『マルクスに凭れて六十年――自嘲生涯記〔増補改訂新版〕』岡崎次郎[著]、市田良彦[解説]、航思社、2023年2月、本体3,600円、四六判上製400頁、ISBN978-4-906738-47-2
★まもなく発売。マルクス研究なかんずく『資本論』全訳(大月書店「国民文庫」全9巻、1972/1975年)で知られている岡崎次郎(おかざき・じろう, 1904-1984?)さんが、失踪する前年、1983年に青土社より上梓した単行本の、40年ぶりの増補再刊です。旧版は高額となっていました。今回の新版では「牝馬と口笛――マルクス=エンゲルスの手紙」(1949年)と「乱世の雲水・西行――久保田淳『古典を読む6・山家集』(岩波書店)」(1983年)の2篇が増補され、市田良彦さんによる解説「死が作品になりえたころ」が加えられています。また、凡例によれば「改訂にあたり、旧版の誤字脱字は可能な限り訂正し、新たに編集部による補筆・注釈を追加した」とあります。
★岡崎さんの経歴と業績はウィキペディアで立項されているのでご存知の方もいらっしゃるでしょう。また、マルクス『資本論』を読もうという時、岩波文庫版ではなく国民文庫版を選んだ方がいい、なぜなら…、というアドバイスを知人や先輩から受けた世代の方もいるかもしれません。その理由の背景は本書を読めば明らかです。旧版刊行から40年、市田さんは本書を「現在の視点からこそ世まれるべき書物である」と紹介しておられます。「今風に言えば暴露本」と市田さんは書いておられますが、それは人物にかんする記述が具体的だからです。そして、市田さんの解説もまた率直に書かれています。
★市田さんはこう述べます。「ある種の「歴史」を飛び越えて、岡崎次郎の歴史的「自嘲」は私たちの「現在」を照らし出す。隔世の感と同時に、あれからいったい何が変わったのか、と私たちを立ち止まらせずにいない鈍い衝撃を本書はもたらす。〔…〕時代は変わった、しかし何も変わらない、それを知ることが「現在性」の感覚である」(384頁)。本書は航思社さんの素晴らしいシリーズ「革命のアルケオロジー」の第9弾。個人的な印象では本書こそこのシリーズの一極点を成しているものだと感じます。
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★今回はこのほか、かなり溜まってきた注目文庫について列記するとともに、このところ準備してきた出版論を公開するつもりでした。しかし先週と別様の私用に遮られ、公開版を完成することができませんでした。年齢並みの「ありうべきこと」が継起するのはやむをえません。
★出版論においてはまず「現代における書くことと読むこと」という問題圏への下降を試みています。即時性についての考察が鍵です。並行して、具体的な出版状況論や、編集や営業の基礎業務論を準備していますが、こちらは「沈黙する方がましだ」と年々抑圧を強めてきた自分自身との戦いの側面があるので、どこまでつぶさに実例を引いて説明すべきか、悩みます。そうした抑圧はいずれ人からすべての言葉を奪おうとするものです。出版とは言葉を簒奪するものとの闘いですから、自分自身もまた解放しなければならないはずですが、老いた自分は沈黙の価値も知っており、そう簡単ではありません。
★上記に引いた市田さんの解説の同頁にある「「子分」気質」という評言は実に痛烈に胸に刺さりました。私にとって、生活の乱流の中で、今日という日に『マルクスに凭れて六十年』と、偶然行き当たった2冊、エルネスト・マンデル『官僚論・疎外論』(永井正訳、柘植書房、1978年)と、王陽明『伝習録』(中公クラシックス、2005年)、合わせて計3冊は、何かの刻印を残したように思います。マンデルと王陽明についてはこれまでも学んできましたが、改めて、いまなお新鮮に感じる瞬間があります。自身の胸中にある「なにか」とその都度繋がるからかもしれません。差し当たって次の言葉を引用するに留めたいと思います。
★「いよいよわれわれは疎外の究極的なそして最も悲劇的な形態について述べなければならない。それはコミュニケーション能力の疎外である。コミュニケーションの能力は人間の最も根源的な特質である。コミュニケーション能力がなければ、組織された社会自体が成立し得ない。なぜなら、コミュニケーション能力がなければ言語が存在できず、言語がなければ知能〔インテリジェンス〕が存在し得ないからである。商品生産に基づく階級社会である資本主義社会では、人間の本質に関わるこの能力がねじまげられ、傷つけられ、部分的に破壊されることさえ起こるのである」(『官僚論・疎外論』98~99頁)。
★「そもそも知っているという以上、それは必ず行いにあらわれるものだ。知っていながら行わないというのは、要するに知らないということだ」(『伝習録』18頁)。
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