「リズムは不思議な現象であって、力の流動とそれを断ち切る拍子とが共存して、しかも流動は拍子によって力を撓められ、逆にその推進力を強くするという性質を持っている。〔・・・〕このリズムの構造を諸現実の根底に据えることによって、私は長く哲学を苦しめてきた病弊と闘えると予想してきた。その病弊とは〔・・・〕「一元論的二項対立」と呼ぶべきものである。古代の形相と質料、近代の主観と客観、意識と外界、精神と物質など〔・・・〕善といえば悪、光といえば闇、神といえば悪魔というように、一元論は必ずその反対物を呼び起こすのである。/私はこのジレンマを解決するには、最初から内に反対物を含みこみ、反対物によって活力を強められるような現象を発見し、これを森羅万象の根源に置くほかはないと漠然と考えていた。そしてそういう現象がたぶんリズムだろうということも、これまた漠然と胸中の一隅に暖めてきた」(同、252~253頁)。


★「日本語には主体の受動性、非主体性を暗示する表現がとくに多い。リズムの哲学は文明論的にいえば、本来、日本でこそ生まれてしかるべき哲学だったといいたくなる」(255頁)。本書は著者にとって「画期的な一冊」であり、代表作である『近代の擁護』において文明の近代化を支持したいわば「近代の擁護者」が書いた「ポスト・モダン」の哲学だと言明されています。


★『中国名詩集』は2010年に岩波書店から刊行された単行本の文庫化。「本書は、唐詩以降を中心としつつ、前漢の高祖劉邦から現代の毛沢東まで、中国の名詩137首を選んで紹介したもの」(「まえがき」より)。目次構成は以下の通り。


まえがき
第一章 春夏秋冬
第二章 自然をうたう
第三章 季節の暮らし
第四章 身体の哀歓
第五章 家族の絆
第六章 それぞれの人生
第七章 生き物へのまなざし
第八章 なじみの道具たち
第九章 文化の香り
第十章 歴史彷徨
第十一章 英雄の歌
あとがき
中国古典詩の底力――岩波現代文庫版のあとがき
時代別作者名一覧
作者の生没年、字号、本籍地一覧
人名索引
詩句索引
詩人別詩題索引
詩題索引
標題句索引


★文庫化にあたり「原本に大きな手直しを加えなかったが、第九章の『水滸伝』(第90回)からの引用(318~319頁)については、拙訳(『水滸伝』第5巻、講談社学術文庫)と入れ替えた」とのことです。同現代文庫の既刊書2点、2017年11月刊『中国名言集 一日一言』、2018年1月刊『三国志名言集』と併せて手元に置きたい一冊です。


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★このほか、以下の新刊との出会いがありました。


『現代アートとは何か』小崎哲哉著、河出書房新社、2018年3月、本体2,700円、46変形判並製448頁、ISBN978-4-309-27929-9
『最終獄中通信』大道寺将司著、河出書房新社、2018年3月、本体1,900円、46判並製320頁、ISBN978-4-309-02659-6
『一九五〇年代、批評の政治学』佐藤泉著、中公叢書、2018年3月、本体2,000円、四六判並製336頁、ISBN978-4-12-005068-8
『[増補新版]抵抗者たち――反ナチス運動の記録』池田浩士著、共和国、2018年3月、本体2,500円、四六判並製344頁、ISBN978-4-907986-39-1
『ジュディス・バトラー――生と哲学を賭けた闘い』藤高和輝著、以文社、2018年3月、本体3,500円、四六判上製352頁、ISBN978-4-7531-0345-4
『vanitas No. 005 特集=ファッション・デザイン・アート』蘆田裕史/水野大二郎責任編集、アダチプレス、2018年3月、本体1,800円、四六判変型並製176頁、ISBN978-4-908251-06-1



★『現代アートとは何か』はウェブマガジン「ニューズウィーク日本版」での不定期連載「現代アートのプレイヤーたち」(2015年10月~2017年7月)に加筆修正を施し、構成を若干変えたもの。帯文に曰く「政治、経済、そして美そのもの――アートジャーナリズムの第一人者による、まったく新しい《現代アート》入門」と。著者の小崎哲哉 (おざき・てつや:1955-)さんは『03』『ART iT』『Realtokyo』編集長を経て、現在「Realkyoto」編集長や京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員をつとめる編集者で、編著書に『百年の愚行』などがあります。浅田彰さんによる推薦文は書名のリンク先でご覧になれます。主要目次は以下の通り。


序章 ヴェネツィア・ビエンナーレ――水の都に集まる紳士と淑女
Ⅰ マーケット――獰猛な巨竜の戦場
Ⅱ ミュージアム――アートの殿堂の内憂外患
Ⅲ クリティック――批評と理論の危機
Ⅳ キュレーター――歴史と同時代のバランス
Ⅴ アーティスト――アート史の参照は必要か?
Ⅵ オーディエンス――能動的な解釈者とは?
Ⅶ 現代アートの動機
Ⅷ 現代アート採点法
Ⅸ 絵画と写真の危機
終章 現代アートの現状と未来
あとがき
主要人名・グループ名索引
図版クレジット
註・出典


★終章の後半部に「日本のアートシーンの問題点」と題されたパートがあります。ここの節題に特に注目しておきたいと思います。同様の問題意識を持っている方々には本書の切先を想像していただけるかと思います。「怠慢にして「へたれ」なジャーナリズム」「教育の劣化と「絵画バカ」の悪影響」「ポピュリズムとエリーティズム」「自治体の不勉強と不見識」。これに続く最終パートは「日本の未来、アートの未来」と題されており、次の二節から成ります。「女性や若年層、若い作家の搾取」「男尊女卑の業界構造」。現代アートのゴシップにもセオリーにも疎いかもしれない日本の状況に対して著者が抱いている危機感に学ぶ点は多いのではないでしょうか。


★『最終獄中通信』は帯文に曰く「死刑確定から30年、2017年5月に獄死した連続企業爆破の被告の書簡を集成。最晩年の胸中を結晶させた60の俳句も収録」と。梁石日さんが推薦文を寄せておられます。「獄中で悔い、詫び続けた大道寺将司の思念は、彼だから切り拓くことができた倫理の新しい領域に私たちを導くだろう」。1997年から2017年までの書簡(折々に俳句が挟み込まれています)に加え「大道寺将司が語る確定死刑囚のすべて」と題した5篇のテキスト、俳句の自選集、年譜と続き、そして巻末解説は太田昌国さんが寄稿されています。本書以前の書簡は『明けの星を見上げて』(れんが書房、1984年)と、『死刑確定中』(太田出版、1997年)で読むことができます。


★『一九五〇年代、批評の政治学』は巻頭の「はじめに」によれば「この本では、1950年代に活躍した三人の批評家、竹内好、花田清輝、谷川雁を軸にして、この時代独特の問題意識について再考したいと思う。なぜ50年代なのか。一つにはこの時代が、戦後史の落丁のページとなっているように感じられるからである」(3頁)と。目次は以下の通りです。


はじめに
第一章 竹内好
第二章 花田清輝
第三章 谷川雁
第四章 近代の超克
おわりに



★著者の佐藤泉(さとう・いずみ:1963-;青山学院大学文学部教授)さんは「あとがき」ではこう書いておられます。「本書では三人の批評家を取り上げた。彼らは共闘関係にあったわけでなく、それ以前にあまり仲が良かったわけでもなさそうだ。それでも時代を共有していた三人の間には共鳴しあう問題意識と思考のスタイルとがある。50年代は「転形期」であり、戦後史の方向がいくつもの可能性に向けて開かれていた時期である。彼らには共通して「今」が歴史の岐路だという感覚があった。そして「今」をそれが存在しているのと別のやり方で描こうとする熱望があった。それは、彼らが過去の歴史の中にも数々の可能性の分岐を見ていたことと不可分である。歴史に学ぶということは、まず第一に失敗から学ぶことであり、それを行ってきた戦後思想に対し私たちは敬意を惜しむべきではないのだが、ただ、歴史の「有効性」がそれにつきるわけではない。私たちは起こり得たけれど実際には怒らなかったこと、歴史の方向が定まる間際の時に、人々が見ていた夢にもまた学ぶことができる」(325~326頁)。


★またこうも書かれています。「彼らに共通する関心についてさらにもう一つ上げるとすれば、戦後社会を担うべき人々の力量を重視していたという点かと思う。50年代は戦争の時代と戦後の時代を蝶番のようにつないでいる。この転換期に民衆の力の行方を注視していた彼らは、自らも民衆の一人として、人々の力が戦時体制に吸収されるのを目撃し、またその力が民主主義の要求に結びついていく様も目撃した。民衆は固定した実体ではない。その力は、その都度別個の出来事を引き起こすのであり、歴史の中の流動的なコンテクストにおいてそのたびに再評価されるべきものだ。民衆の未来は確実に保証されているものではないが、しかしだからこそ、未来は失われているわけでもない。排外主義を主張するものも、平等を要求するものも含めて「ポピュリズム」が世界政治の潮流として注目されるようになったころ、私はいつも彼らの民衆論を思い浮かべることになった」(326頁)。転形期における民衆と批評、それは極めて現代的な主題ではないでしょうか。


★『[増補新版]抵抗者たち』は初版(TBSブリタニカ、1980年)と、写真および新たな「あとがき」を加えたその再刊(軌跡社、1990年)に続く、増補新版です。投げ込みの「共和国急使」第20号によれば、〈20世紀再考〉をテーマに過去の名著の復刊を試みる、その第一弾が本書であるそうです。目次詳細は書名のリンク先でご確認いただけます。「共和国版あとがき」によれば、「新しく書き下ろした長い「後章」〔「解放ののちに──自由と共生への遠い道」〕を加え」たとのことです。「旧版の記述に含まれる数字その他の誤りを正し、論旨を変えない範囲でいくつかの加筆や修正をほどこすという通例の補正に加えて、この大幅な加筆と追補を行なった結果、『抵抗者たち』は、長い年月を経ていま新たに、これまでとはまた別の一冊として小さな歩みを再開することになったわけです」。この最新版のあとがきで池田さんは、世の中のありようや出来事という現実のほかに人間が持っているもうひとつの現実、すなわちフィクションの世界(曰く「詩や小説、絵画や彫刻、演劇、映画、音楽、舞踏、さらには思想表象など、人間が行なうあらゆる表現活動とその成果」)を読み解くことの重要性について言及しておられます。


★「虚構が現実の先取りをする、ということが起こり得るだけではありません。私たちが日常を生きるなかで現実としてとらえていない現実を、虚構作品が描き出すこともあり得る、ということです。〔・・・〕人間の想像力こそが、もう一つの現実を思い描きそれの実現に向かって歩むための、少なくとも決定的に重要な源泉なのだと、私は思います。〔・・・〕ナチズムの権力掌握を人々が阻止できなかったのも、未来に対する想像力はおろか、いま眼前には見えない現実に対する想像力も放棄してしまったからでした。想像力を放棄した私たちは、目の前の「現実」のなかで確かな事実として姿を現わす強い政治家に、自分たちのすべてを委ねたのです」(340頁)。書名のリンク先にある「版元から一言」にはこんな言葉があります。「遠い過去のエピソードとしてではなく、やがて訪れる未来のこととして考えるとき、この本は、とてもかけがえのないものとして読者のわたしたちに迫ってくるはずです。〔・・・〕自由が権力によって奪われてゆくこの日本の政治文化状況のなかでは、むしろいっそうアクチュアルですらあります」。


★『ジュディス・バトラー』は藤高和輝(ふじたか・かずき:1986-;大阪大学等非常勤講師)さんが昨年大阪大学大学院人間科学研究科に提出した博士論文に加筆修正したもの。目次詳細は書名のリンク先でご覧になれます。序論で藤高さんはこう述べておられます。「バトラーは単に「哲学者」であるのではない。その由縁は、彼女が哲学だけでなくフェミニズム理論やゲイ&レズビアン・スタディーズ、社会学、人類学、精神分析など多様な学問分野を横断することによって自身の理論を構築したという方法論的な意味に尽きるのではなく、哲学という制度の外部に排除された「生」を哲学の内部に翻訳し、それを通して哲学の境界線に変容を促し、それを押し広げようとする、まさにその実践にこそある。このようなバトラーの営みを、本書ではヘーゲルの言葉をもじって「生と哲学を賭けた闘い」と呼ぶことにしたい。〔・・・〕本書はバトラーの「生と哲学を賭けた闘い」のドキュメントである」(15~16頁)。帯文にある「共にとり乱しながら思考すること」というのは本書の結論部の題名でもあります。


★ファッションの批評誌『vanitas』の第5号は特集「ファッション・デザイン・アート」。目次詳細や立ち読みは書名のリンク先をご覧ください。蘆田さんは「introduction」で次のように紹介しておられます。「今号では、ファッション・デザイン・アートがそれぞれ独立したジャンルであることを前提としながらも、現在において各分野がどのような関係を結びつつあるのか、多様な側面からの検証を試みます。インタビューでは、東京藝大で美学を学んだファッションデザイナーの小野智海氏、ファッションデザイナーやスタイリストとのコラボレーションも多い演劇作家の藤田貴大氏、Google の「プロジェクト・ジャカード」の開発にも携わるデザイナー/アーティストの福原志保氏の三者に話を聞いています。論文では、先述のファッションとアートをめぐる展覧会の意義を明らかにする利根川由奈氏、バイオファッションという新しい動向を探る高橋洋介・川崎和也両氏のテクストを掲載しています。その他、書籍紹介や展覧会紹介などでも本特集と共鳴するテーマを忍ばせています」。同誌の取扱書店はこちらで公開されています。



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