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注目新刊および既刊:ディディ=ユベルマン『われわれが見るもの、われわれを見つめるもの』水声社、ほか

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★まず、注目の新刊既刊を列記します。


『われわれが見るもの、われわれを見つめるもの』ジョルジュ・ディディ゠ユベルマン(著)、松浦寿夫/桑田光平/鈴木亘/陶山大一郎(訳)、言語の政治:水声社、2024年10月、本体4,500円、A5判上製342頁、ISBN978-4-8010-0719-2
『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』ホルヘ・ルイス・ボルヘス/アドルフォ・ビオイ=カサーレス(著)、木村榮一(訳)、白水Uブックス:白水社、2024年9月、本体1,800円、新書判並製274頁、ISBN978-4-560-07255-4

『デカルト小品集――「真理の探求」「ビュルマンとの対話」ほか』デカルト(著)、山田弘明/吉田健太郎(編訳)、知泉学術叢書:知泉書館、2024年6月、本体4,000円、新書判上製372頁、ISBN978-4-86285-411-7

『時計のなかのランプ』アンドレ・ブルトン(著)、松本完治(訳)、エディション・イレーヌ、2024年4月、本体2,500円、A5変型判上製96頁、ISBN978-4-9912885-1-7

『神秘の女へ』ロベール・デスノス(詩)、アンドレ・マッソン(画)、松本完治(訳)、エディション・イレーヌ、2024年10月、本体3,300円、A5変型判上製96頁、ISBN978-4-9912885-2-4



★『われわれが見るもの、われわれを見つめるもの』は、叢書「言語の政治」の第28弾。フランスの哲学者で美術史家のジョルジュ・ディディ゠ユベルマン(Georges Didi-Huberman, 1953-)による『Ce que nous voyons, ce qui nous regarde』(Minuit, 1992)の全訳です。「主体を分裂させる〈見つめること〉の経験を私たちはいかに受け止めることができるのか。古代の墳墓からフラ・アンジェリコの絵画、ミニマル・アートまでを自在に往還する、アナクロニスムの試み」(帯文より)。目次は書名のリンク先をご参照ください。


★「われわれは、それを「見つけた」と思い、それを操作したり、分類したりできる。いわばわれわれはそれを手元に所有するのである。他方で、明らかなことだが、対象を「所有」するためには、その対象がもともとあった土地をひっくり返さなければならなかった。つまりその場は、今や開かれ、見えるものとなっているが、しかしまさにそれ自体が発見される際には形が崩れているのだ。われわれはなるほど、対象を、資料を所有してはいる――だがその文脈、それが存在する場、存在しうる場については、われわれはそれ自体を所有してはいないのである。決して所有したことがないし、今後所有することもないだろう。つまりわれわれは隠蔽記憶を余儀なくされている、あるいは我々自身の記憶に関する発見、われわれ自身の「見出された対象」へと批判的な眼差しを注ぎ続けることを余儀なくされている。そして、かかる対象がかつて存在していた土地の――「媒体」の――厚みへと、おそらくはメランコリックな眼差しを注ぎ続けることを余儀なくされている。/このことが意味するのは、歴史学は不可能だということではない。このことが意味するのはひとえに、歴史学はアナクロニックだということである」(「批判的イメージ」174~175頁)。


★『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』は、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスとアドルフォ・ビオイ=カサーレスが「H・ブストス=ドメック」名義で執筆した共作による探偵小説『Seis problemas para don Isidro Parodi』(1942年)の全訳。親本は2000年に岩波書店より刊行されたものです。帯文に曰く「273号独房の名探偵――冤罪で服役中の囚人が謎を解き明かす。異色の安楽椅子探偵イシドロ・パロディの事件簿」。訳者解説の「追記」によれば「もう一度訳文と玄武を突き合わせて手を入れることにしたが、結果的にはかなり手直しすることになった」とのことです。収録作品6篇の題名など、目次については書名のリンク先でご確認いただけます。


★『デカルト小品集』は、知泉学術叢書の第33弾。デカルトの小品と関連資料を集めた一冊です。架空の鼎談形式をとる「自然の光による真理の探求」、質疑応答で構成される「ビュルマンとの対話」のほか、小品を2部に分けて収録しています。2部というのは、Aパート(法学士論文;剣術論;良識の研究;バルザック氏『書簡』所見;機械学;工芸技術学校の計画;演劇の計画)とBパート(遺稿目録;デカルトの死をめぐる書簡と報告)です。共編訳者の山田さんは巻頭の「はじめに」でこう述べておられます。「小品は『省察』などの主要著作を補完するだけでなく、それぞれに独自の内容を持ち、デカルト哲学が全体としてどういうものであったかを教えてくれる。日本の研究状況において、デカルトの小品にもっと光が当てられてもよいのではないか。このような考え方『デカルト小品集』を編むことにした」。


★「シュルレアリスム、エロティシズム、デカダンスの文藝出版」を旗印とする京都の出版社エディション・イレーヌが4月に「シュルレアリズム宣言100年」記念出版の2点を刊行しました。いずれも美麗で瀟洒な造本です。アンドレ・ブルトン『時計のなかのランプ』は、「広島に核が投下された3年後の1948年に発表された戦後のシュルレアリスムを代表するエッセイ〔「La Lampe dans l'horloge」〕。「世界市民」運動でのブルトンのスピーチも追加収録」(帯文より)。スピーチというのは1948年4月30日の「「人間戦線〔FRONT HUMAIN〕」の最初の公開討論会で行われたスピーチ」。


★「世界の終わりが形となって見え始め、あらゆる予想に反して、それがまったく不条理であることが分かった時、もはや我々はこうした世界の終わりを望んではいない。人間の疎外だけが、こうした全世界にわたる人事不省状態の原因になり得るのであって、その限りにおいて、我々はこの状態に対して嫌悪の念しか覚えないのである。このような世界の終わりは、より許しがたい人間の踏み外しから生じ、これまでのものより決定的なものであるがゆえに、我々にとってまったく価値のないものであり、痛ましいほどカリカチュア的である」(「時計のなかのランプ」15頁)。


★ロベール・デスノス『神秘の女へ』は、アルトーによって「最も感動的で、最も決定的なもの」と称賛された「究極の愛の詩集」(帯文より)。「前期と後期の代表的と思われる詩集を1冊ずつ選んで全訳し〔『神秘の女へ(À la mystérieuse)』1926年、『何気ないふうに(Mines de rien)』1957年〕、さらにデスノスの本質が語られた貴重な散文「今世紀のある子どもの告白」とその続編「私が棲む世紀の子供の告白」(いずれも1926年初出)の全訳を収録したもの」(訳者解題より)。『神秘の女へ』は「当時デスノスが一方的に恋焦がれていたシャンソン歌手、イヴォンヌ・ジョルジュへの愛を言語化した詩集として名高い。/しかしながら、この作品が片恋の苦痛を嘆いた愛の詩集で終わっていない点にデスノスのデスノスたる所以がある。本書では、あえて、ジョルジュ・バタイユ〔「エロティシズム」序論(抄)〕、アントナン・アルトー〔ジャン・ポーラン宛書簡(1926年4月17日)〕、アニー・ル・ブラン〔「闇の底から愛が来たれり」(抄)〕の貴重な言葉を冒頭に掲げた」(同)。アンドレ・マッソンの美しいカラー・エッチングが4点添えられています。


★「僕から遠く離れ、流れ星がひとつ、詩人の夜の瓶の中に落ちる。詩人は素早く栓をし、それ以降、ガラス瓶に閉じ込められた星を見張り、瓶の内壁に生じる星座を見張る。僕から遠く、君は僕から遠い」(「もしも君が知っているなら」26頁)。なおエディション・イレーヌでは「シュルレアリスム宣言」及び生田耕作生誕100年・没後30年記念出版として、ジャン・フェリー『虎紳士』(生田耕作・松本完治訳)の続刊が予定されています。


★続いて、最近出会いのあった新刊を列記します。


『目的のない手段――政治についての覚え書き』G・アガンベン(著)、高桑和巳(訳)、以文社、2024年10月、本体2,600円、四六判上製200頁、ISBN978-4-7531-0390-4
『野生の教養(Ⅱ)一人に一つカオスがある』丸川哲史/岩野卓司(編)、法政大学出版局、2024年10月、本体3,200円、四六判並製446頁、ISBN978-4-588-13043-4

『受容から創造へ――文学・芸術に導かれて』牛場暁夫(著)、作品社、2024年10月、本体2,400円、四六判上製272頁、ISBN978-4-86793-050-2



★『目的のない手段』は、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben, 1942-)の著書『Mezzi senza fine: Note sulla politica』(Bollati Boringhieri, 1996)を訳した『人権の彼方に――政治哲学ノート』(以文社、2000年)の全面改訂改題版。帯文に曰く「「ホモ・サケル」シリーズの最良の副読本」と。書名は旧版では収録論文のひとつから採られていましたが、今回の改訂版では原書通りに改められました。「本書は〔…〕1990年代前半の政治・社会情勢を具合的な背景とし、時評を織り交ぜつつ議論が展開されるという唯一無二の特徴を持っている。実際、収録されている論考はいずれも、部分的にであれ機会をそのつど得て新聞や雑誌に掲載されたものが初出となっている」(翻訳者あとがき、168頁)。


★「政治とはこれこれの手段性を曝し出すこと、しかじかの手段そのものを目に見えるものにすることである。それは即時的目的の圏域でもなければ、これこれの目的に従属している手段の圏域でもない。それは、行動の領野としての、人間の思考の領野としての、目的のない純粋な手段性である」(「政治についての覚え書き」135頁)。「本質的な政治的問いは「共通なものをどのように使用するか?」となる。/政治的思考の新たな諸カテゴリーは――無為の共同体、共出現、平等性、忠実性、大衆の知性、到来すべき人民、何であれの特異性、そのいずれでもよいが――、この言語運用と言う出来事の経験の場やありかたや意味を、共通なものの自由な使用として、純粋手段の圏域として分節化することに成功してはじめて、私たちが直面している政治の材に表現を与えることができるようになる」(同136頁)。諸カテゴリーとして提示されている用語はそれぞれ、ナンシー、バディウ、ドゥルーズ/ガタリ、そしてアガンベン自身などを参照しています。


★『野生の教養(Ⅱ)』は、2022年11月に刊行された明治大学の教員の皆さんによる論文集『野生の教養――飼いならされず、学び続ける』の続篇。「思想・科学」「歴史・社会」「文学・芸術」の3部構成で、26篇の論考を掲載し、そのほか編者による「はじめに」と「おわりに」と、名誉教授の山泉進さんによる特別寄稿を併載しています。目次詳細は書名のリンク先でご確認いただけます。岩野さんは「おわりに――カオスによるつながり」でこう述べておられます。「カオスによって衝き動かされながら、カオスについて語ることで、多様性のなかにゆるいつながりが見出せるのではないだろうか。/「野生の教養」とは、新しいアナーキズムによるつながりの場なのではないだろうか」(442頁)。


★『受容から創造へ』は、慶應義塾大学文学部名誉教授でフランス文学研究者の牛場暁夫(うしば・あきお, 1946-)さんがご自身のブログ「オルフェウスの窓」のエントリーに加筆修正し、書き下ろしの夏目漱石論を加えて出版するもの。「日本文学」「フランス文学」「世界を旅する作家たち」「芸術」「創作」の全5章。「私は今後とも受け身の読者ではなく、作者と対話を重ね協働し、作者の根源から発せられる声を聞き出そうとするだろう。そして、発せられる深い声を私の音波探知機がとらえることができ、そしてその声と対話を交わすことが可能になり、私がそれによって主体的で活発な読者になることができたら、そのプロセスを本書において表現しようと思う」(はじめに「活発な読者として」7頁)。

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