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注目新刊:東浩紀『観光客の哲学 増補版』ゲンロン、ほか

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★まず、最近出会った注目新刊から。


『観光客の哲学 増補版』東浩紀(著)、ゲンロン叢書:ゲンロン、2023年6月、本体2,400円、四六判並製424頁、ISBN978-4-907188-49-8
『ジャン=リュック・ナンシーの哲学――共同性、意味、世界』西山雄二/柿並良佑(編)、読書人、2023年6月、本体1,800円、新書判並製382頁、ISBN978-4-924671-62-1

『猫と巡る140年、そして現在――朝倉文夫 生誕一四〇周年記念』大分県立美術館(編)、平凡社、2023年6月、本体2,800円、B5判並製208頁、ISBN978-4-582-20732-3



★『観光客の哲学 増補版』は、帯文に曰く「新章2章2万字を追加」とのこと。新章というのは補遺として収められた、第9章「触視的平面について」と第10章 郵便的不安について」のこと。増補版ではさらに巻頭に「はじめに」「中国語繁体字版への序文」「英語版への序文」が加わっており、巻末には索引が新たに配されました。「ゲンロン」誌の第0号として2017年4月に上梓された『観光客の哲学』の巻頭にあった旧「はじめに」は、増補版では「初版への序文」として再録されています。
https://genron.co.jp/shop/products/detail/103


★新たな「はじめに」によれば「目次変更にともなう不可避の調整、最低限の誤字脱字などの修正を除き、内容にはいっさい手を入れていない」(5頁)とのことです。目次変更というのは以下の2点のこと。旧版で第1部「観光客の哲学」の第1章「観光」と第2章「政治とその外部」のあいだに挿入されていた付論「二次創作」が新版では第2章となり、以後順次章番号がずれたということ。もうひとつは第2部「家族の哲学(序論)」が「家族の哲学(導入)」と名称変更されたことです。


★さらに新しい「はじめに」では、中国語繁体字版は刊行中止となったことや簡体字訳版の翻訳が進行していることも明かされています。また、本書の続編となる『訂正可能性の哲学』が現在執筆の最終段階にあるとのことです。『訂正可能性の哲学』の第1部が「家族の哲学」の完成形だそうです。


★「哲学は、もっと自由で、もっと「ゆるく」あるべきだ」(10頁)と東さんは書きます。「引用の連続でしか、あらゆる議論を展開できなくなる〔…〕この癖は人文系出身者の宿痾のようなものだ」(同頁)。こうした態度を「変節」と見る方もあるいはいるのかもしれませんが、それは無理解というものでしょう。「ゆるさ」への接近は、東さんが学者という以上に企業人として極めてリアルに社会の現実と向き合ってきた賜物です。同書旧版は「毎日出版文化賞」を受賞しましたが、続刊予定のる『訂正可能性の哲学』も広い読者層の話題を呼ぶことでしょう。


★『ジャン=リュック・ナンシーの哲学』は、2022年9月17日から18日の2日間にかけて東京日仏会館にて行われた同名の国際シンポジウムの記録。「ナンシー哲学の原像」「同時代への参与」「思考の共同性のなかで」「ナンシーと共に生きる」の4部構成で、柿並良佑、澤田直、西谷修、ジェローム・レーブル、ジャコブ・ロゴザンスキー、松葉祥一、西山雄二、鵜飼哲、合田正人、郷原佳以、渡名喜庸哲、市川崇、ジャン゠クレ・マルタン、ボヤン・マンチェフ、小林康夫、の各氏が寄稿しています。目次詳細は書名のリンク先でご確認いただけます。


★次に注目新刊および既刊文庫などを列記します。


『ロートレアモンとサド』モーリス・ブランショ(著)、石井洋二郎(訳)、批評の小径:水声社、2023年6月、本体3,500円、四六判上製331頁、ISBN978-4-8010-0726-0
『文学の政治』ジャック・ランシエール(著)、森本淳生(訳)、批評の小径;水声社、2023年6月、本体4,200円、四六判上製402頁、ISBN978-4-8010-0707-9

『ポジシオン 新・新装版』ジャック・デリダ(著)、高橋允昭(訳)、青土社、2023年5月、本体3,400円、四六判上製272頁、ISBN978-4-7917-7554-5

『新版 幻想の中世――ゴシック美術における古代と異国趣味』J・バルトルシャイティス(著)、西野嘉章(訳)、平凡社ライブラリー、2023年6月、本体2,400円、B6変型判並製560頁、ISBN978-4-582-76946-3

『ダンマパダ――ブッダ 真理の言葉』今枝由郎(訳)、光文社古典新訳文庫、2023年6月、本体740円、文庫判160頁、ISBN978-4-334-75480-8

『ツァラトゥストラはこう言った』フリードリヒ・ニーチェ(著)、森一郎(訳)、講談社学術文庫、2023年6月、本体2,000円、A6判624頁、ISBN978-4-06-532351-9

『妖怪学とは何か――井上円了精選』井上円了(著)、菊地章太(編)、講談社学術文庫、2023年6月、本体1,070円、A6判272頁、ISBN978-4-06-532226-0

『ゴルギアス』プラトン(著)、三嶋輝夫(訳)、講談社学術文庫、2023年4月、本体1,180円、A6判320頁、ISBN978-4-06-531588-0

『日本幻獣図説』湯本豪一(著)、講談社学術文庫、2023年3月、本体1,100円、A6判288頁、ISBN978-4-06-530785-4



★水声社さんのシリーズ「批評の小径」では今月、ブランショとランシエールの訳書が同時刊行。2点とも目次詳細は書名のリンク先でご確認いただけます。ランシエール『文学の政治』は『Politique de la littérature』(Galilée, 2007)の全訳。ブランショ『ロートレアモンとサド』は、1963年第2版からの新訳。既訳には1949初版を底本とした小浜俊郎訳(国文社、1970年;改訂版1973年)があります。原著1949年版と1963年版との異同については、今回の新訳の「訳者あとがき」で、8点にわたって指摘されています。旧訳は版元の終業前から品切だったため、今回の新訳は時宜に適ったものです。なおフランスでは、ブランショの遺稿『ハイデガーについての覚書(Notes on Heidegger)』が先月、Kiméから出版されました。エリック・オプノ監修のシリーズ「ブランショ資料集(Corpus Blanchot)」の一冊で、エティエンヌ・ピナが編纂しています。


★『ポジシオン 新・新装版』は、10出版社共同復刊「書物復権」での再刊。巻末解説として、藤本一勇さんの「誘惑するテクスト」が追加されています。『ポジシオン』は幾度となく再刊されているので、旧版との異同について以下に特記しておきます(敬称略)。


1)1981年5月初版:258頁。
2)1988年4月新版:258頁。装丁を変更(装幀:高麗隆彦)。
3)1992年7月増補新版:261頁。装丁の再変更(装幀:高麗隆彦)と、巻末「著作目録」の更新。
4)2000年2月新装版:272頁。装丁の再々変更(装幀:高麗隆彦)と、巻末「著作目録」の増補、さらに「新装版へのあとがき」が追加。
※訳者高橋允昭が2000年3月逝去。著者デリダは2004年10月に逝去。
5)2023年5月新・新装版:272頁。装丁の4度目の変更(装幀:水戸部功)と、巻末「著作目録」の削除、さらに藤本一勇解説「誘惑するテクスト」が追加。


★『新版 幻想の中世』は、1998年6月に2分冊で平凡社ライブラリーより刊行されたものの合本新版。リブロポートより1985年に刊行された、戸田ツトムさんの造本設計による非常に美しい親本は全1巻だったので、合本再刊は非常に嬉しいです。巻末解説は旧版のまま、荒俣宏さんの「目で見る東西の驚異――バルトルシャイティスの面白さ」で、新版では新たに、「新版への訳者あとがき」が添えられています。語句訂正については特に記されていないので、訳文は旧版のままかと想像します。


★『ダンマパダ』は『スッタニパータ』(光文社古典新訳文庫、2022年3月)に続く、パーリ語原典からの今枝由郎さんによる改訳。今枝さんは10年前に『日常語訳 ダンマパダ――ブッダの〈真理の言葉〉』(トランスビュー、2013年;改訂版2015年)を上梓されており、今回はその改訳版となります。訳者あとがきに曰く「当時としては最善の努力を尽くしましたが、刊行後改めて読み直してみると、原典解釈に幾つかの誤りがあることに気付くと共に、全体としてパーリ語原典の言い回しに流されて、日本語として十分にこなれていないところがありました。今回の訳はその点を考慮し、一層正確で、読みやすいものにできたかと思います」とのことです。


★巻頭の「訳者によるまえがき」にはこうも書かれています。「翻訳にあたっては、『スッタニパータ』と同様、漢訳仏教用語は極力用いず、現代の日常的な言葉にすることを第一に心がけました。これは、ブッダが当時の民衆に語りかけるときに、けっして難解な言葉を用いずに、誰にでもわかる平易な言葉で説いた態度に倣うものです」。なお周知の通り、『ダンマパダ』の既訳には中村元訳「真理のことば」(『ブッダの 真理のことば 感興のことば』所収、岩波文庫、1978年)などがあり、漢訳からの翻訳には『法句経』(友松圓諦訳、講談社学術文庫、1985年)などがあります。


★『ツァラトゥストラはこう言った』は、近年では丘沢静也訳『ツァラトゥストラ』(上下巻、光文社古典新訳文庫、2010~2011年)や、佐々木中訳『ツァラトゥストラかく語りき』(河出文庫、2015年)に続く新訳です。ニーチェの代表作であり人気作でもあるとはいえ、幾度となく新訳が出ることには驚くばかりです。今回の訳者である森さんは「訳者あとがき」で上記2点を含む既訳15点を掲出されています。森さん曰く「本書では訳注は抑え気味にして、訳文を読むだけで原文の味わいが楽しめるよう、できるかぎり務めた」とのことです。


★なお今まで紹介しそびれていましたが、ここ半年間ほどのニーチェ関連の注目新刊には以下の書目がありました。ジェフ・ウェイト『ニーチェの身体/屍体――美学、政治学、予言をめぐって、あるいは、日常生活のスペクタクルとしてのテクノカルチャー』(上下巻、福井和美訳、書肆心水、2022年12月)です。スタンリー・フィッシュとフレドリック・ジェイムソンが監修するシリーズ「ポストコンテンポラリー・インターヴェンションズ」の1冊として刊行された『Nietzsche's Corps/e: Aesthetics, Politics, Prophecy, or, the Spectacular Technoculture of Everyday Life』(Duke University Press, 1996)の全訳。原著では全1巻ですが、大冊のため、訳書は2分冊となっています。


★著者のウェイト(Geoffrey Carter Wallace Waite)はコーネル大学准教授。ゲルマニスト、比較文学研究者です。レオ・シュトラウス、アルチュセール、ドゥルーズ、ネグリらによるスピノザ受容や、美術史、映像文化についても研究しています。既訳論文に「ラジオ・ニーチェ――あるいは哲学的にどの様にしてニーチェにたどり着かないか(Radio Nietzsche, or, How to Fall Short of Philosophy)」(長原豊訳、『現代思想1998年11月臨時増刊号〔総特集=ニーチェの思想〕』所収、青土社、1998年11月)があり、そこでは柄谷行人さんの『隠喩としての建築』への言及があります。


★『ニーチェの身体/屍体』は今のところウェイトの唯一の単独著かと思われます。刊行からすでに30年近い年月が経っていますが、そのインパクトはまだ失われていないようです。彼は「プロローグ」でこう宣言しています。「ふたつの歴史のできごとのあいだで―― 一方はいわゆるコミュニズムの死、これには異議を唱え、他方はニーチェ生誕150周年、これについては祝意に水を差しつつ――書かれた本書は、これらふたつのできごとを連結しようとする」(15頁)。本書は「コミュニズム理論――とりわけ、レーニン、グラムシ、アルチュセールに発するそれ――をニーチェの身体/屍体という概念に適用してみせる」(15~16頁)。ここで言う身体〔コープス:ニーチェの屍体〕は、言語資料体〔コーパス:ニーチェの著作群〕、集団〔コープス:ニーチェ主義者〕を指しています。


★ウェイトは続けてこう述べます。「哲学と民衆文化またはガタクタ文化とのあいだを往来しながら、いずれもひとしく重要であること、いずれもひとしく秘密裡にニーチェに感染していることを論じてゆく。そのうえでこの本は、とりわけ、こう問いかける。このいまのつぎに控える時代、すでにわれわれのうえに覆い被さっているポスト現代は、ニーチェの身体/屍体にあいかわらず支配されてゆくのか、あいかわらずみちびかれてゆくのか。根底においてコミュニストであることを断固譲らない本書は、つぎのいずれにもひとしく――徹頭徹尾とはいわないまでも――敵対することばを投げかけてゆく。大陸哲学、文化研究、脱構築、解釈学、新自由主義、新歴史主義、ポスト分析哲学、ポスト近代主義、ポスト構造主義、構造主義、そして――なかんずく――〈西洋マルクス主義〉に」(16頁)。


★三嶋輝夫訳『ゴルギアス』は、中澤務訳(光文社古典新訳文庫、2022年5月)に続く新訳。主題は「弁論術とは何か」。三嶋さんが講談社学術文庫でプラトンの訳書を上梓されるのは共訳も含めこれで5冊目です。


1)1997年04月『ラケス――勇気について』
2)1998年02月『ソクラテスの弁明・クリトン』
3)2017年03月『アルキビアデス クレイトポン』
4)2017年12月「恋がたき」、『リュシス 恋がたき』所収
5)2023年04月『ゴルギアス』


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【雑記16】


マーケットインをめぐる矛盾がある。出版業界で言うマーケットインとは、書店の発注を出版社や取次が最大限に尊重することであるはずだ。しかし実際のところ、売上上位版元や大取次は書店を独自にランクづけしてパターン配本を行っている。これはマーケットインとはいえない。新刊や版元目線での売行良好書を、書店の発注がなくても送りつけるのである。これは新聞社が新聞販売店に行う「押し紙」と似ている。書店が発注したものではない商品の代金が請求されるという不合理。これはバラマキ配本と呼ばれる。


マーケットインと相反するこのバラマキ配本が容認されるかのような場面に出くわすことが時々ある。帳合変更や新規出店のお知らせが出版社に入る際、書類にはたいてい「従来の配本ランクにもとづく指定数および定期数の移行をお願いします」だとか、「新刊配本に際しまして、特段のお力添えを」と書かれている。より具体的に「××店を参照店舗として新刊配本ランクの設定をお願いいたします」と通知が来る場合も過去にはあった。パターン配本を行う出版社は配本を止めたり、ランクを下げたりしないで欲しい、というのが取次の要望ではある。書店側の希望も同様であるだろう。


取次は日々100点以上の新刊を受け入れてきた。それらの新刊すべてが書店の大小を問わず配本されるわけではない。だが、大書店の場合は発注をしなくてもパターン配本がある。売上が落ちるにつけ、出版社は徐々に次の配本を減らしていく。そうした現実を糊塗するかのように見えてしまうのがマーケットインという言葉である。欲しいならちゃんと発注を下さい、実績に応じて満数出荷か減数か検討します、というわけだ。これは商習慣としては新しいものでもなんでもない。取次は出版社に対しては「ばらまきたいなら金をくれ」と言い、書店に対しては「商品が欲しければインペナ契約を結べ」と言うだろう。「契約だから他の商品も積極販売しろ」とも言うだろう。


あっちにはこう言い、こっちにはこう言う。両にらみで「採算が取れない」と主張する。採算が取れないのは事実だろうが、取次は時として主体性に乏しい。書店のせいにしたり版元のせいにしたり、自分たちは仲介しているだけで責任はない、という態度を取る時がある。そういう振る舞いを取次が見せる時は、書店も出版社も怒って然るべきである。実際にカネのやりとりをしている取引相手は、書店にとっても出版社にとっても取次なのだから。責任を取れないなら、そもそも仲介もできたものではないし、荷物を任せることも危険になってしまう。


パターン配本の是非に話を戻そう。もしもすべての新刊を書店サイドで発注しなければならなくなるとしたら、書店の現場はどうなるだろうか。日々の業務のなかで新刊情報を収集し、吟味し、発注をする作業を行う時間を作るのは、現在の書店にとってけっして簡単な話ではないだろう。パターン配本がなくなって、発注しないと商品が入らないなどとなったら、困る書店も相当数あるはずだ。マーケットイン施策は、パターン配本の減少を正当化しうるし、書店側に「仕入れる責任」を取ることを促す。バラマキ配本であるがゆえの「フリー入帳」は消えていく。店頭に置かれること自体が宣伝の一環だという出版社の認識は、来店数の減少とともに過去のものになりつつある。


一方で、書店の現場としては、もともと発注しても欲しい本は入ってこない、とか、欲しくない本ばかり入ってくる、という声もあるだろう。発注しなくても本が入荷する仕組み自体は便利だったはずだが、書店側の選ぶ自由は乏しい。とはいえマーケットイン施策が進めば、パターン配本は冊数を絞られていくだろう。今では出版社がばらまけるほど本をもう刷っていないのだ。人気作家の新刊や人気タレントの写真集にしても同様である。紙の本が品切になったらあとは電子書籍を買って下さい、という態度となる。


パターン配本は確かに便利ではある。けれども出版社や取次は、書店が欲しいとは思っていない商品を事前の確認もなしに勝手に送り付けるのを、もうきっぱりとやめた方がいい。そして書店は取次と交渉してパターン配本の受付を辞めればいい。ただし、配本がふっつり途切れたら店頭に置く本がなくなってしまう、と認識している店舗には、パターン停止は勧められない。欲しい本、売れる本だけが勝手に入ってくればいいのに、というのはご都合主義である。売れると分かっているものを奪い合う現場では、弱肉強食がルールである。それでは他店との差別化は困難だろう。大手版元の出版動向だけを見ていても、書物の森の広さには気づけない。


発注しても全然入ってこないなら、その理由があるわけだから、話のできる版元営業マンをつかまえるしかない。出版社は出版社で、人と人のつながりをしっかり持った方がいい。本当に売る力のある書店がどこなのかを常に分析しているつもりでも、それが常に正しい判断を導くとは限らない。過去の実績だけで書店や出版社を選別するのは、人を見ていない証拠である。実績も大事だが、ポテンシャルを見出す必要がある。書店も版元を取次も、人を探し、人を育て、人と人のつながりで様々な時間と場所を満たさなくてはならない。凡庸なことを言うようだが、それが真実ではないか。どちらかが一方的に歩み寄らねばならぬような単純な話ではない。マーケットインなどという新しい言葉がにわかに都合よく出てきたとしても、大切なことは昔から変わらない。


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