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注目新刊:中山元訳『存在と時間3』『今こそ『資本論』』

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★中山元さん(訳書:ブランショ『書物の不在』)
ハイデガー『存在と時間』(全8巻、光文社古典新訳文庫)の第3巻と、ウィーン『マルクスの『資本論』』(ポプラ社、2007年)の改題新書版『今こそ『資本論』』(ポプラ新書)を先週上梓されました。


ハイデガー『存在と時間3』に収録されているのは、第一部「時間性に基づいた現存在の解釈と、存在への問いの超越論的な地平としての時間の解明」第一篇「現存在の予備的な基礎分析」第三章「世界の世界性」第一七節「指示とめじるし」から、第四章「共同存在と自己存在としての世界内存在、「世人〔ひと〕」第二七節「日常的な自己存在と〈世人〉」まで。中山さん訳の『存在と時間』の最大の特徴は、長大な解説にあります。翻訳と懇切解説が一冊で読めることによって理解が深まるわけです。
なお光文社古典新訳文庫の9月新刊には、ソポクレス『オイディプス王』河合祥一郎訳、マキャヴェッリ『君主論』森川辰文訳、などが予告されています。


フランシス・ウィーン『今こそ『資本論』』は単行本刊行からすでに10年が経過している、という巻頭言にあらためて驚きます。巻頭言というのは、佐藤優さんによる「資本主義システムの下で生き残るために――新書化によせて」という一文です。「ウィーンの『資本論』解釈は、宇野〔弘蔵〕に近い」と佐藤さんは指摘しています。その理由については店頭で本書をご確認下さい。この巻頭言で佐藤さんはこうもしたためられています。「筆者は、学生時代だけでなく、外交官時代も、職業作家になった今も、『資本論』の論理は正しいと考えている。〔・・・〕自らの利潤を犠牲にして、労働者に回すような「人道的」資本家は、資本主義システムの下では生き残ることができないのだ。これが階級社会の本質だ」(5頁)。「資本主義が人間にとって理想的なシステムとは思わない」(6頁)。佐藤さんは親本刊行の時点で書かれた本書の巻末解説「『資本論』の論理で新自由主義を読み解く」において、「本書はこれから『資本論』の標準的な入門書になるであろう」とお書きになっています。なお本書では中山さんによる解説やあとがきの類は掲載されていません。


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ハーマッハー追悼「D’avec ──ヴェルナー・ハーマッハーから/とともに」(宮﨑裕助)

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D’avec ──ヴェルナー・ハーマッハーから/とともに
宮﨑裕助


 ヴェルナー・ハーマッハーが逝った。69歳であったからまだそんな年齢ではない。自分にとって氏は、同時代に存在し思考しているということ自体が励みになるような数少ない人々のひとりであった。あまりに唐突な死に、いまだどう受け止めてよいかわからないでいる。



 ハーマッハーとの出会い……それはテクストを通じてだった。大学院の修士課程の頃だっただろうか、私は、デリダの『法の力』を通じてベンヤミンの「暴力批判論」に次第に取り憑かれるようになっていた。「暴力批判論」はきわめて難解なテクストであり、当時の自分には到底太刀打ちできる代物ではなかったが、さまざまな註釈や解説を漁っているうちに出くわしたのが、ハーマッハーの「アフォーマティヴ、ストライキ」であった。



 この論文は、ベンヤミンのいう「神的暴力」を、あらゆる(法の)措定に内在する「純粋暴力」へと練り上げ直すことで『暴力批判論』を再読するという試みである。ハーマッハーは、「純粋暴力」の概念を「廃棄(Entsetzung 脱措定)の論理」において再定義し、国家権力を措定する暴力を中断し休止させる契機のうちに、真の革命的瞬間としての「アフォーマティヴ(afformativ)」の働きを見出す。「アフォーマティヴ」は、ハーマッハーが「パフォーマティヴ」という言語行為論の用語と区別すべく案出した造語だが、この語をベンヤミンのテクストの行間に読まれるべきものとして抽出しその余白に書き込むことにより、ハーマッハーは『暴力批判論』のうちに「超越論的ストライキ」の理論を解明するにいたるのである。



 これは、デリダの『法の力』第二部をなす「暴力批判論」読解と同じ雑誌に掲載されていた。デリダの読解がおおむねテクストの進行に沿った註釈であるのに対して、ハーマッハーの読解はベンヤミンの思考と言葉ひとつひとつの振幅からテクストの行間そのものを先取りして再構成したかのようなものとなっている。それは、当のテクストが明示するはずだったができなかった可能性を余すところなく展開しているようにみえた。要するに、デリダの代補的読解とは対照的に、ハーマッハーの読解は、たんなる代補たることにとどまらず、まさしくすべてを焼き尽くす思考の灰として謎めきつつ残っているベンヤミンのテクストに肉薄し、その焔を再演するかのように思われたのであった。



 いまとなってはハーマッハーがベンヤミンの読み手として世界で最高峰のひとりであることに疑いの余地はない。あとでわかったことだが、デリダのベンヤミン論も傍らにハーマッハーのような傑出した読み手がいてこそ産み出されたのであり、親しい友人であったジャン=リュック・ナンシーやジョルジョ・アガンベンにとってもハーマッハーの読みの仕方は一目置かれていた(ハーマッハーのツェラン論は珍しくもナンシーによって仏訳されている)。



 2002年のジャン=リュック・ナンシー・コロキウムでは、デリダとナンシーの有名な丁々発止の対談(「責任──来るべき意味について」)がメインイヴェントであったが、メシアニズムなどの繊細な話題の要所要所で彼らがハーマッハーに遠巻きに合図をしながら話を進めていたのを思い出す。あるいは、デリダ『マルクスの亡霊たち』の論文集にハーマッハーは寄稿しているのだが、論文集の最後でそれらに応答しているデリダ自身はといえば、自分のテクストの射程を見事に取り出し新たに展開しているハーマッハーの読解には返答なしに讃嘆することしかできないと述べていたのが印象的だった(ちなみにデリダは、テリー・イーグルトンのあまりに杜撰な読みに対してもハーマッハーとは正反対の意味でやり過ごしたのだったが。なお、デリダの応答は『マルクスと息子たち』として邦訳されている)。



 ハーマッハーの驚嘆すべき読解の重要な導き手として、ポール・ド・マンがいることもあとから知るようになった。ド・マンの死後直後に発表したハーマッハーのあるテクスト(「文学的出来事の歴史と現象的出来事の歴史とのいくつかの違いについて」)では、直接ド・マンに言及しているわけではないが、読み進めているうちに、ハーマッハーの企図と語彙がド・マンの『美学イデオロギー』のそれに驚くほど一致していることに気づいた。本人にそのことをメールで書き送ってみたところ、否定されることはなく、といってド・マンとの関係を明らかにしてくれたわけでもなかったが、返事の文面からは地理的にも文化的にも遠く離れた一人の日本人がなぜここまで細かく読んでいるのかを知って喜んでいるようにも思われた。いま思えば、もっと図々しくド・マンとのかかわりを質問しておくべきだったと悔やまれる。



 残念ながら、私自身はハーマッハーに直接教わる機会には恵まれず、近年は断続的にメールのやりとりをするだけであった。今年の3月の末突然氏からメールが届いて驚いたことがあった。そこには、長年かけて何度か書き継がれてきたジャン=リュック・ナンシー論(氏はこれを書物にまとめる予定だった)の最新部分が添付されてあった。翌月4月にナンシーが来日するというタイミングだった。



 タイトルは「D’AVEC──ジャン=リュック・ナンシーにおける変異と無言」。元は2015年のジャン=リュック・ナンシーを囲むコロキウムでの発表原稿だが、改稿につぐ改稿を経て、最近ようやく書き上げたのでぜひ日本語で紹介してほしいと添えられてあった。



 このようなことは初めてであった。こちらの求めに応じてテクストを送ってもらったことはあるが、なぜ直接の教え子でもない私に氏のほうからこのような申し出をしてきたのかはわからない。とくに深い意味はないのかもしれない。私は、最新のテクストを送ってもらったことに感謝の念を書き添えつつ、なんとか紹介できるよう手を打ちたいと返事をした。いま思えば、氏はひょっとするとみずからの死期が近いことを予感していたのかもしれない。熱心な読者には少しでも早く、大事なテクストを送り届けておいたほうがよい──そのような希望が託されていたのかもしれない……。



 タイトルの「d’avec」はフランス語を知る者なら一見して奇妙な言葉であることに気づくだろう。この言葉自体は「~からの(差異)」や「~とは(異なる)」の意味をもつ前置詞の一種として、二つのものを距てる相違を記しづける語である。しかしこの語にあっては、なぜ「de」が、その反対の意味をもつ「avec」(~とともに)と結びついているのだろうか。



 この語は、まさに「de」と「avec」の合成からなることで、いわば「距たりにおける共存」を示唆している。これは奇しくもハーマッハーのテクスト、あるいはテクストそのもののありかたを告げ知らせているように思われてならない。ナンシーの有名な概念に「partage」という分割と共有の両方の意味を併せもつ言葉があるが、「d’avec」はまさにそのようにテクストから距てられてあることで、私たちは「ともに」に結びついているのだと示すのである。



 人々を分かつ死もまたそのような距たりなのかもしれない。テクストとは死後に、死を超えてなお読まれ続けることをその本性としている。テクストの構造そのものに宿る死の契機はまさに死者とともに生きるための条件であり、そのような条件のもとでこそ遺された者たちもまた互いに結びつき生き延びるのだということを、この「d’avec」は合図している。



 いまや、ハーマッハーの遺した数多くの素晴らしいテクストとの対話を再開すべきであろう。だがその前に、というより前に進むためにこそ、しばらくはまだ、自分に差し向けられながら遺作となってしまったテクストとともに、この言葉をただ心の奥で反響するがままにしておきたい。D’avec Werner Hamacher...


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「訃報:ヴェルナー・ハーマッハーさん」2017年7月11日
「One 2 many “Ent-fernungen” !」(増田靖彦)2017年7月17日


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注目新刊:ビフォの問題作『英雄たち』がついに翻訳、ほか

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大量殺人の“ダークヒーロー”――なぜ若者は、銃乱射や自爆テロに走るのか?
フランコ・ベラルディ(ビフォ)著、杉村昌昭訳
作品社、2017年6月、本体2,400円、46判上製295頁、ISBN978-4-86182-641-2


★先月(6月29日取次搬入)発売済。原書は『Heroes: Mass Murder and Suicide』(Verso, 2015)であり、翻訳にあたってフランス語版『Tueries』(Lux Editions, 2016)も参照されています。目次を以下に列記しておきます。


[英語版への序文]なぜ若者は、銃乱射や自爆テロに走るのか?
[フランス語版への序文]人間を死に追いやる現代資本主義社会
第1章 “俺はジョーカーだ”――オーロラ銃乱射事件とホームズ
第2章 “人間は課題評価されている”――ヨケラ高校銃乱射事件とオーヴィネン
第3章 “死ぬ直前、一瞬だけ勝者に”――コロンバイン高校銃乱射事件とハリス&クレボルド
第4章 “私はイエスのように死ぬ”――ヴァージニア工科大学銃乱射事件とチョ・スンヒ
第5章 現代資本主義社会において“犯罪”とは?
第6章 “ロボットのように殺人を”――ノルウェー連続テロ事件とブレイヴェーク
第7章 “民族のために生命を捧げた”――マクベラの洞窟虐殺事件とゴールドシュテイン
第8章 “誰も安全ではない”――アメリカ同時多発テロ事件とアタ、ロンドン衛兵惨殺事件とアデボラージョ&アデボワール、ワシントン海軍工廠銃撃事件とアレクシス
第9章 “世界に広がる自殺の波”――横浜浮浪者銃撃殺人事件、ひきこもり、フランステレコム社、イタイア・タラント市、モンサント社、フォックスコン社・・・
第10章 最も自殺の多い国の希望――ソウルへの旅
第11章 何もなせることがないときに、何をなすべきか?
[フランス語版解説]X線撮影された社会的身体(イヴ・シットン)
[フランコ・ベラルディ(ビフォ)へのインタヴュー]大量殺人と自殺の分析を通して見えてくるもの(広瀬純=インタヴュー/翻訳)
本書で取り上げられた「大量殺人事件」の概要(作品社編集部)
訳者あとがき
参考文献・映画


★フランス語版解説でシットンはこう書いています。「本書は、いま現在、われわれの社会の中心部で起きていて、今後もそうした方向に向かっていくであろう社会崩壊と壊滅を、譲歩も容赦もなしに、あますところなくX線撮影したものである」。同様に、訳者の杉村さんは本書をこう紹介しています。「近年世界中を席捲している「自殺テロリズム」の心理的・社会的分析を克明に行ないながら、「絶対資本主義」時代の文明的不安の正体をえぐりだそうとした新作である」(訳者あとがきより)。「本書の核心的テーマは、『プレカリアートの詩』〔櫻田和也訳、河出書房新社、2009年、品切〕で展開された現代金融(記号)資本主義の社会分析に依拠して、そのネガティブな社会的様相をペシミスティックな観点から文明史的に描き出そうとしたものと言えるだろう」(同)。



★「悪魔は存在しない。存在するのは、このところますます“自殺”という形態に人々を追い込んでいる資本主義社会、そして漠然とした絶望のひろがりである」(15頁)とビフォは書きます。「現代のテロリズムは、確かに政治的文脈から説明することができるだろう。しかし、そうした分析の仕方だけでは不十分である。われわれの時代のもっとも恐るべきもののひとつであるこの現象は、何よりもまず自己破壊的傾向の広がりとして解釈されなくてはならない。もちろん「ジハード」(殉教あるいは自殺的テロリズム)は一見、政治的・イデオロギー的・宗教的な理由から発動する。しかし、この修辞的外観の下には、奥深い自殺動機が潜んでいて、その引き金となるのは、つねに絶望であり、屈辱であり、貧困である。自らの人生に終止符を打とうとする男女にとって、生きることが耐えがたい重荷になり、死が唯一の解決策、大量殺人が唯一の復讐になるのだ」(18~19頁)。「自殺者の数、とくに他人の生命を奪う自殺の数が増加しているのは、明らかに社会生活が、不幸を生産する工場になっているという事実に由来する。一方に「勝者」がいて、他方に勝者とはほど遠い意識の持ち主がいるという厳然たる状態において、勝利する(たとえ短い時間でも)ための唯一の方法は、自分の生命を犠牲にして、他者の生命を破壊することである」(19頁)。


★本書は読み方を間違えてはいけない本で、注意を要します。ビフォが書く通り本書は「われわれを取り巻く悲しみ、そして、しばしば侵略的・暴力的な大量殺人にまで至る激怒に変容する悲しみを解剖したものであ」り、「大量殺人と伴った自殺についての試論であり、今日の資本主義と呼ばれるものの本質――金融による抽象化、人間相互の諸関係の潜在化、不安定労働、競争主義など――を把握しようとしたものである」(19~20頁)であって、テロリストの行動と思想を賞讃する名鑑ではありません。原書名である「ヒーローズ(英雄たち)」というのは強烈な皮肉なのですが、読み間違えることを懸念してか、最終章「何もなせることがないときに、何をなすべきか?」の末尾で、あまりにも暗い絶望感が漂う本書の分析について「私の破局的な予感を、あまりまともに受け取らないでほしい」(242頁)とビフォは書いています。『大量殺人の“ダークヒーロー”』は今年刊行された人文書新刊の中でもっとも「問題作」だと言うべき一冊です。


★本書に関連する新刊がこのあと何冊か続きます。
7月26日発売予定:ガタリ『カオスモーズ 新装版』河出書房新社
8月15日発売予定:栗原康監修『日本のテロ――爆弾の時代 60s-70s』河出書房新社
ガタリの『カオスモーズ』はビフォが本書で重要な参照項としている本です。「カオスモーズは、社会的連帯の身体的再活性化、想像力の再活性化であり、経済成長という限定された地平を超えた新たな人間進化の次元を指し示す」(239頁)。また、水声社さんからビフォのガタリ論『フェリックス・ガタリ――そのひとと思想と未来図法(仮)』が刊行予定だと著者略歴に特記されています。


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★また、今月の新刊では以下の書目に注目しています。


『ベルクソニズム 〈新訳〉』ジル・ドゥルーズ著、檜垣立哉/小林卓也訳、法政大学出版局、2017年7月、本体2,100円、四六判上製180頁、ISBN978-4-588-01063-7
『マルセル・デュシャンとチェス』中尾拓哉著、平凡社、2017年7月、本体4,800円、A5判上製396頁、ISBN978-4-582-28448-5



★ドゥルーズ『ベルクソニズム』は発売済。『ベルクソンの哲学』(宇波彰訳、法政大学出版局、1974年、絶版)の後継となる新訳です。「近年の研究動向を取り入れた」(帯文より)、実に40数年ぶりの新訳。原書は『Le bergsonisme』(PUF, 1966)です。檜垣さんは訳者解説でこう本書を評しておられます。「ドゥルーズは、ベルクソン自身がおこなった以上にベルクソンの核心に接近し、それを独自の存在論的思索にまで高めていく。この書物はきわめてコンパクトなものであり、ドゥルーズという大思想家の作品群のなかでは、そのキャリアのほんのプロローグ的な位置づけに置かれるものでしかない。しかしそれにしてもここでのドゥルーズのベルクソンをあつかう切れ味には凄まじいものがある」(131~132頁)。「ドゥルーズは〔生涯の〕最後まで「内在の哲学」にこだわった。最後の原稿である「内在:一つの生・・・」にはさまざまな哲学者が登場するが、内在にせよ、生にせよ、その言葉をドゥルーズがもちいる根底にはつねにベルクソンがいる。そのことは初期の作品といえるこの書物以降、けっして変わることがないものである」(158頁)。



★中尾拓哉『マルセル・デュシャンとチェス』はまもなく発売。2015年に多摩美術大学大学院美術研究科に提出された博士論文に大幅な加筆修正を施したもので、帯文にはいとうせいこうさんの推薦文が刷られています。曰く「チェスとデュシャンは無関係だという根拠なき風説がこの国を覆っていた。やっと霧が晴れたような思いだ。ボードゲームは脳内の抽象性を拡張する」。主要目次を列記しておきます。序章「二つのモノグラフの間に」、第一章「絵画からチェスへの移行」、第二章「名指されない選択の余地」、第三章「四次元の目には映るもの」、第四章「対立し和解する永久運動」、第五章「遺された一手をめぐって」、第六章「創作行為、白と黒と灰と」、あとがき、註、参考文献、索引(人名・事項)。「なぜ、私のチェス・プレイが芸術活動ではないのですか。チェス・ゲームは非常に造形的です。それは構築される。それはメカニカルな彫刻ですし、美しいチェス・プロブレムをつくります。その美しさは頭と手でつくられるのです」(序章、18頁)とデュシャンは語ったと言います。「このデュシャンの言葉から、本書は開始される。これからのデュシャン論においては、チェスを「藝術の蜂起」の代名詞として「非芸術」へと分けるよりも、むしろその区分によって失われていたものを探し出すことが期待されるのである」(18~19頁)と著者は書きます。著者の中尾拓哉(なかお・たくや:1981-)さんは美術評論家。本書がデビュー作となります。


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★このほか、最近では以下の新刊との出会いがありました。


『反「大学改革」論――若手からの問題提起』藤本夕衣/古川雄嗣/渡邉浩一編、ナカニシヤ出版、2017年6月、本体2,400円、4-6判並製264頁、ISBN978-4-7795-1081-6
『外国人をつくりだす――戦後日本における「密航」と入国管理制度の運用』朴沙羅著、ナカニシヤ出版、2017年7月、本体3,500円、4-6判上製296頁、ISBN978-4-7795-1185-1
『イマ イキテル 自閉症兄弟の物語――知ろうとするより、感じてほしい』増田幸弘著、明石書店、2017年7月、本体1,600円、4-6判並製336頁、ISBN978-4-7503-4542-0



★まずはナカニシヤ出版さんの新刊2点。『反「大学改革」論』は発売済。巻頭の「はじめに」によれば本書は「「若手」に属する大学教員・研究者――基本的に40歳以下としたが、例外も含む――が集い、それぞれの立場から、大学の在り方を根本的に問いなおすことを試みて」おり、「大学論に加え、教育学の諸分野(教育哲学、教育史学、教育社会学、教育行政学)、さらには哲学、文学、科学史、物理学といった、文理にまたがる多様な専門をもつものが、「大学改革」を論じ、それを総合することをめざした」とのことです。目次詳細と寄稿者略歴は書名のリンク先をご覧ください。


★朴沙羅『外国人をつくりだす』はまもなく発売。2013年に京都大学大学院文学研究科へ提出した博士論文に大幅な加筆修正を施したものです。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。「本書は、日本が中国やアメリカとの戦争に負け、連合国軍が日本を占領していた時期(すなわち1945年9月から1952年4月までのあいだ。以下「占領期」)に、日本へ渡航してきた朝鮮人がどのように発見され、どのように登録されたのかについて、個人の体験談と文献から明らかにする」(序章、3頁)。「本書は、いかにして入国管理体制は在日コリアンを対象としたのかという問題を、解放後の朝鮮から占領期の日本への「密航」と「密航」後の地位獲得プロセスから検討するものである」(同、17頁)。著者のブログの7月20日付エントリー「単著を出版します」では、巻末の「謝辞」とは異なる、未掲載の「あとがき」を読むことができます。



★増田幸弘『イマ イキテル 自閉症兄弟の物語』はまもなく発売。著者がひょんなことから知り合った、自閉症の子供をもつ家族四人の生活を10年にわたる取材を通じて綴ったもの。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。知人や関係者による10の証言も随所に挿入されています。家族が向き合ってきた数々のエピソードに接するとき、自身の理解力の限界を感じ、安易な感想や印象を言うのが憚られます。本書は部分的に教訓を抜き出せるような類の軽い本ではなく、その全体を通読し再読することをもってしか接近しえない固有の重みを持っていると感じます。


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「本to美女」にアガンベン『到来する共同体』の書評が掲載されています

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「本to美女」2017年7月21日付、西村歩さん記名記事「私たちって何なんだ。どこにいるんだ。思考を巡らす楽しさを味わってみない?『到来する共同体』」で、弊社既刊書、アガンベン『到来する共同体 新装版』(上村忠男訳、月曜社、2015年)を取り上げていただきました。モデルは小林真琴さん。「本to美女」は「美女と一緒に悩みを解決する書評メディア」というユニークなサイト。


運営者は「株式会社SENSATION」さんで、「「悩みを、ワクワクに。」をメッセージとして、多くの人々の悩みを解決することで、ワクワクが溢れた社会を創っていくために、私たちはサービスを提供し続けます」とのことです。代表取締役の有吉洋平(ありよし・ようへい:1990-)さんは東京大学工学部卒、コンサルティングファームの株式会社ローランド・ベルガーを経て、2015年に「株式会社SENSATION」を創業されています。

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メモ(25)

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「DIAMOND online」2017年7月25日付、須賀彩子(ダイヤモンドZAi編集部)氏記名記事「ヤマトがアマゾンに1.7倍の運賃値上げと総量抑制を要請、ヤマ場は9月」によれば、ヤマト運輸はアマゾン・ジャパンの宅配便数の4分の3を担っており、残り4分の1は日本郵便だと言います。記事ではアマゾンからの荷物の平均単価はヤマトの運賃表の4割程度であり、「これは2013年に佐川急便が利益が出ないとしてアマゾンの仕事から撤退したときの価格に等しい」と。ヤマトは値上げを要求し、さらに現在引き受けている宅配便のうち20%前後の荷物は引き受けられないとも伝えていると言います。詳しくは同記事をお読みください。コメント欄付のヤフーニュース版はこちら。



記事によれば「アマゾンは、自前で物流網を築くとしているが、「そんなにすぐにはできない。4~5年は要するだろう」(物流関係者)という」。時間がかかるだろうことは明白ではありますが、アマゾンはそこまでは待てないでしょうから、何かしらの手を打つだろうと思われます。とはいえ、中小の運送会社にいくら頼ったところで・・・という各方面の嘆き節はしばらくは収まらないでしょう。自動運転やドローンによる配送が実現するのも、この日本では近い将来、とまではなかなか思えません。


直取引を開始している版元や検討している版元からすでに様々な「ボヤキ」が聞こえてくる昨今、とうとうバックオーダー発注停止から1ヶ月が経とうとしています。版元によっては日販の売上がどの程度変化しているかを見極めて、アマゾンとの直取引の是非を考えざるをえないでしょう。実際のところアマゾンが検討すべきなのは、直取引に固執しないもう一つの回路を作っておくことではないかと思います。すなわち、版元への直発注です。普通の書店ではやっていることをアマゾンがやらないのはなぜか。結局版元が納品するのは日販にであって、そこからアマゾンに届くまでの時間を何とかして短くしたいなら、手っ取り早いのはやはり直取引だ、ということだからでしょう。


しかし、日販との取引の積み重ねがある大方の版元にとっては、信義上、簡単に直取引に乗り換えられるものではありません。加えて、そもそもアマゾンが取引先として信頼に足る相手なのかどうか、版元には根強い不信感があります。その不信感は版元が一方的に抱いている偏見などではなく、アマゾン自身が引き起こしているものです。そのことにそろそろアマゾンは気づくべきです。なぜ緑風出版、水声社、晩成書房が今なお出荷停止をしているのか。学生への割引販売は大学生協でもやっていますから、学生が安く買える状況に文句を言いたいわけではないだろうと思います。そうではなく、アマゾンはおおむね、版元への事前相談なしに大事なことを決めてしまい、それについて版元と真摯に協議する姿勢が見られない、というのが一番の問題なのではないでしょうか。「アマゾンはいずれ再販制を無視して本の安売りを始めるに違いない」と疑われても仕方ない態度しか見せてこなかった、という版元にとっての「現実」に対して、アマゾン自身が何かしらの反省をしているようには残念ながら見えません。「それは誤解だ」と平然と言ってのけている内は、版元との距離感は縮まりようがないでしょう。


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バックオーダー発注停止から1ヶ月経とうとしている今、不思議なのは、アマゾンが在庫を持っていない商品についても買い物カゴがまだついている、ということです。いわゆる「カート落ち」になっておらず、取寄せ表示になっています。「通常9~14日以内に発送します」「通常1~4週間以内に発送します」「通常2~4週間以内に発送します」「通常1~2か月以内に発送します」だけでなく、「一時的に在庫切れ、入荷時期は未定」と表示していても、買い物カゴがついているケースを7月半ばまで見かけました。これはおかしい。取寄せはしないんじゃないの? 取寄せ発注しないのに在庫復活は無理でしょう。お客様とトラブルになりかねないではないですか。25日現在、弊社本の場合、取り寄せはむしろ減って、1冊でも在庫しよう、と努力しているように見えます(それでもまだ取寄せ表示の銘柄が数点残っています)。


アマゾンにとってもカート落ちは怖いのだと見えます。それはそうでしょう。今のままアマゾンが発注をやめていれば、直取引版元以外で、日販ともMD契約をしていない版元の銘柄は間違いなくガンガン「カート落ち」します。驚いてしまうのは、「ロングテールの終焉」のリスクというごく当たり前の展開を、アマゾンがさほど真剣には考えてこなかったらしいことです。アマゾンへの「誤解」が解ければ、出版社は直取引に応じるはずだ、という期待も、今となっては甘すぎました。日販経由のバックオーダー短冊は止まったものの、日販のウェブブックセンターへの発注は止めていないのではないかと想像できます。そうでなければ、弊社銘柄の在庫の復活は説明できません。


とはいえ、今後どうなるのかは今しばし観察する必要があります。カート落ちが発生した場合、弊社がお客様にお薦めしたいのは、hontoとMJB(丸善、ジュンク堂、文教堂の店頭在庫)からの購入です。アマゾンしか通販の選択肢がないわけではない、というごくごく当たり前の事実をもう一度見直す必要があります。


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メモ(26)

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アマゾン・ジャパンが日販や版元に申し立てている「引当率」の根拠がいかに(版元にとっては)ずさんなものかが分かる証言がここ最近改めて出始めています。某版元営業さんのツイートによれば「アマゾンより「貴社欠品状況と日販引当率をお知らせします」というメールがくるようになったけど、100点ばかりあげられている「需要高カート落ち商品リスト」の内容が、すべて旧版やVANでも品切れにしているものなんだが。日販に補充しろといわれてもな」と。



こうしたメールはまだ弊社には届いていませんが、他社さんからも同様の感想を聞いています。メールでお知らせが来るということは、おそらくベンダーセントラルに登録している版元を中心に、順次送っているのだと思われます。アマゾンはバックオーダー発注停止に伴う説明会の折に、数字を羅列しただけでまったく具体的な書名を挙げていない引当率のデータを版元に提示し、混乱した印象しか与えてきませんでした。さすがに各方面から突っ込みが入ったのか、ようやくカート落ち問題に関連して具体的な書名のリストを版元に送り始めた、ということでしょうか。


し・か・し、欠品の内容たるや、旧版や品切本ばかりというわけです。そんなのをカウントしていたらそりゃ引当率は下がりますよ。開いた口がふさがらない。実際このことは以前から版元サイドからは疑問視されてきました。これと同じことを2年前にもアマゾンはやらかしているのです。


2016年の夏、栗田が民事再生法適用を申請した後に行われた版元への「増売セミナー」で、アマゾンは販売機会欠損率ワースト30の書目リストを版元に提示しています。その昔当ブログでも明かしたかと記憶しますが、弊社に提示されたリストではワースト30のうち、25点は普通に送品できている本でワーストでも何でもなく無理やりリストアップされているものでした。そして、残りの5点は版元品切本だったのです。こんな馬鹿馬鹿しいことをいつまでアマゾンは続けるのでしょうね。


こうした品切本や旧版まで含めてアマゾンは日販に在庫しろ、と言っている(に等しい)のでしょうから、無茶にもほどがあります。日販さんはもっと怒っていいはずです。だって本当に無茶苦茶なんだから。アマゾンの発注方法に合理性を感じないなら、はっきりとそう内外に説明すべきです。


先述の版元営業マンさんはこうもお書きになっています。「取次の在庫ステータス22と32はアマゾンからの発注がでないって書いてるけど、もしかしてVAN関係なく、フル発注して引当率下げてるんじゃ?って疑いたくなる。欠品率で品切れ商品の無駄データを送ってくるぐらいなら、引き当て不能だった書籍のデータが欲しいわ。それちゃんと補充するから」。フル発注疑惑、これですね。引当不能書目が何だったか、それをきちんとアマゾンが版元に直接提示し確認できれば、問題はすぐに解決できるはずです。なぜそれをやらないのか。


直取引の有無に関係なく、アマゾンは版元に直接、在庫確認や発注を行えばいいのです。それだけでもずいぶんと混乱は収まるはずです。e託最優先思想から脱却しない限り、アマゾンの「すぐに調達、すべてを調達」というミッションは達成されようがありません。


別の版元さんからはこんな声も聞かれました。「絶版本をKINDLEかPODにしろと言われるが、改訂前のものを商品化して何の意味があるのか」。まったくその通りで、もう本当に椅子から転げ落ちそうになりますね。絶版本の中身を精査しないままで「すべてを調達する!」と言われても、そんなアバウトすぎる需要予測には、版元にとっては何の意味もありません。


アマゾンは毎日全単品の需要予測を独自に算出していると言っていますが、その需要予測にどんな要素が組み込まれているか、版元に開示するつもりはなさそうです。しかし、調達率や引当率を上げるためには、アマゾンの需要予測の精度がそもそも問題になってくるわけで、そこを精確にメーカーである版元に説明できなければどうしようもありません。なぜ旧版や年度落ち本が必要なのか、非常に興味深いので、その理由をぜひ詳しく教えて欲しい。


アマ「くれよ」、版元「ないよ」、アマ「欲しいんだよ」、版元「なんでだよ」、アマ「売れる見込みがあるからだよ」、版元「どこかだよ」、これの繰り返しですよ、今のままでは(コント「アマゾンくん」)。


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一方ではこんなこともあります。あくまでも寓話です。


版元「この本はよく売れているからもっと在庫してもらった方がいいと思うんだけど」
アマ「そういうことは取次さんに相談してください」
版元「・・・(回りくどいわ~)」
版元「取次さん、そういうことなんでアマゾンさんに在庫してもらった方が」
取次「発注するしないはアマゾンさん次第なんで」
版元「・・・(これ以上どうしろっていうんだよ)」
アマ「e託もご検討ください、バックオーダー止めるんで」
版元「はあ?(正気かよ)」
アマ「・・・(在庫なくなった)」
版元「・・・(やっぱりな。あとはアマゾンの発注待ちか)」
版元「・・・(カートが落ちると2~3週間は復活しないんだよな)」
取次「・・・(うちの倉庫だって扱える物量の限界はあるよ)」
アマ「10月に藤井寺FCと八王子FCを稼働させるよ」
版元「・・・(中小版元の本を在庫してくれるのか?)」
アマ「・・・」
取次「うちも在庫点数を増やすべく頑張ってますんで」
版元「・・・(MD契約してないから取次に何を何冊在庫してもらってるかわからん)」
版元「・・・(昔っからカート落ちって版元品切と勘違いされるんだよな)」
著者「出版社さん、なんでアマゾンで扱ってもらえないの?」
版元「はあ、扱ってもらえるかどうかはアマゾン次第なんです」
著者「アマゾンさん、なんで?」
アマ「当社の需要予測に基づいています」
お客「出版社ではもう品切なんですか」
版元「ありますよ、全国の書店さんでご発注いただけます」
お客「本屋さん、この本欲しいです」
書店「取り寄せになるので多少時間かかります」
お客「・・・(早く欲しいのに)」
お客「出版社さん、アマゾンで買えないんですけど」
版元「かくかくしかじかの本屋さんでは在庫しているようですよ」
お客「検討します(アマゾンなら送料無料ですぐ届くのに)」
版元「・・・(なにかとアマゾンアマゾンって言われてかなわんな)」
運送「当日配送キツイわ、撤退したい」
アマ「・・・(代替をちゃんと探してあるもんね)」
お客「デリバリープロバイダから荷物届かない」
アマ「・・・(米英ではさらなる施策を試行錯誤してるし日本でも)」

新聞「配送トラブルが出ていると言われているが?」
アマ「現在は解消しています」
デリ「・・・(正直無理だわ)」


例えば今日現在、弊社5月刊『鉄砲百合の射程距離』(内田美紗=俳句、森山大道=写真)はアマゾンでは「通常1~4週間以内に発送します」と表示されています。「honto」では1~3日以内に出荷との表示。本書は弊社銘柄中、いまもっとも客注が多い書目で、おそらくアマゾンでも在庫すればそれなりに堅調に動くでしょう。ちなみに同書は版元在庫ありなので、もしアマゾンさんが弊社に直接発注を出してくれれば、午前中の受注で翌営業日、午後の受注で翌々営業日に取次搬入可能です。取次が在庫を持っていない場合でも取寄せ発注を出すよりかは多少は時短になると思うのですけれども。


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注目新刊:クセナキス『音楽と建築』新編新訳版、ほか

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音楽と建築

ヤニス・クセナキス著 高橋悠治編訳
河出書房新社 2017年7月 本体2,800円 46判上製184頁 ISBN978-4-309-27618-2
帯文より:「音楽が知性だった。建築は力だった。もう世界の終わりなき流動を怖れる必要はなかった。感じ考えていたのは世界だったのだから」(岡崎乾二郎)。高度な数学的知識で論じられる音楽と建築のテクノロジカルな創造的関係性。コンピュータを用いた現代における表現の、すべての始原がここに――。伝説の名著、新編・新訳。


目次:
訳者まえがき(高橋悠治)
音楽
 1 確率論と作曲
 2 三つのたとえ
 3 メタミュージックに向かって
 4 音楽の哲学へ
  一般事例
  事例《ノモス・アルファ》の分析
  《ノモス・ガンマ》――《ノモス・アルファ》の一般化[英語版から]
  天命の指針
建築
 5 フィリップス展示館――建築の夜明け
 6 「電子的運動表現」覚書
 7 宇宙都市
 8 見るための音楽《ディアトープ》
ヤニス・クセナキスの軌跡(高橋悠治)


★発売済。巻末特記によれば「本書は、1975年に全音楽譜出版社から刊行された同タイトルの書籍を、増補・改訳したものです」と。より詳しくは巻頭の「訳者まえがき」で説明されています。「この本は基本的には1975年に全音楽譜出版社から出した『音楽と建築』の再版だが、音楽についての第1部はフランス語の原文『Musique Architecture』(Casterman, 1976)と『Formalized Music』(Pendragon, 1975)中の英訳から、建築に関する第2部は『Music de l'architecture』(Éditions Parenthèse, 2006)のフランス語原文と『Music and Architecture』(Pendragon, 2008)の改訂版英訳から選択し、フランスワーズ・クセナキスとシャロン・カナークの了解のもとに、クセナキス入門とも言える独自の日本語版とした。《ディアトープ》についての講演と、そこで参照されたプラトン、パスカルなどの文章を新しく訳した」とのことです。


★参考までに旧版(底本はCastermanより刊行された『Musique Architecture』の初版1971年版。1976年版は増補新版)の目次を列記しておきます。


日本語版への序
序 「音列音楽の危機」より
第1部 音楽
 第1章 確率論と作曲
 第2章 三つのたとえ
 第3章 作曲の形式化と公理
 第4章 三つの結晶核
 第5章 超音楽へ
 第6章 音楽の哲学へ
  一般の場合
  特殊の場合――「ノモス・アルファ」の分析
  「ノモス・ガンマ」――「ノモス・アルファ」の一般化
  運命指示計
第2部 建築
 「電子詩」1958――ルコルビュジェ
 第1章 フィリップス館
 第2章 電子的身振りについて
 第3章 宇宙都市
年表ヤニス・クセナキス
訳者あとがき(高橋悠治)


★河出書房新社さんから再刊するにあたり「訳文を最初から作り直」したとのことで、底本も同一ではありませんから、旧版を持っている方も今回の「新編・新訳」版は購読された方がいいと思います。新版にあって旧版にないものは新たに訳出されたクセナキスの「見るための音楽《ディアトープ》」と、高橋さんによる「訳者まえがき」および「ヤニス・クセナキスの軌跡」です。逆に旧版にあって新版にないものは「日本語版への序」「序 「音列音楽の危機」より」「三つの結晶核」「「電子詩」1958――ルコルビュジェ」、そして「年表ヤニス・クセナキス」「訳者あとがき」です。これらのことを勘案すると、図書館さんにおかれましては今回の新版を配架したからといって旧版を除籍するのは妥当ではありません。


★高橋さんは「訳者まえがき」で本書の背景に「古代ギリシャ哲学、現代ギリシャの政治状況、独裁体制やファシズムとたたかった地下活動体験、亡命者の孤独のなかから作り出した思想と方法がある」とお書きになっています。「デモや武装闘争の記憶、複雑な自然現象や社会の暴力の経験から創られた独自の音楽や建築には、確率論や統計数学をはじめとする数学を使って、多数の粒子が一見無秩序に飛び交う空間、乱流やノイズを、意志と方向をもって統御している。安定した社会のいままでの音楽や建築が知らなかった、揺れ動く不安な社会、さまざまな文化がぶつかりあう難民や亡命者の世界が作り出した芸術のあたらしいかたちのひとつといえるだろう」。


★新訳「三つのたとえ」(1958年)から印象的な文章を引きます。「思想やエネルギー活動、人間にあたえられ人間が担う物理的現実を反映する精神過程と心理現象の光と影があり、音楽はそれらすべてのマトリックスだ。世界観の表現としては、波動、樹木、人間だけでなく、理論物理学・抽象論理学・現代代数学などの基礎理論もそこに入っている。哲学であり、存在するものの個的・普遍的側面でもある。闘争と対比、諸存在と現在進行中のプロセスとの折り合う地点は、19世紀の人間(神)中心主義的発想とは遠い。思考様式には物理学やサイバネティクスなどの現代的精神に支配されている。〔・・・〕音楽こそどんな芸術にも増して、抽象的頭脳と感性的実践とが、人間的限界内で折り合う場なのだ。音楽は世界の調和だとは個人の言い草だが、現代思想からもおなじことが言える。〔・・・〕20世紀前半の思想とプロセスの嵐に揉まれた後で、音楽的探究や実現の範囲を拡大することが絶対必要だ。伝統の息詰まる温室から出して、野外に解放しよう」(21頁)。


★河出書房新社さんの今月の再刊本では、本書のほかに、以下の新装版が刊行されています。


カオスモーズ 新装版
フェリックス・ガタリ著 宮林寛/小沢秋広訳
河出書房新社 2017年7月 本体3,800円 46判上製224頁 ISBN978-4-309-24816-5


帯文より:「生活とは、たくさんの異質な流れが絡み合ったものである。その複雑さを捉えるには、従来の学問では足りない。だからガタリは、独自の抽象思考に踏み出した。生活の細部に分け入ること、それが人間の未来像を見ることなのだ」(千葉雅也)。「フェリックスは稲妻だった」(ドゥルーズ)。没後25年、時代はようやくガタリに追いついた――その思考と実践のすべてを注ぎ込んだガタリの遺著にして代表作、復活。


目次:
1 主体感の生産をめぐって
2 機械性異質発生
3 スキゾ分析によるメタモデル化
4 スキゾなカオスモーズ
5 機械性の口唇性と潜勢的なもののエコロジー
6 美の新しいパラダイム
7 生態哲学〔エコゾフィー〕の対象
原注
訳者あとがき


★初版が2004年刊ですからもう13年も経過しているのですね。今回の再刊にあたり、特に追記等はありません。原書は『Chaosmose』(Éditions Galilée, 1992)であり、同年に死去したガタリの遺著です。河出さんでは関連書として昨年末、上野俊哉さんの『四つのエコロジー――フェリックス・ガタリの思考』を出版されています。


★ガタリは「機械性の口唇性と潜勢的なもののエコロジー」で現代社会のありようと課題を次のように述べています。「現在の世界は、環境論的にも人口論的にも都市論的にも行き詰っていて、それらを揺さぶっている技術や科学の驚くべき変貌を、人類の利益と両立可能なかたちで引き受けることができないでいます。深い奈落か根本的な更新かのあいだで、目もくらむような競争が始まっています。経済的、社会的、政治的、道徳的、伝統的な分野で磁石の針はすべて一つまた一つと狂いつつあります。価値の軸、人間関係や生産関係の基本的な目的を立て直すことが至上命令になっています」(146頁)。ガタリが構想した生態哲学〔エコゾフィー〕はこうした危機への果敢な挑戦です。「一般エコロジーもしくは生態の哲学〔エコゾフィー〕は、生態系の科学として、政治的再生を賭して作業しますが、同時に、倫理的、美的かつ分析的な行為参加としても作用します。それは新しい価値付けシステム、生に対する新しい嗜好、男と女の間、世代間、種族や民族間における新しくかつ優しい在り方を目指すのです」(146~147頁)。


★カオスとコスモスとオスモーズ(浸透)を一つにつないだものと訳者が説明する「カオスモーズ」は非常に興味深い概念です。例えば「美の新しいパラダイム」にはこんな記述があります。「無限の速度による連続的往還によって、多種多様な実体が、存在論的に異質な複合において互いに差異化しあうこと、同一の「在る-否-在る」の反復のなかで、姿かたちの雑多性を破棄しながら均質化しつつ、カオス化すること〔・・・〕。多様な実体たちはここで、外的な参照系や座標系とのつながりを失う混沌とした臍の地帯に向けた投身を繰り返しながら、その臍の地帯から新たな複雑性を充填して再び現れることができるわけです」(176~177頁)。


★本書の末尾でガタリは次のように書いています。「精神分析、制度論的分析、映画、文学、詩、革新的な教育法、都市整備、建築、クリエーター、これらの専門分野はすべて、それぞれにおける創造性を結集し、地平線上に現れつつある野蛮、精神の内部崩壊、カオスモーズ的な痙攣という試練を、打ち払い、不可知の豊かさと喜びに変えるという使命を担っています」(212頁)。専門性に閉じこもることなく横断し交流することを訴えるガタリの動き続ける魂が本書から今もなお立ち昇っています。


★ちなみに帯文にある千葉雅也さんの推薦文は、ガタリの思想を端的に表現しているとともに、千葉さんの『勉強の哲学』に続くことが予想される理論的著作への扉ともなっているように読めます。千葉さんは今月末発売された『現代思想』2017年8月号の特集「「コミュ障」の時代」で、「コミュニケーションにおける闇と超越」という討議を國分功一郎さんと行なっておられます(53~69頁)。先月創刊された、「芸術(体験)と言葉」を掲げた雑誌「NOUMU」の創刊号の主題が「不可能なコミュニケーション」でしたが、こうした一種の主題的共振は同時代性において不可避のものです。私事で恐縮ですが「多様体」第零号(八重洲BC本店「月曜社フェア」ノベルティ、2016年7月)所収の拙文「シグマの崩壊」で書いたこともこうした同時代性の磁場の内にあるものです。


★國分さんは討議で「「言葉の力」を訴えることは、ある種の精神的な貴族性を肯定することにつながると思うんです。〔・・・〕僕は今そのことばかり考えています。〔・・・〕僕にとって貴族的なものというのはずっとテーマとしてあって、『暇と退屈の倫理学』も一言で言うと、全員で貴族になろうという本だったんですね」(59頁)と発言されています。この貴族性、貴族的なものという言葉はこの討議のキーワードの一つになっていて、同時代の様々な議論と接続していく回路になっていると感じます。これはいわゆる「貴族階級そのもの」ではなく、「権威主義なき権威」(國分)や、「高貴な民衆」(千葉)といった問題圏と接しています。千葉さんは「貴族的なるものの再発明を旧来の既得権益の継承とは別のかたちで」考えること(63頁)を問うておられます。國分さんは「貴族的なものを僕は「徳」だと考える」(同)と。私自身の関心に変換して言うとそれは民主主義の発展形としての「アリストアナーキズム(貴族的無政府主義)」という圏域への困難だけれども必要な旅、ということになります。


★なお千葉さんと國分さんはガタリについて次のようにも語っておられます。千葉「最近僕もガタリを読み返していて、現代的に深読みができるなと思っています」。國分「ドゥルーズがそこに気づいて面白がっていたということなのでしょうね。ある意味では時代がガタリに追いついてきた」。帯の文言と一致していますが、これも一種の不可避な共振であり、共謀なき同意かと思います。


+++


★このほか最近では作品社さんの次の新刊2点(いずれも発売済)との出会いがありました。


『クルアーン的世界観――近代をイスラームと共存させるために』アブドゥルハミード・アブー・スライマーン著、塩崎悠輝/出水麻野訳、塩崎悠輝解説、作品社、2017年7月、本体2,400円、四六判上製310頁、ISBN978-4-86182-644-3
『ウィッシュガール』ニッキー・ロフティン著、代田亜香子訳、作品社、2017年7月、本体1,800円、四六判上製246頁、ISBN978-4-86182-645-0



★『クルアーン的世界観』の原書は『The Qur'anic Worldview: A Springboard for Cultural Reform』(International Institute of Islamic Thought, 2011)です。著者のアブー・スライマーン(AbdulHamid AbuSulayman, 1936-)はサウジアラビアの穏健派知識人で現在「国際イスラーム思想研究所」の代表であり、「米国児童育成基金」の代表でもあります。本邦初の訳書となる本書は「ムスリムの共同体が過去に持っていた世界観と歴史上の様々な段階を多様な側面から顧みる。そしてイスラーム文明の最初期における飛躍の根本的な原因をつきとめる。本書はまた、ムスリムの共同体が持つようになったさまざまな観念に影響した重要な原因と、現在直面している危機を示す」(4頁、「はじめに」より)ものです。


★目次を以下に列記しておきます。
日本語版へのメッセージ

はじめに
アラビア語版への序文
第一章 クルアーン的世界観と人類の文化
第二章 クルアーン的世界観で具体的に示された諸原則
第三章 クルアーン的世界観――改革と建設の基礎、出発点、インスピレーション
第四章 イスラーム的世界観と人道的倫理の概念
第五章 国際イスラーム思想研究所による大学カリキュラムの発展に向けた計画
付録Ⅰ 改革のための教育
付録Ⅱ 信仰――理性に基づくものなのか、奇跡に基づくものなのか
原註
解説「イスラーム独自の近代は可能か?」(塩崎悠輝)
訳者あとがき




★『ウィッシュガール』の原書は『Wish Girl』(Razorbill, 2015)で、アメリカの作家ロフティン(Nikki Loftin, 1972-)の初めての訳書です。冒頭部分を引用します。「十三歳になる前の夏、ぼくはあまりにもじっとしていたせいで、死にかけた。/ぼくは昔からずっと、静かだった。練習していたほどだ。息を殺して、頭のなかの考えさえ、そっとしとく。静かにしてることは、ぼくがだれよりもうまくできるだったひとつの得意分野だった。だけどたぶん、そのせいでぼくはへんなやつだと思われていた。家族は、ききあきるほどいってた。「ピーターは、どうかしたのかな?」/どうかしてるとこなんて、たくさんある。だけどいま、いちばん深刻な問題は、足の上にガラガラヘビがいることだ。/ぼくは、はじめて家を勝手にぬけだしてきた。もしかしたらこれが最後になるかもしれない・・・そう考えながら、地面をじっと見つめてた。ゆっくりとまばたきをする。目を閉じればヘビが消えてくれるみたいに」(5頁)。


★作品社さんのシリーズ「金原瑞人選オールタイム・ベストYA」は同書をもって第一期全10巻完結とのことです。言うまでもありませんがYAというのはヤングアダルトのこと。「1970年代後半、アメリカで生まれて英語圏の国々に広がっていった」ジャンル(「選者のことば」より)で、若い読者、高校生や大学生を主な対象としており、いわば児童書と文学書をつなぐブリッジの役目があります。ジュヴナイルやラノベ(ライトノベル)とも関連しており、大きな市場だと言えます。


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注目新刊:廣瀬純映画論集『シネマの大義』フィルムアート社

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★廣瀬純さん(著書:『絶望論』、共著『闘争のアサンブレア』、訳書:ヴィルノ『マルチチュードの文法』、共訳:ネグリ『芸術とマルチチュード』)
単行本未収録論考、国内未発表テクスト、講演、討議、座談会、等々を収めた、廣瀬純さんの映画論集がフィルムアート社さんから今月刊行されました。550頁強の大冊です。本書の刊行を記念し、青山ブックセンター六本木店では廣瀬純さんの選書によるブックフェアが開催中とのことです。また、同本店でのトークイベント情報も下段に掲出しておきます。


シネマの大義――廣瀬純映画論集
廣瀬純著
フィルムアート社 2017年7月 本体3,000円 四六判並製560頁 ISBN978-4-8459-1639-9


帯文より:シネマの大義の下で撮られたフィルムだけが、全人類に関わる。個人的な思いつき、突飛なアイディア、逞しい想像力といったものが原因(cause)となって創造されたフィルム〔・・・〕、個人の大義(cause)の下で撮られたフィルムはその個人にしか関わりがない。「シネマの魂」が原因となって創造されたフィルムだけがすべての者に関わるのだ。「ただちょっと面白いだけで、あとはさっぱり役立たずだった映画というものが、廣瀬純の言葉によって今ようやく何かの役に立とうとしている!」(黒沢清・映画監督)。
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◎廣瀬純×菊地成孔 トークイベント


日時:2017年8月10日 (木) 19:15~20:45 開場18:45~
場所:青山ブックセンター本店 大教室
料金:1,350円(税込)
定員:110名様
問合:青山ブックセンター本店 電話03-5485-5511(受付時間10:00~22:00)


内容:現時点までのキャリアを総括した初の映画論集『シネマの大義』を上梓した、批評家の廣瀬純さん。日本では蓮實重彦から安井豊作を通じて問われ続けてきた「シネマ」なるもの、その「大義」とはいかなるものなのかを問う本書は、廣瀬純のここ10年にわたる果敢な批評的実践の記録となっています。今回は、期せずして同時期に映画評論集『菊地成孔の欧米休憩タイム』を上梓する、菊地成孔さんをお招きし、「シネマ」とその大義はいまどこにあるのかについてお話しいただきます。映画を見ること、映画をつくること、そして映画を思考することは、いったいどのように人類に関わるのか──。どうぞご期待ください。


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取次搬入日確定:ギルロイ『ユニオンジャックに黒はない』

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ポール・ギルロイ『ユニオンジャックに黒はない――人種と国民をめぐる文化政治』(田中東子/山本敦久/井上弘貴訳)の取次搬入日が決まりました。日販、トーハン、大阪屋栗田、いずれも8月4日(金)です。書店さんの店頭に並び始めるのは都心の超大型店では5日以降で、全国の書店さんでは8日(火)以降になるものと見込まれます。どの書店に入荷予定かは、地域を指定してお問い合わせいただければお答えします。

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注目新刊:『原典 ルネサンス自然学』上下巻、ほか

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『原典 ルネサンス自然学(上)』池上俊一監修、名古屋大学出版会、2017年8月、本体9,200円、菊判上製650頁、ISBN978-4-8158-0880-8
『原典 ルネサンス自然学(下)』池上俊一監修、名古屋大学出版会、2017年8月、本体9,200円、菊判上製656頁、ISBN978-4-8158-0881-5
『メルロ=ポンティ哲学者事典 第一巻 東洋と哲学・哲学の創始者たち・キリスト教と哲学』モーリス・メルロ=ポンティ編著、加賀野井秀一/伊藤泰雄/本郷均/加國尚志監訳、白水社、2017年7月、本体5,400円、A5判上製436頁、ISBN978-4-560-09311-5



★『原典 ルネサンス自然学』上下巻は発売済。『原典 イタリア・ルネサンス人文主義』を2009年に同版元から上梓された池上俊一さんの監修による、原典で読むルネサンス思想のアンソロジー大冊の第二弾です(ちなみに『原典 イタリア・ルネサンス人文主義』はアマゾンではカート落ちでマケプレの高額出品しか表示されませんが、版元品切ではないので要注意です)。『原典 ルネサンス自然学』は凡例に曰く「15世紀から17世紀の代表的自然学者30人の作品を翻訳し、それぞれに訳者による解題と注を付したもの」。高額本ではありますが、その分中身は充実しており、買い逃す手はありません。収録作品は書名のリンク先でご確認いただければと思いますが、せっかくなので人名だけでも列記しておくと以下の通りになります。


★フランシス・ベイコン、コンラート・ゲスナー、プロスペロ・アルピーニ、オリヴィエ・ド・セール、プラーティナ、ウゴリーノ・ダ・モンテカティーニ、ジャン・フェルネル、ジローラモ・フラカストロ、アンドレアス・ヴェサリウス、マルチェッロ・マルピーギ、ウィリアム・ハーヴィ、アンブロワーズ・パレ、ヘンリクス・コルネリウス・アグリッパ、パラケルスス、トンマーゾ・カンパネッラ、ジョン・ディー、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ、ゼバスティアン・ミュンスター、マルシリオ・フィチーノ、ニコラウス・コペルニクス、ティコ・ブラーエ、ヨハネス・ケプラー、ウィリアム・オートリッド、シモン・ステヴィン、マリアーノ・ディ・ヤコポ (タッコラ)、ヴァンノッチョ・ビリングッチョ 、伝トマス・ノートン、ロバート・ボイル、アイザック・ニュートン、ウォルター・チャールトン。まさに壮観としか言いようがありません。



★前代未聞の一大コーパスとなる本書の上巻巻頭に置かれた池上さんによる解説にはこうあります。「環境破壊問題や自然災害の多発に直面した現代文明の行き詰まり感の中で、自然と人間の関係の見直しが喫緊の課題となっている。それに伴って西洋近代科学の意義も見直されようとしており、とりわけ近代科学を準備したルネサンス期の「自然学」には、従来行われてきたような遡及的――近代主義的――な見方だけではとらえきれない豊かな側面があることが、近年ではしきりに強調されている。/そうした情勢の中、本書はルネサンス期の多面的な「自然学」の広がりを、現代に受け継がれたもの、否定されたもの、潜行して無意識のうちに影響を拡げていったものなどを含め、原典の翻訳紹介によって示すことを企図している」(1頁)。「誰しもが、いわば総合的な宇宙論・人間学を追究していた」(2頁)時代の豊かな発想力の数々は、科学技術の進展を少数の研究者に頼るほかない現代人の狭量な世界観に、大きな刺激をもたらすに違いありません。


★近年では白水社さんから『フランス・ルネサンス文学集』(1~3巻、2015~2017年)も刊行されており、「ルネサンス」を学び直す読書環境が整いつつあるように思われます。なお、くだんの白水社さんにおかれましては『メルロ=ポンティ哲学者事典』の第3回配本となる第一巻が発売となりました。詳細目次が版元サイトにまだ掲出されていないので、すべてを転記しておきたいところですが、なにぶん量が多いため、主要部分のみ以下に掲げておきます。


Ⅰ 東洋と哲学(モーリス・メルロ=ポンティ)
インドの二人の哲学者
ブッダ(ジャン・フィリオザ)
ナンマールヴァール(ジャン・フィリオザ)
インドの哲学
ヴェーダ哲学(紀元前1500~1000年)
ブラフマーナ哲学(紀元前1000年~600年)
ヴェーダとブラフマンから独立した思想家(紀元前6~5世紀)
ジャイナ教(紀元前6~5世紀)
正統派仏教
非正統派仏教
インドの古典哲学
ダルシャナ
タントラ哲学
インド・イスラーム時代(13~14世紀)
インド・西欧時代(19~20世紀)
インド哲学を論じたインド人歴史家
中国の二人の哲学者
荀子(マックス・カルタンマルク)
荘子(マックス・カルタンマルク)
中国の古代哲学(紀元前二世紀まで)
儒教、道教、仏教(紀元前2世紀~紀元後10世紀)
新儒教の開花とその支配的広がり(6~16世紀)
新儒教に対する反動(17~20世紀初頭)
Ⅱ 哲学の創始者たち(モーリス・メルロ=ポンティ)
ソクラテス以前の哲学者たち
ヘラクレイトス(ジャン・ボーフレ)
パルメニデス(ジャン・ボーフレ)
ゼノン(ジャン・ボーフレ)
ソクラテス(ヴィクトール・ゴルトシュミット)
プラトン(ヴィクトール・ゴルトシュミット)
プラトンと後継者たち
ソクラテス学派
アリストテレス(ミシェル・グリナ)
アリストテレスと後継者たち
エピクロス(ヴィクトール・ゴルトシュミット)
エピクロスと後継者たち
クリュシッポス(ヴィクトール・ゴルトシュミット)
古ストア主義
懐疑主義と実証的な知
プラトンの伝統
中期・新ストア主義
エピクテトス(ヴィクトール・ゴルトシュミット)
新プラトン主義
プロティノス(ミシェル・グリナ)
Ⅲ キリスト教と哲学(モーリス・メルロ=ポンティ)
キリスト教哲学のはじまり
アウグスティヌス(ポール・ヴィニョー)
中世初期
イスラーム哲学、ユダヤ哲学とビザンティン哲学
中世
トマス・アクィナス(オリヴィエ・ラコンブ)
ドゥンス・スコトゥス(ポール・ヴィニョー)
ルネサンス
ニコラウス・クザーヌス(モーリス・ド・ガンディヤック)


★『原典 ルネサンス自然学』で訳出されている人名の中で当事典第一巻にて立項されているのは、フィチーノとパラケルススです。次回配本は最終となる別巻「現代の哲学/年表・総索引」です。


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★また、以下の新刊にも注目しています。


『あたらしい無職』丹野未雪著、タバブックス、2017年7月、本体1,400円、B6判変型並製172頁、ISBN978-4-907053-21-5



★「シリーズ3/4」の初回配本2点の内の1冊。もう1冊は山下陽光『バイトやめる学校』です。同シリーズは「3/4くらいの文量、サイズ、重さの本。それぞれのやり方で、余白のある生き方をさがすすべての方へ送る新シリーズです」とのこと。非正規雇用、正社員、アルバイト、無職と渡り歩いてこられた編集者でライターの丹野未雪(たんの・みゆき:1975-)さんの、39歳から41歳までの記録です。多彩なフリーランス層に支えられている出版界に棲息する者にとってはまさに他人事ではない現実の一側面を垣間見ることができます。初出はタバブックスさんの雑誌「仕事文脈」第5号(2014年11月)と第6号(2015年5月号)。



★「39歳無職日記」(第1章)と「41歳無職日記」(第3章)の間に挟まっている「社員はつらいよ」(第2章)の、こんな言葉が胸に残ります。「これは傷なのだろうか。傷だとしたら、癒えていないのだろうか。思い出しても痛みすらない。傷というより、もはや文様のようだ。刺青」(106頁)。本書の書名になぜ「あたらしい」という形容詞が入っているのか途中までよく分かりませんでしたが、読み終えてみて「無職」はいつだってその都度新しい冒険になるほかはなく、日常は単純な繰り返しのようでいて実はそうでもないのだ、と自分なりにじんわり得心した次第でした。本書の刊行を記念して以下のトークイベントが予定されています。また発行元のタバブックスの宮川さんが登壇されるイベントについても特記しておきます。


◎丹野未雪×栗原康「無職を語る」

日時:2017年8月11日(金・祝)19時~21時(開場18時30分)
会場:Readin' Writin' (台東区寿2-4-7)
定員:20名
料金:1,500円+1ドリンク
予約:リンク先をご覧下さい。


◎独立系女性版元の はたらきかた

登壇:里山社・清田麻衣子/瀬谷出版・瀬谷直子/センジュ出版・吉満明子/タバブックス:宮川真紀

司会:よはく舎・小林えみ
日時:2017年8月23日19時~
会場:Readin'Writin'(リーディンライティン:田原町駅徒歩3分、台東区寿2-4-7)
料金:1000円(当日現金精算)+1ドリンク
定員:20名→30名に拡大しました(8/3修正)
申込:リンク先をご覧下さい。


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★さらに、最近では以下の新刊との出会いがありました。


『EU崩壊――秩序ある脱=世界化への道』ジャック・サピール著、坂口明義訳、藤原書店、2017年7月、本体2,800円、四六判上製304頁、ISBN978-4-86578-133-5
『ダダイストの睡眠』高橋新吉著、松田正貴編、共和国、2017年8月、本体2,600円、四六変型判上製264頁、ISBN978-4-907986-23-0



★『EU崩壊』は発売済。原書は『La Démondialisation』(Seuil, 2011)で、サピール(Jacques Sapir, 1954-:EHESS〔社会科学高等研究院〕主任研究員)の著書が訳されるのは今回が初めてです。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。巻頭の「日本語版への序」でサピールはこう述べています。「今日時点で確認しておくべきは、〔・・・〕今作動しているEUが厄介な障害物になっていることはすでに明白だということである。というのも、EUが進めた対外開放の政策は、1990年代以降、われわれの産業の構造的危機を加速してきたからである。長い間わが国の強みであったエネルギーや輸送の分野においてインフラ体系が次第に劣化してきたのは、一貫してEUのせいであった。こうした政策を変えることは可能である。しかし抵抗があまりにも強いようであれば、断固としてわが国の経済政策を再国民化しなければならないだろう。ヨーロッパ・レベルの行動がわれわれに最大の可能性を開く行動であることは確かだが、貿易相手諸国との合意が一時的に不可能であることが判明したときには、各国レベルでの行動も決して排除すべきではない」(16頁)。帯文にはこうあります。「グローバリズムと「自由貿易」礼讃で焼け野原と化したEUの現状に対し、フランスが主導するユーロ離脱と新たな「欧州通貨圏」構想により、各国の経済政策のコントロール奪回を訴える」。


★『ダダイストの睡眠』はまもなく発売。詩人の高橋新吉(たかはし。しんきち:1901-1987)の作品14編(短篇小説12篇と詩作品2篇)と、編者による3つの解説、さらに略年譜が加えられたオリジナル編集凡です。シリーズ「境界の文学」の最新刊。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。電子書籍やオンデマンド本、再刊を除くとずいぶんと久しぶりの新刊です。編者あとがきによれば、松田さんにとって高橋新吉の読解の鍵となったのはフェリックス・ガタリだったと言います。「彼の物語の背後には、「何もいうことはない」という言葉の発生源のようなものが見え隠れしており、そこから何度も「狂気」を語り起こそうとする姿勢が浮かび上がってくるのだ。〔・・・〕狂気を何度も語り直すこの果てしなき言い換えのプロセスが、個々の言葉を下支えする通奏低音のようなものとして絶えず機能している」(258頁)。「発狂も一つの芸術である。熟練を要する」(「桔梗」50頁)と新吉は書いています。本書に接する時、「不気味な運動」と題された作品にある次の言葉が胸に迫ります。「地下室のような薄暗い建物であったが、内部は馬鹿に広かった。此んな大きい建物が何時の時代に建てられたものか、それは不思議な建物であった」(145頁)。極薄の直方体の集積によって構成される書物というこの建築物の内部では「人類の絶滅を美しい芸術として空想する」(「悲しき習性」181頁)新吉の影が、現代の読者に読まれることによって転生を果たすべく様子を伺っている濃密な気配がします。


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注目新刊:ノイラート『アイソタイプ』BNN新社、ほか

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★人文書売場だけを見ているだけでは見つけにくいここ二か月ほどの間の新刊をまとめてみます。


ISOTYPE[アイソタイプ]
オットー・ノイラート著、永原康史監訳、牧尾晴喜訳
BNN新社、2017年6月、本体3,200円、四六判上製320頁、ISBN978-4-8025-1065-3


帯文より:インターナショナルな世界を支える〈言語〉の統一に、〈デザイン〉の力で挑んだ哲学者の知られざる思想。事象と意味をつなぐ視覚化(=絵文字化)のシステムの結実、アイソタイプ。大戦の狭間に埋もれたノイラートの言葉が、いま蘇る。本邦初となる完訳訳『International Picture Language』(1936)、『Basic by Isotype』(1937)に『Modern Man in the Making』(1939)のすべての図版を収録した、合本版。


目次:
アイソタイプの科学――ふたたび世界をみる窓として(永原康史)
International Picture Language 国際図説言語
Basic by Isotype アイソタイプによるベーシック英語
Modern Man in the Making 近代人の形成(図のみ収録)


★ノイラート『ISOTYPE[アイソタイプ]』は某新規店の店内をふらついている際に、芸術・デザイン書の棚で偶然目に留まって釘付けになった一冊。「世界の表象:オットー・ノイラートとその時代」展(2007年9月25日~10月21日、武蔵野美術大学美術資料図書館1階展示室)以来、いつか翻訳されるかもしれない、されてほしいと期待してきたことがついに現実となり、舞い上がってしまいました。



★オットー・ノイラート(Otto Neurath, 1882-1945)は、オーストリア出身でのちにイギリスに亡命した哲学者。論理実証主義や統一科学運動で知られる「ウィーン学団」の一人です。アイソタイプとは「International System Of TYpographic Picture Education」の略で、視覚的な図記号による図説言語のこと。トイレで使われる、男女の姿を抽象化した標識を思い浮かべていただければよいかと思います。「誰から見てもわかりやすい絵は、言語の限界から自由だ〔・・・〕。それは国境を越えているのだ。言葉はへだたりをつくり、絵はつながりをつくる」(27頁)とノイラートは主張します。背景には「脱バベル化」(オグデン)を目指した国際言語創造の試みからの触発があるようです。グローバリゼーションが様々なひずみを引き起こしている時代だからこそひもとき、振り返り、原点を確認しておきたい、貴重な一冊。


★ノイラートの試みはグラフィック・デザイン史の一頁とも言えるでしょうけれども、同時に普遍言語や人工言語の末裔とも言えます。ライプニッツの普遍記号学や結合術、コメニウスの汎知学に通じる回路もあると思います。「ノイラートの船」で高名な論文「プロトコル言明」(Protokollsaetze; 竹尾治一郎訳、坂本百大編『現代哲学基本論文集Ⅰ』勁草書房、1986年、165-184頁)を収めた論文集は、大型書店なら哲学思想棚に基本書として置いてあると思いますが、本書『ISOTYPE』も哲学思想棚に置いてあるお店は、相当分かっていらっしゃる書店員さんがいるはず、と見ていいでしょう。


★なお『Modern Man in the Making 近代人の形成』は図版のみ収録ですが、論説部分を読みたい方は既訳書『現代社会生態図説』(高山洋吉訳、慶應書房、1942年)をご参照ください。古書市場ではかなり見つけにくい部類の本なので、図書館での閲覧が手っ取り早いです。ご参考までに同書の目次を掲出しておきます。


◎ノイラート『現代社会生態図説』(高山洋吉訳、慶應書房、1942年)目次
訳者序(1-2頁)
原著者序(1-4頁)※新たにノンブルが振り直されています
Ⅰ 叙述(1-108頁)※新たにノンブルが振り直されています
 過去と現在
 人類の統一化
 現代を生む諸潮流
 世界の現状
 社会環境
 人の日常生活
Ⅱ 図示(109-188頁)
Ⅲ 付録 文献及び註釈(189-228頁)
感謝の言葉(229頁)


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★このほか、理学書、建築書、ビジネス書などの新刊で、人文書売場にもスイッチできる新刊をいくつか挙げておきます。


『ノースフェーラ――惑星現象としての科学的思考』ヴラジーミル・ヴェルナツキイ著、梶雅範訳、水声社、2017年7月、本体4,500円、四六判上製442頁、ISBN978-4-8010-0274-6
『ユートピア都市の書法――クロード=ニコラ・ルドゥの建築思想』小澤京子著、法政だ学出版局、2017年7月、本体4,000円、A5判上製286頁、ISBN978-4-588-78609-9
『2030年 ジャック・アタリの未来予測――不確実な世の中をサバイブせよ』ジャック・アタリ著、林昌宏訳、プレジデント社、2017年8月、本体1,800円、四六判上製224頁、ISBN978-4-8334-2240-6
『続・哲学用語図鑑』田中正人著、斎藤哲也監修、プレジデント社、2017年6月、本体1,800円、A5判変型並製400頁、ISBN978-4-8334-2234-5
『反脆弱性――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方』(上下巻、ナシーム・ニコラス・タレブ著、望月衛監訳、千葉敏生訳、2017年6月、本体各2,000円、46判上製412頁/424頁、ISBN978-4-478-02321-1/978-4-478-02321-1)


★『ノースフェーラ』は《叢書・二十世紀ロシア文化史再考》(桑野隆責任編集)の最新刊。前回の配本がヴィゴツキイ『記号としての文化――発達心理学と芸術心理学』(柳町裕子/高柳聡子訳、水声社、2006年)ですから約10年ぶりの配本(第6回)となります。このシリーズをちゃんと全点扱っている書店さんは信頼して良いと思います。ヴラジーミル・ヴェルナツキイ(1863-1945)はソビエト連邦時代の地球化学者でウクライナ科学アカデミー初代総裁。帯文は以下の通りです、「《科学的思考と人間の労働の影響の下に、生物圏は、叡知圏(ノースフェーラ)という新たな状態に移行しようとしている。》人類の科学的知識の増大を惑星地球の「進化」と位置づけ、人間思考の発展の歴史を辿りながら、生命と非生命のダイナミックな交流に着目した、新たな学問領域「生物地球化学」をうち立てる。人間理性への信頼が揺らぐ第二次世界大戦前夜、人類の未来への希望を科学研究の絶え間ない営為の中に見いだした、ヴェルナツキイの思想的到達点を示す草稿集」。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。なお同シリーズの次回配本は、フレイデンベルグ『プロットとジャンルの詩学』杉谷倫枝訳、となるようです。


★『ユートピア都市の書法』は『都市の解剖学――建築/身体の剝離・斬首・腐爛』(ありな書房、2011年)に続く、小澤京子(おざわ・きょうこ:1976-)さんによる著書第二弾。東大大学院総合文化研究科に2014年に提出された同名の博士論文から、前著『都市の解剖学』と重複する部分を除外し、大幅に加筆修正したもの。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。美麗な装丁は奥定泰之さんによるもの。本書を見かけたのは私は理工書売場の建築書棚においてでしたが、人文書売場の哲学思想棚においてはユートピア思想ないし啓蒙思想の研究書の近くに置くことで棚を豊かにしてくれると思います。ルドゥ(Claude Nicolas Ledoux, 1736-1806)と言えばその特異な紙上建築によって有名ですが、紙上建築を扱った近年の研究書と言えば、本田晃子さんの『天体建築論――レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』(東京大学出版会、2014年)を思い出します。数年のうちに、奥行きのある卓抜な建築思想研究に再び出会えた喜びを感じます。


★『2030年 ジャック・アタリの未来予測』の原書は『Vivement après-demain !』(Fayard, 2016)です。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。アタリは第一章「憤懣が世界を覆い尽くす」の冒頭でこう書いています。「自分の人生に意義をもたせるつもりなら、そして余生を楽しむだけの暮らしに甘んじるつもりがないのなら、世界を理解すべきだ」(18頁)。「現在、世界は悪の勢力によって支配されているといえる」(19頁)と厳しく指摘するアタリは本書の目的を次のように明言しています。「誰もが世界の明るい展望と脅威を知る術をマスターし、それらの機会とリスクを推し測ることができるようにすることだ」(11頁)。第四章「明るい未来」では、本書が予見する世界の大惨事を回避するために個人が達成すべき精神的な10段階や、その先にある社会制度改革のための10の提案、さらに国家(本書の場合はフランス)が実行すべき10の提案を簡潔に列記しています。「とにかく、私はすべてを語った」(205頁)、これが本書の結びの言葉です。猛烈に濃い絶望的な闇の中でアタリが掲げる剣の輝きを信じることができるのかどうか、困難に立ち向かう勇気が私たち一人ひとりに問われています。



★なおプレジデント社さんではベストセラー『哲学用語図鑑』(2015年)の続編として『続・哲学用語図鑑』を6月に刊行されています。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。「中国・日本・英米分析哲学編」と銘打たれていますが、『哲学用語図鑑』でも扱われていた重要な哲学者の何人かは再説されており、前作の周到な補完となっています。優れた人文系入門書を長らく手掛けられてきたフリーエディターの斎藤哲也さんのご活躍に深い敬意を覚えます。田中正人さんという才能豊かな適任者によって専門家では成し得ない図鑑が作成されたことは、出版史における画期的な業績として記憶され、刻まれるべきことでしょう。田中さんの図鑑にはまさにノイラート的な図説の感性が溢れているように思います。



★アタリの著書『2030年 ジャック・アタリの未来予測』と合わせて読んでおくのが良いかもしれない本には、訳者の林さんがまもなく上梓される近刊書、ダニエル・コーエンの『経済成長という呪い――欲望と進歩の人類史』(東洋経済新報社)を挙げてよいでしょう。また、既刊書ではタレブの最新作『反脆弱性』上下巻を挙げておきたいと思います。原書は『Antifragile: Things that Gain from Disorder』(Random House, 2012)です。アタリ(Jacques Attali, 1943-)は人文書からビジネス書に進出した思想家であり経済学者、政治家ですが、タレブ(Nassim Nicholas Taleb, 1960-)はトレーダー出身の金融工学の専門家で、ランダムネス、確率、不確実性をめぐる思想家でもあり、ビジネス書から人文書に越境してくるキー・パーソンです。主著であるベストセラー『ブラック・スワン――不確実性とリスクの本質』(上下巻、望月衛訳、ダイヤモンド社、2009年)のほか、すでに何冊も訳されています。


★明日をも知れぬ世界の混迷について鋭く警告し、そこからの脱出を示唆する点において、アタリとタレブはそれぞれに分析と処方を提示し、不確実性と変化がもたらすものを教えます。『ブラック・スワン』を『反脆弱性』の補助的な作品であり付録である(『反脆弱性』上巻39頁)と位置づけているタレブが教えるのは、「変動制や不確実性によって損をする」(同下巻294頁)脆さについてです。「何より不思議なのは、脆いものはすべて変動性〔ボラティリティ〕を嫌うという当たり前の性質が、科学や哲学の議論からすっぽりと抜け落ちてしまっていることだ。〔・・・〕この点を自然に会得しているのは、たいてい実践家(物事を実行する人)だけなのだ」(上巻36頁)とタレブは書きます。「衝撃を利益に変えるものがある。そういうものは、変動性、ランダム性、無秩序、ストレスにさらされると成長・反映する。〔・・・〕本書ではそれを「反脆弱」と形容しよう」(22頁)。「すば抜けて頭はよいけれど脆い人間と、バカだけれど反漸弱な〔訳書通りに転記すると「反脆い」〕人間、どちらになりたいかと訊かれたら、私はいつだって後者を選ぶ」(22~23頁)。平たく言えば、変化による危機をチャンスに変えることができる能力を反脆弱性として理解していいでしょうか。


★タレブの本書では「観光客化 touristification」という造語が出てくるのですが、ここで言う「観光客 tourist」は東浩紀さんが『観光客の哲学』(ゲンロン、2017年3月)で使用したキーワードとは大きく意義が異なっているように感じます。それを踏まえた上で、タレブと東さんの本を隣合わせで置いている本屋さんがいらっしゃるとすれば、その方は旬の新刊を横断的に見ることができる方でしょう。タレブの「観光客化」は下巻巻末の用語集によれば「人生からランダム性を吸い取ろうとすること。教育ママ、ワシントンの公務員、戦略プランナー、社会工学者、ナッジ使いなどのお得意技。反義語は「分別ある遊び人」」(下巻416頁)。本文では次のように記述されています。「この単語〔観光客化〕は私の造語であり、人間を機械的で単純な反応を返す、詳しいマニュアルつきの洗濯機のようなものとして扱う、現代生活のひとつの側面を指している。観光客化は、物事から不確実性やランダム性を体系的に奪い、ほんの些細な点まで予測可能にしようとする。すべては快適性、利便性、効率性のためだ。/観光客が冒険家や遊び人の対極にあるとすれば、観光客化は人生の対極にある。観光客化は、旅行だけでなく、あるとあらゆる活動を、俳優の舞台のようなものへと変えてしまう。システムや有機体からランダム性を最後の一滴まで吸い出し、不確実性を好むシステムや有機体を骨抜きにしておきながら、それがよいことなのだという錯覚まで与える。その犯人は、教育制度、目的論的な科学研究の助成計画、フランスのバカロレア資格、ジムのマシンなどだ。〔・・・〕現代人は、休暇中でも囚われの生活を送らざるをえなくなっている。金曜の夜のオペラ、スケジュールされたパーティー。お約束の笑い。これも金の牢獄だ。/この”目的志向”の考え方は、私の実存的な自我を深く傷つけるのだ」(上巻122~113頁)。


★一方、東さんは「連帯の理想を掲げ、デモの場所を求め、ネットで情報を集めて世界中を旅し、本国の政治とまったく無関係な場所にも出没する21世紀の「プロ」の市民運動家たちの行動様式がいかに観光客のそれに近いか、気がついていないのだ。〔・・・〕観光客は、連帯はしないが、そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす。デモには敵がいるが、観光には敵がいない。デモ(根源的民主主義)は友敵理論の内側にあるが、観光はその外部にあるのだ」(160頁)とお書きになっておられます。「観光客は大衆である。労働者であり、消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星場を飛び回る。友もつくらなければ敵もつくらない」(111頁)。「観光客はまさに、20世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、20世紀の思想の限界は乗り越えられる」(112頁)。「観光客の哲学を考えること、それはオルタナティブな政治思想を考えることである」(116頁)。


★タレブが観光客を、主体性を奪われたただのお客=部外者として見ているのとは対照的に、東さんはその部外者にも主体性があり、自由に動けるのだと評価しておられるように思われます。東さんの言う「観光客」はむしろ、タレブがそれ(観光客)と対置している「分別ある遊び人 the rational flaneur」に近いように思われます。「「自分は行き先を完璧にわかっている」「過去に自分の行き先を完璧にわかっていた」「過去に成功した人はみんな行き先をわかっていた」という錯覚を、本書では「目的論的誤り」と呼ぼう。/また、「分別ある遊び人」とは、観光客とは違って、立ち寄った先々で旅程を見直し、新しい情報に基づいて行動を決められる人だ。ネロは自分の嗅覚を頼りに、旅でこの方法を実践していた。遊び人は計画の囚人ではない。観光は、文字どおりの意味であれ比喩的な意味であれ、目的論的誤りに満ちている。計画は完璧であるという家庭のもとで成り立っていて、人間を、修正の難しい計画の囚人にしてしまう。一方、遊び人は、情報を獲得するたびに絶えず理性的に目標を修正していく」(上巻281頁)。


★タレブの言う「目的論的誤り the teleological fallacy」を東さんは積極的に評価しておられるように思います。「誤配こそが社会をつくり連帯をつくる。だからぼくたちは積極的に誤配に身を曝さねばならない」(9頁)。「21世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。そして、そのような実践の集積によって、特定の頂点への富と権力の集中にはいかなる数学的な根拠もなく、それはいつでも解体し転覆し再起動可能なものであること、すなわちこの現実は最善の世界ではないことを人々につねに思い起こさせることを企てる。ぼくには、そのような再誤配の戦略こそが、この国民国家=帝国の二層化の時代において、現実的で持続可能なあらゆる抵抗の基礎に置かれるべき、必要不可欠な条件のように思われる。21世紀の秩序においては、誤配なきリゾーム状の動員は、結局は帝国の生権力の似姿にしかならない。/ぼくたちは、あらゆる抵抗を、誤配の再上演から始めなければならない。ぼくはここでそれを観光客の原理と名づけよう。21世紀の新たな連帯はそこから始まる」(192頁)。


★タレブは先述の通り「遊び人〔フラヌール〕」を評価しますが、一方でこう警告もしています。「ひとつ注意がある。遊び人の日和見主義は、人生やビジネスではうまくいく。でも私生活や人間関係ではうまくいかない。人間関係では、日和見主義の反対は忠誠だ。忠誠を尽くすことは立派な心がけだが、人間関係や道徳のようなふさわしい場面で発揮してこそ意味がある」(上巻281~282頁)。これについては東さんの『観光客の哲学』では、第2部「家族の哲学(序論)」を参照すべきかと思われます。「観光客が拠りどころにすべき新しいアイデンティティとは、結局のところなんなのだろうか。/実はぼくがいまその候補として考えているのは家族である」(207頁)。これ以降の比較はネタバレを含まざるをえないのでやめておきますが、タレブさんと東さんの思考を往還することで得るものは色々とあるような気がします。


★ちなみにタレブの議論とメイヤスー『有限性の後で』(人文書院、2016年)をリンクさせている思想家にエリ・アヤシュ(Elie Ayache、1966-)がいます。著書に『The Blank Swan: The End of Probability』(Wiley, 2010)や『The Medium of Contingency: An Inverse View of the Market』(Palgrave, 2015)などがあり、邦訳論文に「出来事のただなかで」(安崎玲子/杉山雄規訳、『ザ・メディウム・オブ・コンティンジェンシー』Kaikai Kiki、2014年、25~40頁;アヤシュの未訳著書とは別物)や、「現実の未来」(神保夏子訳、『Speculative Solution』東京都現代美術館、2012年、62~75頁)があります。アヤシュもまた実業家なのですが、哲学者としての横顔も持っています。タレブと同じくレバノン出身で、アタリと同様にエコール・ポリテクニークで学び、さらにソルボンヌ大学でも学位を取り、デクシア・アセット・マネジメントを経て1999年にテクノロジー・カンパニー「ITO 33」を創業しています。『Collapse』誌第8号(Urbanomic, 2014)では彼のインタヴュー「The Writing of the Market」を読むことができます。私が今もっとも注目している思想家の一人ですが、もし関心を共有する方がいらっしゃいましたらぜひご連絡下さい。


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注目新刊:ギャロウェイ『プロトコル』人文書院、ほか

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『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』プラトン著、朴一功/西尾浩二訳、
京都大学学術出版会、2017年8月、本体3,000円、四六変判上製278頁、ISBN 978-4-8140-0095-1
『不当な債務――いかに金融権力が、負債によって世界を支配しているか?』フランソワ・シェネ著、長原豊/松本潤一郎訳、芳賀健一解説、作品社、2017年8月、本体2,200円、46判上製244頁、ISBN978-4-86182-620-7



★『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』は「西洋古典叢書」2017年第3回配本(G101)。『エウテュプロン』西尾浩二訳、『ソクラテスの弁明』朴一功訳、『クリトン』朴一功訳、の三篇を収録。目次詳細および正誤表は書名のリンク先をご覧ください。同シリーズでのプラトン新訳は、『ピレボス』山田道夫訳(G044、2005年6月)、『饗宴/パイドン』朴一功訳(G054、2007年12月)、『エウテュデモス/クレイトポン』朴一功訳(G084、2014年6月)に続く4点目です。帯文(表4)に曰く「敬虔とは何かをめぐり、その道の知者を自負する人物と交わされる対話『エウテュプロン』。不敬神と若者を堕落させる罪で告発された老哲学者の裁判記録『ソクラテスの弁明』。有罪と死刑の判決を受けて拘禁中の彼が、脱獄を勧める竹馬の友を相手にその行為の是非について意見を戦わす『クリトン』。ソクラテス裁判を中心に、その前後の師の姿を描いたプラトンの3作品が鮮明な新訳で登場」と。付属の「月報129」は須藤訓任さんによる「ソクラテスを廻る切れ切れの思い」と、連載「西洋古典雑録集(3)」として國方栄二さんによる「エウタナシアー」の解説を収載。「エウタナシアー」とは古代ギリシア語で「よき死」の意。次回配本はアンミアヌス・マルケリヌス『ローマ帝政の歴史1』山沢孝至訳。


★ソクラテスに対する告訴状にはこう書かれていました。「ソクラテスは国家の認める神々を認めず、別の新奇なダイモーン(神霊)のたぐいを導入する罪を犯している。また若者たちを堕落させる罪も犯している。究明は死刑」。告発者である無名の青年の後ろ盾には政治家や弁論家がいました。裁判員(30歳以上)は500名で、票決は「有罪」とするものが280票、「無罪」が220票。さらに量刑については「死刑」とするものが360票、「罰金」が140票。


★ソクラテスはこう述べます。「私が真実を語るのに憤慨しないでください。実際、あなたがたに対してであれ、他のどんな多数者に対してであれ、本気になって反対して、国家のうちに多くの不正や違法が生じるのをどこまでも阻止しようとすれば、世の人々のなかで生きのびられるような人はだれもいないのです。むしろ、正しいことのために本当に戦おうとする者は、たとえわずかの時間でも生きのびようとするなら、私人として行動すべきであって、公人として行動すべきではないのです」(「ソクラテスの弁明」103頁)。「実際、もしあなたがたが人を殺すことによって、あなたがたに生き方が正しくないとだれかが非難するのをやめさせようと思っているなら、その考え方は適切ではないのです。〔・・・〕他人を押さえつけるのではなく、自分自身ができるかぎりすぐれた者になるよう心がけることこそ、最も美しく、最も容易なのです」(127~128頁)。


★『不当な債務』は発売済。原書は『Les dettes illégitimes : Quand les banques font main basse sur les politiques publiques』(Raisons d'Agir, 2011)です。シェネ(François Chesnais;『別のダボス――新自由主義グローバル化との闘い』〔柘植書房新社、2014年〕では「シェスネ」)はフランスの経済学者でパリ第13大学の名誉教授。ATTACの学術顧問も務めておられます。かつてカストリアディスやルフォールらが創設し、一時期リオタールらが参加していたグループ「社会主義か野蛮か」のメンバーだったとも言います。多くの著書がありますが、日本語訳は本書が初めてです。主要目次を列記しておきます。はじめに|第Ⅰ章 金融権力、その現実における組織的な土台と形態|第Ⅱ章 ヨーロッパの債務危機と世界的危機|第Ⅲ章 正当性なき公的債務|おわりに 借金棒引き――最終的には、欧州規模の社会運動へ?|用語解説|「訳者後書き」に扮して――ユビュ王とギゾー首相の「金持ち」(長原豊)|日本語版解説 国家の債券市場への隷従――財政赤字、国債、中央銀行(芳賀健一)。解説者の芳賀さんは本書について「先進国とくにフランスの政治債務が「汚れた債務」である所以を分析し、その解決策とそれを実現する政治・社会運動の結集を説得的に訴えている」と評しています。増え続ける日本の公的債務と今こそ向き合うための必読書かと思われます。


★「多くの国が債務というきわめて重大な課題に直面している。そうした事態にまだ直面していない国々も、遅かれ早かれ、直面することになるだろう」(171頁)とシェネは警告します。「本書の狙いは、今日、新自由主義を標榜する西欧諸国への従属を強いられている人びとが、自分たちの生産手段と交換手段(したがってまた、ユーロ)を民主的に共有するといったスタイルで管理するという目標に向かって社会的・経済的闘争をおこなうための結集軸を創り上げることに寄与すること、これである」(32頁)。「欧州連合とは「異なる(私たちの)ヨーロッパ」の構築という展望のもとで、例えば債務を返済しないこと、欧州中央銀行を含めた銀行を組み伏せること、そして銀行を効果的に統御するために社会化すること、これらを共通目標として掲げることができるのではないだろうか」(同)。



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★このほか、まもなく発売となる注目新刊には以下のものがあります。


『プロトコル――脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのか』アレクサンダー・R・ギャロウェイ著、北野圭介訳、人文書院、2017年8月、本体3,800円、4-6判並製420頁、ISBN978-4-409-03095-0
『フランスを問う――国民、市民、移民』宮島喬著、人文書院、2017年8月、本体2,800円、4-6判上製258頁、ISBN978-4-409-23058-9
『日本のテロ――爆弾の時代60s-70s』栗原康監修、河出書房新社、2017年8月、本体1,000円、A5判並製128頁、ISBN978-4-309-24820-2
『パルチザン伝説』桐山襲著、河出書房新社、2017年8月、本体1,800円、46判上製178頁、ISBN978-4-309-02600-8
『狼煙を見よ――東アジア反日武装戦線“狼”部隊』松下竜一著、河出書房新社、2017年8月、本体2,200円、46変形判並製272頁、ISBN978-4-309-02601-5
『サンシャワー――東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで』国立新美術館/森美術館/国際交流基金アジアセンター編、平凡社、2017年8月、本体3,600円、A4変判上製320頁、ISBN978-4-582-20711-8



★まずは人文書院さんの2点。『プロトコル』は『Protocol: How Control Exists after Decentralization』(MIT Press, 2004)の翻訳。ミシェル・フーコー以後の管理社会論の地平を拓く野心的な試みです。ギャロウェイ(Alexander R. Galloway, 1974-)はニューヨーク大学准教授で、哲学者、プログラマー、アーティストなどの肩書を持っています。『プロトコル』はギャロウェイの処女作にして初の訳書です。目次詳細は書名のリンク先をご覧下さい。巻頭の序言「プロトコルは、その実行のただなかでこそ存在する」はギャロウェイとの共著があるユージン・サッカー(Eugene Thacker; タッカーとも)によるもの。サッカーはこう書いています。「すべてのネットワークがそもそもひとつのネットワークであるのは、それがプロトコルによって構成されているからである。〔・・・ネットワークには〕諸々の属性が出現することを可能にする下部構造がある〔・・・〕。ネットワークではない。プロトコルなのだ。/このことを踏まえると、『プロトコル』を政治経済についての書物として読むことができるだろう」(13~14頁)。このあとサッカーはフーコーに言及しつつ「プロトコルにかかわる生政治の次元は、今後取り組むべき課題として開かれている」(17頁)と書いています。「生物学と生命科学がますますコンピュータやネットワーク化したテクノロジーに統合されていくにつれて、身体とテクノロジーのあいだに引かれた馴染みのある境界線、すなわち生物体と貴会のあいだに引かれた馴染みのある境界線は、一群となった諸変容を被り始めている」(同)。


★序章でギャロウェイは本書の目的についてこう書いています。「君主=主権による中心的な管理にも、監獄や工場における脱中心的な管理にももとづいていない〔・・近代以後の〕この第三の歴史の波がもつ固有性を、そこで生じたコンピュータ技術の管理=制御に焦点をあわせることによって具体化して論じることである」(35~36頁)。ギャロウェイは近代から現代への歴史的推移を、中心化(君主=主権型社会)から脱中心化(規律=訓練型社会)へ、さらに分散化(管理=制御型社会)へ、と捉えており、「プロトコルとは歴史的には脱中心化の後に生じるマネジメントのシステムである」(60頁)と指摘しつつ、「プロトコル/帝国の論理にもとづくネットワークの制御をきわめて容易にしているもの」こそが「分散型のアーキテクチャ」なのだと言います(66頁)。本書はここから七章に渡って本論を展開していき、「中心化され秩序付けられた権力と分散化された水平的なネットワークとのあいだ」にある「現行の世界規模での危機」(334頁)と向き合おうとしているように見えます。訳者あとがきで北野さんは「プロトコルをめぐる考察が及ぶ範囲はかなり広い」と指摘し、本書について次のように評しておられます。「単に抽象度が高い話をするという素朴なレヴェルでの哲学的思惟ではなく、個別具体的なものへの思考を活性化させてくれる仕事、しかも優れて今日的なテーマ――インターネットのみならず、人工知能から、生命操作にいたるまで――をめぐる思考を弾力化させる仕事であるだろう」(414頁)。


★ギャロウェイの活躍については、千葉雅也さんによるギャロウェイ本人へのインタヴュー「権威〔オーソリティ〕の問題――思弁的実在論から出発して」(小倉拓也/千葉雅也訳)を「現代思想」2016年1月号(特集=ポスト現代思想)でもご確認いただけます。



★宮島喬『フランスを問う』は、現代フランス社会の「現状を批判的に捉え返し、移民の統合と多文化(多民族)共生への道を見出すことができるのか」(「はじめに」iv頁)を問うもの。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。収録された8つの論考のうち、「同時的に起こっているヨーロッパの危機と変動」「ナショナルポピュリズムとそれへの対抗力――フランス大統領選の社会学から」「オリジンを問わないということ――フランス的平等のディレンマ」「フランスの移民政策の転換――“選別的”政策へ?」「デラシネとしての移民?――バレース、デュルケム再考、ノワリエルを通して」の5本が書き下ろしで、3本は各誌に近年発表済の論考に加筆したもの。「共存、共生してきて、これからもそれを続けていくほかない人々を、不確かな根拠の下に「彼ら」化、「他者」化し、排除、または交わらぬ並行関係に追いやろうとする(日本でも、それに近いことは最近の小政治グループの誕生によって起こりそうである)」(「あとがき」241頁)。ナショナル・ポピュリズムの台頭が懸念される日本社会を考える上で示唆となる一冊です。


★次に河出書房新社さんの3点。『日本のテロ――爆弾の時代60s-70s』はまさに書名通りの歴史と人物、参考文献について簡潔に教えてくれる手頃な一冊です。歴史解説は「ですます調」で書かれ、人物紹介はイラスト付きで柔らかく、巻末のブックガイドは丁寧で、何より廉価なので、若い読者にも親しみやすいのではないかと思います。同時期に河出さんでは桐山襲『パルチザン伝説』と、松下竜一『狼煙を見よ――東アジア反日武装戦線“狼”部隊』の2点を復刊。前者『パルチザン伝説』は「文藝」誌に掲載後に単行本化が中断され、他社から刊行されたいわくつきの作品(詳細は省略します)で、30数年ぶりの初出版元への回帰となります。友常勉さんが解説を担当されています。後者『狼煙を見よ』は1974年に起きた「東アジア反日武装戦線」による連続企業爆破事件前後の軌跡を追ったもの。解説は斎藤貴男さんがお書きになっておられます。この3点はいわば新刊セットなので店頭でバラバラに扱うのはあまり意味がありません。戦後を考える視座として、避けて通れないものがあります。


★最後に平凡社さんの『サンシャワー――東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで』は、ASEAN(東南アジア諸国連合)の設立50周年を記念して国立新美術館と森美術館で開催中の東南アジア現代美術展の展覧会図録です。「時代の潮流と変動を背景に発展した東南アジアにおける1980年代以降の現代アートを、9つの異なる視点から紹介する、史上最大規模の展覧会」とのこと。展覧会について以下に概要を特記しておきます。リンク先では9つのセクションや出展作家、見どころなどについて確認できます。


◎サンシャワー――東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで



会期:2017年7月5日(水)~10月23日(月)
会場(2館同時開催):
国立新美術館 企画展示室 2E(東京都港区六本木7-22-2)
 開館時間:10:00~18:00(毎週金曜日・土曜日は21:00まで)※入場は閉館の30分前まで
 休館日:毎週火曜日
森美術館(東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー 53階)
 開館時間:10:00~22:00(毎週火曜日は17:00まで)※入場は閉館の30分前まで
 会期中無休
主催:国立新美術館、森美術館、国際交流基金アジアセンター
巡回:2017年11月3日(金・祝)~12月25日(月)/福岡アジア美術館


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今週末開催:講演「出版人・中野幹隆と哲学書房の魅力」@塩尻市市民交流センター

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いよいよ催事が今週末に迫りました。中野幹隆さんと哲学書房さんの業績について公的な場で発表するのは今回が初めてです。月曜社で哲学書房さんの「羅独独羅学術語彙辞典」「季刊哲学」「季刊ビオス」の在庫の直販をお引き受けしたご縁もあり、このような機会を頂戴することになりました。会場の席にまだ残りがあるようなので、ご関心のある方々とお目に掛かれたらたいへん幸いです。お申込み方法はイベント名のリンク先に明記されております。参加無料です。どうぞよろしくお願いいたします。


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◎講演「出版人・中野幹隆と哲学書房の魅力」(信州しおじり本の寺子屋地域文化サロン)

日時:2017年8月19日(土曜日)13:30~15:30
場所:塩尻市市民交流センター(えんぱーく)3階多目的ホール
参加費:無料

内容:東京で出版社「哲学書房」を創業した、塩尻市宗賀地区出身の出版人・中野幹隆さんをご存じですか。塩尻市立図書館では、このたび、中野さんの功績を振り返る講演会を開催します。講師は、有限会社月曜社取締役の小林浩さんです。お気軽にご参加ください。

講師からのメッセージ:20世紀後半の現代思想ブームにおいて先端的な役割を果たした編集者・中野幹隆(塩尻市大字宗賀出身)の業績を振り返り、中野が興した哲学書房の出版物の魅力について紹介します。出版界の変化についてもお話しします。



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注目新刊:ボイル『無銭経済宣言』紀伊國屋書店、ほか

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★まもなく発売となる注目新刊を列記します。


『nyx 第4号』山本芳久/乙部延剛ほか著、堀之内出版、2017年8月、本体2,000円、A5判並製275頁、ISBN978-4-906708-71-0
『五つの証言』トーマス・マン/渡辺一夫著、中公文庫プレミアム、2017年8月、本体800円、文庫判224頁、ISBN978-4-12-206445-4
『無銭経済宣言――お金を使わずに生きる方法』マーク・ボイル著、吉田奈緒子訳、紀伊國屋書店、2017年8月、本体2,000円、46判並製496頁、ISBN978-4-314-01150-1
『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』フランス・ドゥ・ヴァール著、柴田裕之訳、紀伊國屋書店、2017年8月、本体2,200円、46判上製416頁、ISBN978-4-314-01149-5



★『nyx 第4号』は第一特集が「開かれたスコラ哲学」(主幹=山本芳久)、第二特集は「分析系政治哲学とその対抗者たち」(主幹=乙部延剛)。目次詳細は誌名のリンク先をご覧ください。大学の紀要や「中世哲学研究」のような学会誌ではない、一般発売されている思想誌でスコラ哲学が主題になるのは哲学書房の『季刊哲学』以来ではないでしょうか。第一特集では、アラスデア・マッキンタイア(Alasdair MacIntyre, 1929-)の論文集『The Tasks of Philosophy』(Cambridge University Press, 2006)の第九章「自らの課題に呼び戻される哲学――『信仰と理性』のトマス的読解」(野邊晴陽訳;Philosophy recalled to its tasks: Thomistic reading of Fides et Ratio)が訳出されています。


★『五つの証言』は、巻末の編集付記によれば、トーマス・マンの『五つの証言』(渡辺一夫訳、高志書房、1946年)と第一部とし、渡辺一夫のエッセイおよび「中野重治・渡辺一夫往復書簡」(『展望』誌1949年3月号)を第二部として独自に編集したもの、とのことです。帯文に曰く「古典名訳再発見。不寛容な時代に抗い、戦闘的ユマニスムのほうへ。ナチスと対峙した精神のリレー」と。目次を以下に掲出しておきます。


目次:
トーマス・マン『五つの証言』に寄せて(渡辺一夫)
五つの証言(トーマス・マン著、渡辺一夫訳)
 一 トーマス・マンの最近の文章を読んで(アンドレ・ジード)
 二 ボン大学への公開状
 三 ヨーロッパに告ぐ
 四 イスパニヤ
 五 キリスト教と社会主義
寛容について(渡辺一夫)
 文法学者も戦争を呪詛し得ることについて
 人間が機械になることは避けられないものであろうか?
 中野重治・渡辺一夫往復書簡
 寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか
解説 第六の証言(山城むつみ)


★中公文庫プレミアムの既刊書については同レーベルのブログ「編集部だより」をご覧ください。続刊は10月予定で、ヴェーバー/シュミット『政治の本質』清水幾太郎訳、とのことです。



★マーク・ボイル『無銭経済宣言』は『The Moneyless Manifesto: Live Well. Live Rich. Live Free』(Permanent Publications, 2012)の翻訳で、『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(吉田奈緒子訳、紀伊國屋書店、2011年;The Moneyless Man: A Year of Freeconomic Living)に続く、ボイル(Mark Boyle, 1979-)による待望の第二作です。「「お金がないと生きられない」というのは、ぼくらの文化が創りだした物語にすぎない。自然界や地域社会とのつながり、生の実感、持続可能な地球を取りもどすための新しい経済モデルを提起した、フリーエコノミー運動創始者による「カネなしマニフェスト」。貨幣経済によらない生活のノウハウも多数紹介」。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。序文は、『聖なる経済学』(Sacred Economics: Money, Gift, and Society in the Age of Transition, North Atlantic Books, 2011;非営利の日本語訳)の著者であるチャールズ・アイゼンスタイン(Charles Eisenstein, 1967-;アイゼンシュタインとも)が寄せています。曰く「実際に会って話してみたら、〔ボイルは〕聖人ぶったところがまったくなく、傲慢さとも無縁の人物だった。だからこそ、マークのメッセージは多くの人の共感を呼ぶのだろう。〔・・・〕彼いわく、金銭の放棄は、つながり、親密なつきあい、冒険、真の人生経験にいたる道である。善人と認められんがために身を犠牲にする道どころか、喜びの道であり、豊かさの道とすらいってもいい。/本書のひとつの意義は、その道をほかの人にも開いた点にある」(13頁)。「マークの著作は、つながりと喜びにあふれた生き方の単なる解説にとどまらない重要性を持つ。新しい体制の精神的いしずえを築いた点でも意義がある。来るべき革命も、マークの論じた深みに到達するものでなければ加わるに値しない。生命の流れに身をまかせ、寛大さこそが人間性の本質であると認識し、与える者は与えられると信じる次元まで踏みこんだ変革でなければ」(16頁)。


★ボイルはアイゼンスタインの序文に続く「はじめに」でこう書き綴っています。「本書の存在意義はもちろん、人間とカネの関係の再検討が必要だと信じる論拠を説明するのみにとどまらない。究極の目的は、読者が金銭ぬきで生活のニーズを満たせる(または少なくとも金銭への依存を小さくできる)方法を幅広く紹介することにある。自分自身の生きかたをもっと自分で決められるような、豊かな創造性を発揮できるような方法。自然界と地域社会に与えるマイナスの影響をおさえて、プラスの影響をふやす方法。喜びを感じなくなった仕事から自分を解放してやる方法。あるいはただ、自分のなかに存在することすら気づいていなかった未知の領域への道すじを」(27頁)。


★ボイルはこうも書いています。「いずれにしろ100%ローカルな生きかたを、ぼく自身は強く望んでいる。〔・・・〕全面的なローカル化が極端な経済モデルだと感じられるのは、極端にグローバル化した今日の経済と比較するからであり、ローカル化できない最新の電子機器に身も心も奪われた人の視点で見るからである。/ブラジルのアマゾンに住むアワ族のように、人どうしのきずなも大地との結びつきも強い民族から見たら、極端なのは、今日の工業化社会における暮らしぶりのほうだ。極端なのは、地球上の栄えある生命を、採鉱、皆伐、トロール漁にとって効率的に現金化できる資源の一覧表としか見ない世界観のほうだ。極端なのは、気がねなく隣人に助けを求めるどころか、近所にどんな人が住んでいるかすら知らない現実だ。極端なのは、空き部屋のある家があふれている地域で、路上に寝起きする人がいることだ。極端なのは、銀行にカネを返済するために、やりたくもない仕事をして人生をすごすことだ。そもそも銀行が無から作りだしたカネなのに。極端なのは、タダで与えられたものの代金を、同じ自然界に属する他者に請求することだ。自分の受けた贈り物を分けてやるのは引きかえに何かをくれる相手にかぎると言って。極端なのは、善人気どりで食品の紙パックをリサイクルしながら、がけっぷちにむかって歩いていくことだ。極端なのは、自分の力では止めようがないとばかりに、事態の進展に手をこまねいていることだ」(92頁;原書では42~43頁)。


★「子どもに価値ある未来を残してやるやめには、ただちに、皆の力で新しい物語を創造しはじめなくてはいけない。持続可能で、いまの時代にふさわしい物語を。〔・・・〕ユダヤの賢者ヒレルはこう言った。「きみがやらねば、誰がやる。いまやらねば、いつやる」。次世代に必要なのは、自己認識を拡張し、立ちあがっていまの文化を変えていく勇者だ。/そのひとりになろうではないか」(150頁)。本書は理論編と実践編の二部構成で、フリーエコノミーの思想と方法を読者に教えます。これはおそらく人類にとって、本気のサバイバルのためのバイブルです。


★ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』は『Are We Smart Enough to Know How Smart Animals Are?』(Norton, 2016)の翻訳。帯文に曰く「ラットが自分の決断を悔やむ。カラスが道具を作る。タコが人間の顔を見分ける。霊長類の社会的知能研究における第一人者が提唱する《進化認知学》とはなにか。驚くべき動物の認知の世界を鮮やかに描き出す待望の最新作」。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください(リンク先では試し読みもできます)。「私の主要な目的は、進化認知学への熱意の高まりを伝え、この分野が厳密な観察と実験に基づく立派な科学へと成長する過程を描き出すことだ」(362頁)と著者は書きます。訳者解説によればドゥ・ヴァールの提唱する進化認知学とは「人間とそれ以外の動物の心の働きを科学によって解明するきわめて新しい研究分野」であり、本書は「その格好の入門書」だと評されています。


★ドゥ・ヴァールはこう書きます。「それぞれに神経が通っていて独立した動きをする八本の腕の一本一本に行き渡ったタコの認知機能や、自分の発する甲高い鳴き声の反響を感じ取り、動き回る獲物を捕まえることを可能にするコウモリの認知能力と比べると、私たち人間の認知だけが特別だなどとははたして言えるだろうか」(12頁)。「私たちは自らの研究に生態学的な妥当性を求め、他の種を理解する手段として人間の共感能力を奨励したユクスキュル、ローレンツ、今西の助言に従っている。真の共感は、自己の焦点を合わせたものではなく他者志向だ。私たちは人間をあらゆるものの尺度とするのではなく、他の種をありのままのかたちで評価しなければならない」(359~360頁)。人間中心主義を乗り越える新たな地平が読者に提示されます。


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★続いて、既刊と新刊の中から注目書を列記してみます。


『月刊ドライブイン vol.04』橋本倫史取材/撮影/文、2017年7月、本体463円、A5判並製40頁、ISBNなし
『魔法をかける編集』藤本智士著、インプレス、2017年7月、本体1,600円、四六判並製240頁、ISBN978-4-295-00198-0
『フリーメイソン――秘密結社の社会学』橋爪大三郎著、小学館新書、2017年8月、本体840円、新書判304頁、ISBN978-4-09-825315-9
『映画とキリスト』岡田温司著、みすず書房、2017年8月、本体4,000円、四六判上製376頁、ISBN978-4-622-08624-6
『HUMAN LAND 人間の土地』奈良原一高写真、復刊ドットコム、2017年8月、本体8,000円、A4変判上製176頁、ISBN978-4-8354-5504-4



★『月刊ドライブイン vol.04』はリトルマガジン『HB』の編集発行人である橋本倫史(はしもと・ともふみ:1982-)さんが取材、写真、文章、構成をすべてお一人でやられている、その名の通りドライブイン専門のユニークな月刊誌の第4号です。この号では沖縄の「A&W」と「ドライブインレストランハワイ」を取り上げています。取扱書店は約30店で、私は松本市の「本・中川」さんで購入しました。表紙も本文紙も共に灰色で文字はスミで刷られていますが明るく落ち着いた印象があります。味わい深い文章と写真で、旅の気分が味わえます。「いくら沖縄を訪れたところで、何かが分かるわけではない。それは沖縄という土地に限らず、誰のことだって「わかる」と言える日が来るとはとうてい思えない。わかりきることなんてできないのに、それでも足を運んだり、視線を注いだりしてしまう。この時間はいったい何なのだろう」(編集後記より)。このしなやかな感性に好感を持ちます。いずれ一冊の書籍にまとまりそうな予感がします。


★『魔法をかける編集』は、ミシマ社さんが編集し、インプレスさんが発行するレーベル「しごとのわ」の最新刊。著者の藤本智士 (ふじもと・さとし:1974-)さんはは編集者で、有限会社りす代表。帯文はこうです。「一過性で終わるイベント、伝わらない商品、ビジョンのないまちづくり・・・足りないのは、編集です。マイナスをプラスに、忘れられていたものを人気商品に、ローカルから全国へ発信する・・・etc. 誰もが使えるその技術を、「Re:S」「のんびり」編集長がすべて公開!」。松本市のブックカフェ「栞日」で見つけて購入しました。藤本さんは「はじめに」でこう書いています。「僕は、編集とは魔法であり、編集者は魔法使いだと本気で思っているのですが、それが魔法であるがゆえに、これまでは一部の人だけが持つ特権的能力として扱われてきたように思います。/しかし編集力というのは、何もホグワーツに通わなくても、すべての人がすでに備えている能力であり、意識することで鍛えられるのです。〔・・・〕僕が思う編集力とはズバリ、「メディアを活用して状況を変化させるチカラ」です」(3頁)。こうした職能は業界人なら経験的に理解しているものであり、松岡正剛さんや後藤繁雄さんをはじめとする先人によっても言及されてきたものですが、その力を意識的に統御し活用できているかどうかは人によるかもしれません。藤本さんは「ローカルメディア」にこだわり、その戦略と戦術を本書で惜しみなく明かしています。同時代人のエールとして、業界人の必読書だと言っていいのではないかと思います。


★『フリーメイソン』はメイソンをめぐる23の疑問をそのまま章立てにして、橋爪大三郎さんが簡潔に答える体裁の入門書。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。「テンプル騎士団は、フリーメイソンなのですか」「イルミナティは、フリーメイソンなのですか」「マッカーサーは、フリーメイソンなのですか」「フリーメイソンは、陰謀集団なのですか」などの問いがあります。橋爪さんの考えがもっとも表れているのは「日本人はなぜ、フリーメイソンをよく理解できないのですか」という最初の問いと、「フリーメイソンを理解すると、なぜ世界がよく見えてくるのですか」という最後の問いではないかと思います。「フリーメイソンは、日本人が西欧キリスト教文明をみる場合の、盲点である」(まえがき、5頁)、また「フリーメイソンについて理解を深めること。それは、日本人が、21世紀の国際社会を生きていくための基礎教養だと思う」(294~295頁)と橋爪さんは指摘されています。日本グランドロッジも見学し、取材されたことがあとがきで明かされています。特にメイソンの幹部である片桐三郎さんの『入門フリーメイスン全史――偏見と真実』(アムアソシエイツ、2007年)には「とても助けられた」とお書きになっていますが、この本は残念ながら絶版の様子。本書が参考にしている新書には、吉村正和さんの『フリーメイソン』(講談社現代新書、1989年)や、荒俣宏さんの『フリーメイソン――「秘密」を抱えた謎の結社』(角川oneテーマ21、2010年)があります。


★『映画とキリスト』は「欧米における映画の発展は、キリスト教のテーマ系と切り離すことができないし、二千年にわたる美術の伝統も多かれ少なかれそこに影を落としている。その意味でこの本は、前著『映画は絵画のように――静止・運動・時間』〔岩波書店、2015年〕の延長線上にくるものでもある」(おわりに)とのこと。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。「まず第Ⅰ章では、両者〔映画とキリスト〕の関係性を理論的な観点から概観しておきたい。つづく第Ⅱ章から第Ⅳ章は、サイレントの時代より現代にいたるまで、いわゆるイエスのビオピック(伝記映画)の代表的な作品を取り上げ、それぞれ異なる視点から分析と記述を試みる。具体的には章の順に、サイレント映画、パゾリーニの『奇跡の丘』、1970年代以降の多様化するイエス像、マリアの出産シーン、そして名脇役としての「裏切り者」ユダと「娼婦」マグダラのマリア、である。映画におけるイエスの表象が、たんなる歴史(物語)の挿絵ではなくて、いろんな意味で、いかにアクチュアルにしてかつ解決困難な問題系を引きずってきたかが明らかになるだろう。/さらに第Ⅶ章から第Ⅸ章までの三つの章では、固有名詞としてのイエスその人というよりも、「油を塗られた人」すなわち「メシア」としてのキリストのイメージが投影されている作品が対象となる。〔・・・〕数ある作品に篩をかけながら、「キリスト」との同一化――その可能性と限界」がいかに映像化され、そこにいかなる意味が託されているかが問われるだろう。最後の章は、神学上のみならず、社会的で政治的でもあるキリスト教内部の問題をパロディやアイロニーも交えつつ鋭くえぐりだす作品に捧げられている」(はじめに)。


★また岡田さんはこう書いてもいらっしゃいます。「現代は、近代における宗教の「世俗化」にたいして、「ポスト世俗化」の時代と呼ばれることもある。もちろん映画もこの状況と無関係ではありえない。/さらにこうした現況下、哲学者たちも近年、開かれたキリスト教の可能性(とその限界)を新たに模索しはじめている。代表的な名前だけを挙げるなら、ジャン=リュック・ナンシー、ジョルジョ・アガンベン、ジャンニ・ヴァッティモ、ジョン・カプートらがいるが、本論でわたしは、必要とあれば彼らの議論にも応答しようと試みた」(おわりに)。


★『HUMAN LAND 人間の土地』はリブロポートより1987年に刊行された、奈良原一高さんのデビュー作となる写真集の復刊。被写体はまだ人が住んでいる時代の「緑なき島」軍艦島と、鹿児島県の桜島東部に位置する「火の山の麓」黒神村(現在は黒神町)。いずれも1950年代に写されたものです。復刊ドットコムのウェブサイトより購入すると、非売品のポストカード1枚が付いてきます。作家性の強い写真集は絶版になると古書価が高くなりなかなか手が届きにくいので、ぜひ今後も復刊ドットコムさんには写真集復刊の分野でぜひ頑張っていただきたいです。


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「週刊読書人」にソシュール関連書2点の書評

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「週刊読書人」2017年8月18日号に、弊社6月刊2点、金澤忠信『ソシュールの政治的言説』と、ソシュール『伝説・神話研究』金澤忠信訳、の書評「ソシュールとは何者だったのか?:私たち自身に突きつけられた問題――「歴史と伝説」」が掲載されました。評者は『フェルディナン・ド・ソシュールーー〈言語学〉の孤独、「一般言語学」の夢』(作品社、2009年)で、渋沢・クローデル賞(第27回)と和辻哲郎文化賞(第22回)をダブル受賞され、その後も『エスの系譜─―沈黙の西洋思想史』(講談社、2010年)でサントリー学芸賞(2014年)を受賞するなど、著述家・編集者として多面的にご活躍されている、互盛央(たがい・もりお:1972-)さんです。「金澤氏は「第一のソシュール」から「第五のソシュール」まで五人のソシュールを区別している。その分類に従って言えば、スタロバンスキーの訳書と今回の二冊によって、日本の読者は「第三のソシュール」から「第五のソシュール」をようやく本格的に知ることができるようになった。この功績は幾度も強調したい」と評していただきました。互さん、まことにありがとうございました!


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ブックツリー「哲学読書室」に杉田俊介さんの選書リストが追加されました

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オンライン書店「honto」のブックツリー「哲学読書室」に、『ジョジョ論』(作品社、2017年6月)の著者・杉田俊介さんによる選書リスト「運命論から『ジョジョの奇妙な冒険』を読む」が追加されました。下記リンク先一覧よりご覧ください。
◎哲学読書室星野太(ほしの・ふとし:1983-)さん選書「崇高が分かれば西洋が分かる」
國分功一郎(こくぶん・こういちろう:1974-)さん選書「意志について考える。そこから中動態の哲学へ!」
近藤和敬(こんどう・かずのり:1979-)さん選書「20世紀フランスの哲学地図を書き換える」
上尾真道(うえお・まさみち:1979-)さん選書「心のケアを問う哲学。精神医療とフランス現代思想」
篠原雅武(しのはら・まさたけ:1975-)さん選書「じつは私たちは、様々な人と会話しながら考えている」
渡辺洋平(わたなべ・ようへい:1985-)さん選書「今、哲学を(再)開始するために」
西兼志(にし・けんじ:1972-)さん選書「〈アイドル〉を通してメディア文化を考える」
岡本健(おかもと・たけし:1983-)さん選書「ゾンビを/で哲学してみる!?」
金澤忠信(かなざわ・ただのぶ:1970-)さん選書「19世紀末の歴史的文脈のなかでソシュールを読み直す」
藤井俊之(ふじい・としゆき:1979-)さん選書「ナルシシズムの時代に自らを省みることの困難について」
吉松覚(よしまつ・さとる:1987-)さん選書「ラディカル無神論をめぐる思想的布置」
高桑和巳(たかくわ・かずみ:1972-)さん選書「死刑を考えなおす、何度でも」
杉田俊介(すぎた・しゅんすけ:1975-)さん選書「運命論から『ジョジョの奇妙な冒険』を読む」


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新規開店情報:月曜社の本を置いてくださる本屋さん

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2017年9月15日(金)オープン
ブックスMOA大曲店:図書422坪、文具122坪、カフェ50坪
秋田県大仙市飯田字堰東219番地
日販帳合。弊社へのご発注は写真集数点。取次の発注依頼書および挨拶状によれば、大曲店は秋田県下にて「ブックスMOA」屋号で4店舗を運営している秋田トヨタが展開する5店舗目。国道105号線(大曲西道路)の飯田インターチェンジ出入口から100メートルほどの郊外に位置し、県内陸部の横手、大仙、湯沢エリアで一番店を目指すとのことです。また秋田トヨタと丸善ジュンク堂書店の連名による挨拶状には、什器レイアウト・選書・ジャンル構成・棚詰・研修に至るまで、業務提携先である丸善ジュンク堂書店の全面協力を得ているとのことです。ブックスMOAの特徴はトヨタのディーラーが併設されている点。


弊社のようなパターン配本を実施していない版元が気になるのは、今後の新刊の取り扱いについてです。同チェーンでは支店さんから新刊の事前発注が入ったことがないため、初期在庫のみのお付き合いに終わってしまいがちなのです。せっかく新規開店用に出品したものの、その先が続かないという。その辺を日販さんや書店さんには分かっていただけたら、と願っている次第です。


2017年10月28日(土)オープン
ジュンク堂書店秋田店:図書507坪
秋田県秋田市千秋久保田町4-2 秋田オーパ 6F
トーハン帳合。弊社へのご発注は芸術書および人文書の主要商品。今年2月26日に閉店した旧秋田店でしたが、秋田フォーラスが耐震工事によって秋田オーパへと生まれ変わるのに伴い、6Fに出店。丸善ジュンク堂書店の挨拶状によれば、「再オープンに際しまして売場が2フロアから1フロアになり売場面積が643坪から507坪に変更となりますが基本コンセプトは変更することなく専門書をはじめとした商品の充実を計り、地域一番の品揃えを目指」すとのことです。営業時間は10時から21時。


少し気掛かりなのは、発注された書目が、近年のものを中心としており、ロングセラーが一部バッサリと抜けていることです。らしくない感じがするものの、この辺は追加のご発注があることを祈るほかありません。


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このほか、短冊のみのご発注では福岡市の六本松蔦屋書店さんや、中央区日本橋のHAMA HOUSEさんから芸術書のご発注を頂戴しました。


前者の六本松蔦屋書店は、「西日本新聞」2017年2月2日付記事「六本松九大跡地に「蔦屋書店」と「ボンラパス」 今秋開業、JR九州が発表」によれば、JR九州は福岡市中央区六本松の九州大キャンパス跡地に複合ビルと分譲マンションを建設中で、複合施設の低層棟である「六本松421」(10月オープン予定)の1Fにスーパー「ボンラパス」、2Fに蔦屋書店や学童保育施設やクリニック、3Fに九州大学法科大学院、5Fに福岡市科学館が入るそうです。



後者のHAMA HOUSEは、株式会社good morningsがプロデュースする「街のリビング」を目指すと謳う複合施設の名称で、一階は書店兼カフェ、二階はキッチンスタジオ兼オフィス、三階はスモールオフィスからなる、 三階建ての拠点とのことです。安田不動産のプレスリリースによれば9月9日オープン。


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一方、閉店情報も入ってきています。8月31日で閉店するのは大阪屋栗田帳合のブックカフェ「BOWL」の富士見店(125坪、2015年4月10日開店)と海老名店(172.52坪、2015年10月29日開店)の2店舗。素敵なお店だっただけに2年での撤退は残念です。日本紙パルプ商事の子会社でBOWLの経営主体である「リーディングポートJP」はどうなるのでしょうか。また、BOWLの運営主体である大阪屋栗田の子会社「リーディングスタイル」が手がけるブックカフェでは、すでにソリッド・アンド・リキッドテンジンが今年1月15日に閉店しており、同町田店は昨年8月5日にコミコミ・スタジオとしてリニューアルしています(参照:「町田経済新聞」2016年8月6日付記事「町田の書店「ソリッド・アンド・リキッド」改装 ボーイズラブ作品に特化」)。そして今月末BOWLの2店舗が閉店と。なんとなく嫌な流れではあります。あれだけきれいに作り込んでも継続困難なら、そもそも巨大SC内のブックカフェに未来はあるのか、と思わなくもないです。



ちなみに今日の「朝日新聞」ではこんな記事が出ました。2017年8月24日付、赤田康和・塩原賢氏記名記事「書店ゼロの自治体、2割強に 人口減・ネット書店成長…」です。曰く「書店が地域に1店舗もない「書店ゼロ自治体」が増えている。出版取次大手によると、香川を除く全国46都道府県で420の自治体・行政区にのぼり、全国の自治体・行政区(1896)の2割強を占める。「文化拠点の衰退」と危惧する声も強い」と。
 
「トーハン(東京)の7月現在のまとめによると、ゼロ自治体が多いのは北海道(58)、長野(41)、福島(28)、沖縄(20)、奈良(19)、熊本(18)の順。〔・・・〕全国の書店数は1万2526店で、2000年の2万1654店から4割強も減った(書店調査会社アルメディア調べ、5月現在)。人口減や活字離れがあるほか、書店の売り上げの6~7割を占める雑誌の市場規模は10年前の6割に縮小。紙の本の市場の1割を握るアマゾンなど、ネット書店にも押される。経営者の高齢化やコンビニの雑誌販売なども影響する。日本出版インフラセンターの調査では、過去10年で299坪以下の中小書店は減少したものの、300坪以上の大型店は868店から1166店に増加。書店の大型化が進む」。


実際のところ砂漠化が進んでいるのは地方だけではなく、東京都下でもどんどん街ナカ書店が閉店しています。また、大型書店が増えているとはいえ、本の売上は増えていませんから、大ざっぱに言えば、売上が回復していないのに無理やり大型書店を作っている、という状況が続いているわけです。


記事では続けて、「街の書店は、子どもが絵本や児童文学を通じて活字文化の魅力に接する場であり、ネットが苦手な人の情報格差を埋める機能もある。地方都市では地域の人が集い交流する場でもあった。手にとって未知の本を読み、関心の領域を広げる機会も得られる」という風に、書店の社会的役割を指摘し、文字・活字文化推進機構副会長の作家、阿刀田高さんの「書店は紙の本との心ときめく出会いの場で、知識や教養を養う文化拠点。IT時代ゆえに減少は避けられないが、何とか残していく必要がある」というご発言で記事を締めくくっています。


本屋を何とかなくしたくない、という思いは多くの出版人が共有するものかと思いますが、文化拠点としての書店は図書館のように行政が支えるものではなく、市民が直接支えるものなので、商売にならない場合はたちまち消え去っていくのだということを覚悟する必要があると思います。


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注目新刊:ラング『夢と幽霊の書』作品社、ほか

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夢と幽霊の書
アンドルー・ラング著、ないとうふみこ訳
作品社、2017年8月、本体2,400円、四六判上製304頁、ISBN978-4-86182-650-4


帯文より:ルイス・キャロル、コナン・ドイルらが所属した心霊現象研究協会の会長による幽霊譚の古典、ロンドン留学中の夏目漱石が愛読し短篇「琴のそら音」の着想を得た名著、120年の時を越えて、待望の本邦初訳!


目次:
はじめに
第一章 夢
第二章 夢と幻視
第三章 水晶玉による幻視
第四章 幻覚
第五章 生き霊
第六章 死者の幽霊
第七章 目的を持って現れた霊
第八章 幽霊
第九章 幽霊と幽霊屋敷
第一〇章 近世の幽霊屋敷
第一一章 さらなる幽霊屋敷
第一二章 大昔の幽霊
第一三章 アイスランドの幽霊
第一四章 さまざまなおばけ
原註
訳註
訳者あとがき
一二〇年の時を経てあらわれた幻の本(吉田篤弘)


★原書は1897年に刊行された『The Book og Dreams and Ghosts』で、1899年の第2版の前書きも訳出されています。「〔民話・説話・童話の〕蒐集家と語り部としてのラングの力がフルに発揮された、怪異にまつわる古今東西の実話集」(訳者あとがき)です。全14章に75篇を収めています。晩夏の暑気払いに味読したい一冊です。


★アンドルー・ラング(Andrew Lang, 1844-1912)はスコットランドの詩人・小説家・文芸批評家。先に引いた訳者あとがきでないとうさんはラングについて「日本では、『あおいろの童話集』をはじめとする色名のついた童話集の編纂者として最もよく知られている。また童話以外でも、『書斎』(生田耕作訳、白水社)、『書物と愛書家』(不破有理訳、図書出版社)といった、書物へのマニアックな愛を語るすぐれた随筆が紹介されている。だが、ラングの業績は、これだけではとうてい網羅できないほど多岐にわたっている」と記し、さらに詳しい経歴を紹介しています。特に本作との関係では心霊現象研究協会に1882年の設立当初から会員として所属し、逝去する前年には会長も務めたとのことです。


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★また、最近では以下の新刊との出会いがありました。


『戦う姫、働く少女』河野真太郎著、堀之内出版;POSSE叢書003、2017年7月、本体1,800円、四六判並製240頁頁、ISBN978-4-906708-98-7
『明治・大正期の科学思想史』金森修編、勁草書房、2017年8月、本体7,000円、A5判上製472頁、ISBN978-4-326-10261-7
『エドワード・ヤン――再考/再見』フィルムアート社編集部編、蓮實重彦ほか著、フィルムアート、2017年8月、本体3,000円、A5判並製472頁、ISBN 978-4-8459-1641-2
『パリに終わりはこない』エンリーケ・ビラ=マタス著、木村榮一訳、河出書房新社、2017年8月、本体2,400円、46変形判304頁、ISBN978-4-309-20731-5
『定版 見るなの禁止――日本語臨床の深層』北山修著、岩崎学術出版社、2017年8月、本体3,700円、A5判上製304頁、ISBN978-4-7533-1121-7
『臨床心理学 増刊第9号 みんなの当事者研究』熊谷晋一郎編、金剛出版、2017年8月、本体2,400円、B5判並製200頁、ISBN978-4-7724-1571-2
『はじめてまなぶ行動療法』三田村仰著、金剛出版、2017年8月、本体3,200円、A5判並製336頁、ISBNISBN978-4-7724-1571-2
『古都の占領――生活史からみる京都 1945‐1952』西川祐子著、平凡社、2017年8月、本体3,800円、4-6判上製516頁、ISBN978-4-582-45451-2
『故郷』李箕永著、大村益夫訳、平凡社;朝鮮近代文学選集8、2017年8月、本体3,500円、4-6判上製552頁、ISBN978-4-582-30240-0
『国民再統合の政治――福祉国家とリベラル・ナショナリズムの間』新川敏光編、ナカニシヤ出版、2017年8月、本体3,600円、A5判上製310頁、ISBN978-4-7795-1190-5
『功利主義の逆襲』若松良樹編、ナカニシヤ出版、2017年8月、本体3,500円、A5判上製272頁、ISBN978-4-7795-1189-9
『講義 政治思想と文学』堀田新五郎/森川輝一編、ナカニシヤ出版、2017年8月、本体4,000円、4-6版並製400頁、ISBN978-4-7795-1191-2



★『戦う姫、働く少女』は『〈田舎と都会〉の系譜学――二〇世紀イギリスと「文化」の地図』(ミネルヴァ書房、2013年)に続く、河野真太郎(こうの・しんたろう:1974-;一橋大学大学院商学研究科准教授)さんの単独著第二作。『POSSE』誌で2014年から2015年にかけて連載された「文化と労働」を加筆修正したものです。発売後目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。ジブリやディズニーなど映画作品から現代の女性像を読み解く話題作で、発売1ヶ月で早くも重版とのことです。著者が最終的に取りつかれたアイデアだという「連帯とは他者の欲望や願望を受け取ることであり、その願望はそれが他者のものであるがゆえにより強いものになる」(236頁)という言葉が印象的です。刊行記念トークイベント「戦闘美少女はなぜ働くのか」が来月9月7日19時から、Readin'Writin'(銀座線・田原町徒歩3分)にて行われます。参加費500円当日現金精算、定員20名要予約です。



★『明治・大正期の科学思想史』は科学思想史研究の第一人者、金森修(かなもり・おさむ:1954-2016)さんの編書三部作である『昭和前期の科学思想史』2011年、『昭和後期の科学思想史』2016年、に続く完結編論文集です。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。奥村大介さんによる巻末附記によれば、三部作にさらに遡る編著書『科学思想史』2010年、と合わせて四冊で「勁草・科学思想史」シリーズと括っておられます。今回刊行された遺作には金森さんの序論やあとがき、さらに「疾病の統治――明治の〈生政治〉」と仮題を付された論攷が掲載予定だったものの、逝去によって叶わなかったことが説明され、さらに論攷の内容構想についても言及されています。


★『エドワード・ヤン――再考/再見』は台湾の映画監督で、今年生誕70年を迎えるエドワード・ヤン(楊徳昌:1947-2007)をめぐる論文集。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。現在、1991年の作品『牯嶺街〔クーリンチェ〕少年殺人事件』の4Kレストア・デジタルリマスター3時間56分版が都下では下高井戸シネマで9月1日(金)まで上映されています(2K変換上映)。その他劇場情報はこちらでこちらをご覧ください。また同作品と『台北ストーリー』(1985年)のブルーレイとDVDが11月2日に発売となるとのことです。今回の論集では同作品をめぐる論考を丹生谷貴志さんがお書きになっているほか、監督のインタビュー2本「映画はまだ若い」(聞き手=坂本安美)と「人生のもう半分を映す窓」(聞き手=野崎歓)のほか、監督と四方田犬彦さんの対談「JAMMING WITH EDWARD」が収められています。巻末にはフィルモグラフィ、バイオグラフィ、関連図書が配されています。



★『パリに終わりはこない』は『París no se acaba nunca』(Barcelona: Anagrama, 2003)の翻訳。帯文に曰く「現代文学の再前衛『バートルビーと仲間たち』以後の代表作。暴走するアイロニー、パリのスペイン人。〈ヘミングウェイそっくりさんコンテスト〉最下位の「私」がデュラスの屋根裏部屋での青春を回想? 講演? 小説?する」と。訳者あとがきではこう説明されています。「彼の小説は自伝的要素が織り込まれたフィクションで、自らも自身の作品を《自伝的フィクション》autoficciónと呼んでいる〔・・・〕。〔・・・『パリに~』は〕1974年からパリで2年間文学修行した時のことがさまざまなエピソードや引用をまじえながら語られている」と。バルセロナの作家ビラ=マタス(Enrique Vila-Matas, 1948-)の既訳小説2点はいずれも今回と同じく木村榮一さんによって訳されています。『バートルビーと仲間たち』(新潮社、2008年)、『ポータブル文学小史』(平凡社、2011年)。『パリに~』はこれらに続く3点目となります。



★『定版 見るなの禁止』はまもなく発売。1993年に刊行された『北山修著作集:日本語臨床の深層』第1巻をもとに再編集された決定版。それぞれの目次を比べてみても旧版とは異なっていることが分かりますが、より詳しくは、旧版の各章が今回の定版でどのように変更されているのかを記してある、291頁の旧版目次をご確認ください。「見るなの禁止」というのは、見てはいけないという禁止であり、「動物が人間の姿で嫁に来るけれども、正体を見られて去る」という形式を持つ「異類婚姻説話」に見られるものです。定版で新たに加えられた工藤晋平さんによる解説にはこうあります。見るなの禁止とは「対象の二面性に急激に直面し、幻滅することを防ぐ設定である」(282頁)。「対象の二面性に直面した時の、嫌悪感、罪悪感、環境の失敗を噛みしめる、抑うつポジションでのワークスルーが、見るなの禁止を巡る課題である。それがはかなく消えゆく媒介的対象をはさんで間を置く移行の作業に他ならないことを、北山は説いている」(285頁)。工藤さんはこのテーマをめぐる北山さんの歩みを「長い旅をみているよう」だ(281頁)と評しておられます。



★『臨床心理学 増刊第9号 みんなの当事者研究』と『はじめてまなぶ行動療法』は金剛出版さんの今月新刊です。前者は『臨床心理学』誌の増刊号で、國分功一郎さんと編者の熊谷晋一郎による対談「来たるべき当事者研究」をはじめ、河野哲也さん、村上靖彦さん、上野千鶴子さん、坂口恭平さんほか、多数の論考を収録した必読号です。『はじめてまなぶ行動療法』は版元紹介文に曰く「「パブロフの犬」の実験から認知行動療法、臨床行動分析、DBT、ACT、マインドフルネスまで、行動療法の基礎と最新のムーブメントをていねいに解説する研究者・実践家必読の行動療法入門ガイド」であり、「はじめて読んでもよくわかる,行動療法の歴史・原理・応用・哲学を学べる教科書」と。巻末に充実した「用語解説・定義」と300冊強の引用文献一覧あり。


★『古都の占領』と『故郷』は平凡社さんの今月新刊。『古都の占領』は帯文に曰く「1952年の講和条約発効までは休戦期であり、戦争状態はつづいていた――国は忘却に躍起となり、人々は故意に忘れたいと願った占領の事実から戦争そのものの構造を問う」という、非常に興味深い力作です。『故郷』はシリーズ「朝鮮近代文学選集」の第8巻で、版元紹介文の文言を借りると「朝鮮プロレタリア文学を代表する作家」である李箕永(イ・ギヨン:1895~1984)の最高傑作。日本統治下の荒廃する農村に生きる小作人の群像を描いたものとのことです。


★『国民再統合の政治』『功利主義の逆襲』『講義 政治思想と文学』はナカニシヤ出版さんが今月刊行されたアンソロジー。収録作品詳細は書名のリンク先をご覧ください。『国民再統合の政治』は帯文によれば「各国で移民問題が深刻化し排外主義が台頭するなか、新たな統合の枠組みとして、リベラル・ナショナリズムが提唱されている。国民統合戦略の以降のなかで、福祉国家の弱体化、極右政党の台頭、多文化主義の実態を、各国の事例をもとに分析する」論集。『功利主義の逆襲』は「反直観論法は成功しているか」「功利主義の動学」「功利主義的な統治とは何か」の三部構成による論文集で、『法哲学年報2011』(日本法哲学会による2011年の「功利主義ルネッサンス」と題した学術大会の成果をまとめたもの)の続編とのことです。『講義 政治思想と文学』は、カミュ、シェストフ、ディドロ、バーク、ヴェイユ、フロベール、メルヴィルらの作品を「政治と文学」という視点から読み解く7本の論考に加え、作家の平野啓一郎さんによる特別講義「『仮面の告白』論」(『新潮』2015年2月号に掲載された同題の三島由紀夫論に加筆修正したもの)と、京都大学名誉教授の小野紀明さんによる最終講義「戦後日本の精神史――三島由紀夫と平野啓一郎」を併載しています。


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注目新刊:『魅了されたニューロン』『禁書』、ほか

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『魅了されたニューロン――脳と音楽をめぐる対話』P・ブーレーズ/J-P・シャンジュー/P・マヌリ著、笠羽映子訳、法政大学出版局、2017年8月、本体3,600円、四六判上製358頁、ISBN978-4-588-41032-1
『禁書――グーテンベルクから百科全書まで』マリオ・インフェリーゼ著、湯上良訳、法政大学出版局、2018年8月、本体2,500円、四六判上製204頁、ISBN978-4-588-35233-1



★『魅了されたニューロン』は『Les Neurones enchantés: Le cerveau et la musique』(Odile Jacob, 2014)の全訳。作曲家ブーレーズ(Pierre Boulez, 1925-2016)と、神経生物学者シャンジュー(Jean-Pierre Changeux, 1936-)、作曲家マヌリ(Philippe Manoury, 1952-)による鼎談本。第一章「音楽とは何か?」、第二章「「美」のパラドックスと芸術の規則」、第三章「耳から脳へ──音楽の生理学」、第四章「作曲家の頭の中のダーウィン」、第五章「音楽創造における意識と無・意識」、第六章「音楽的創造と科学的創造」、第七章「音楽を学ぶ」、の全七章構成です。



★シャンジューは一時期、作曲家アンドレ・ジョリヴェ(André Jolivet, 1905-1974)に作曲を習っていた(24頁)と明かしており、ブーレーズに次々と興味深い質問をぶつけています。マヌリはしばしば緊張感あふれるブーレーズとシャンジューの間(あいだ)をところどころで巧みに取り持っていて、二人の時折沈思する間(ま)をうまく引き受けているように思えます。二人の距離感が一気に縮まるように見える瞬間が最初に到来するのはようやく第二章の途中になってからです。次のようなやりとりがあります(75~77頁)。


シャンジュー:革新はあなたの作品の根本的な要素であるように思われますが、作曲家としてのあなたの広範なキャリアを通じて、あなたがつねにとりわけ革新に腐心してこられたのは、どのような理由のためなのですか?


ブーレーズ:それは生物学的必要だと言いましょうか。〔・・・〕まったく単純にいつも同じ動作を繰り返すことはできないのです。それは自分自身に対する不快感の問題です。「もうそれはすでにやった」とそこで考えるわけです。


シャンジュー:問題になるのは、不快感、あるいは退屈、疲労ですか?


ブーレーズ:不快感ですね。それがしまいには耐えがたくなるのです。〔・・・〕偶発事を予期し、それを活用すべきです。予想外の何かが眠りを妨げにきて、反応を促すのです。「おや、その通りだ、私はそんなことを考えたことがなかった」と思うわけです。〔・・・〕新しいものを捕まえ、それを飼いならす必要があります。作曲家は言ってみれば捕食者です。〔・・・〕それらのものと自分との間に突如現実性が生じるのですが、後になるともはやその現実性は理解できないので、それをまさにその時に捉えなければならないのです。自分が何をしたかを意識しているとはいえ、後戻りすることはできません。〔・・・〕。


シャンジュー:そうした革新は科学的進歩と比べられるでしょうか?


ブーレーズ:問題になっているのは革新であって、進歩ではありません。モーツァルトより私たちが進歩するということはありません。けれども、革新という意味で、新しさの重要性を強調するということであなたにまったく同意します。言い換えれば、いくつかの恒常性とともに行動範囲が変わるのです。


★こうしたやりとりのあとブーレーズはこう答えます。「芸術的な創作活動においては、進歩はなく、あるのは、とくに西洋においてですが、絶えず変形している文法的規則に応じた視点の変化です。それらの発展的変遷は人為的ではなく、育まれるのだとでも言えるでしょう。それらは、個々人の行為であり、個々人は個人として自己を表現することを望み、むろん、それらを取り巻く世界と繋がってはいますが、自分を取り巻く世界を、個人として表現します」(78頁)。


★本書にはこのほかにも興味深いやりとりがあちこちに見いだされ、シャンジューの人間観や文明観、そしてブーレーズの音楽観を読み取ることができます。ブーレーズの音楽観の一端は例えば次のような発言にも表れているかもしれません。「音楽は非物質的であり、あるいはもっと正確には、売ったり買ったりでき、自宅の壁に掛けたり、ナイトテーブルに置いておける物のかたちで提供されません〔・・・〕。音楽の市場は存在せず、したがって金銭的な投機もありません。〔・・・〕それは音楽の唯一の利点なのです。音楽はたしかに投機から守られています。投機はずっと後になって、まず自筆譜に、第二に入場者数、興行成績に関わることに介入してくるだけです。ヴァーグナーの作品を上演すれば、ホールは満杯になりますし、新作初演をやろうとすると、ホールの三分の二は空席です。したがって、作品はあるがままの存在、つまり新しさへの侵入なのですから、作品が損をするだろうという意味でも競争はありません。けれども〔・・・〕目下話題の出来事なら、人々は押し寄せます。重要なのは当節の流行であり、流行に賛成であるか反対であるかなのです。流行に適った何かを提供すれば、公衆は好奇心からやって来ます。もしそれが流行に逆らう何かだったり、一層難しく、取っつきにくい何がだったりすれば、公衆は、新しさを怖れるので、やって来ません。そして新しさに対する恐れは新しさに対する欲求よりもはるかに大きいのです」(70頁)。


★シャンジューとの対比から見て、ブーレーズの言葉は折々に厳しく、安易な協調や楽観を退けます。時に冷徹なリアリズムに響くブーレーズの最晩年の言葉は、どれも印象的です。


★『禁書』は、『I libri proibiti da Gutenberg all'Encyclopédie』(Laterza, 1999)の全訳。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。訳者あとがきの文言を借りると本書は「主にトレント公会議前後から本格的に始まった禁書目録の作成や対応を通して、統治する側の論理と統制の組織化、そして管理に対する人々の対策や統制の網の目を逃れていく方法について、イタリア半島のみならず広くヨーロッパ社会の地域ごとの事情を解き明かした歴史書である。第一章の「出版規制」では、出版物の管理・監督について主に検閲という観点から明らかにし、第二章の「文化追放」では、各地域に対して個別に作成され、適用された禁書目録の内容について扱い、第三章の「検閲の限界」では、検閲制度では、検閲制度の限界と十六世紀末以降の時代の変化を指摘し、第四章の「絶対主義と検閲」では、教会主導から国家による統制への変化、そして出版の自由へといたる時代の流れを扱う。全章を通じてイタリア半島の諸国家の事情だけでなく、ヨーロッパ各国の状況について比較・検討を行っている」ものです。



★情報統制や検閲や規制(自己規制を含む)が活きている現代社会の淵源を考える上で重要であるだけでなく、表現の自由や知る自由を獲得してきた歴史を振り返る上でも参照すべき基本書であると思われます。巻頭の「著者から日本の読者へ」で著者はこう書いています。「社会の全階層における書籍の伝播、購読と著述の増加、そしてラテン語に替わる各国の言語の確立は、社会と権力の間のこれまでとは異なる関係性の基盤を作り出します。十七世紀から十八世紀の間、読書を行う大衆は引き続き増加していきますが、彼らは統御に関する規定に従う姿勢をつねには見せていなかったのです。こうした状況は、活発な非合法市場のおかげでもあり、この市場はヨーロッパ中で組織され、枝分かれし、当局の課す購読に有効な形で代替となるものを提供できたのです。/著述と購読が自由でなければならないという考え方は、こうした背景から生まれ、発展しました。意見表明や表現の自由の権利が現代文明の主要原則の一つとなり始めたのは、まさにその瞬間であったのです」(vi頁)。著者のインフェリーゼ(Mario Infelise, 1952-)さんはイタリアの出版史家。ミラノ大学やヴェネツィア大学で教鞭を執られています。



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★このほか最近では以下の新刊との出会いがありました。


『松本圭二セレクション(1)ロング・リリイフ』航思社、2017年9月、本体2,500円、四六判上製112頁、ISBN978-4-906738-25-0
『松本圭二セレクション(3)詩篇アマータイム』航思社、2017年9月、本体2,600円、四六判上製106頁、ISBN978-4-906738-27-4
『松本圭二セレクション(8)さらばボヘミヤン』航思社、2017年9月、本体2,400円、四六判上製236頁、ISBN978-4-906738-32-8
『心は燃える』ル・クレジオ著、中地義和/鈴木雅生訳、作品社、2017年8月、本体2,000円、四六判上製198頁、ISBN978-4-86182-642-9
『ヤングスキンズ』コリン・バレット著、田栗美奈子/下林悠治訳、作品社、2017年8月、本体2,400円、四六判上製292頁、ISBN978-4-86182-647-4
『誰が何を論じているのか――現代日本の思想と状況』小熊英二著、新曜社、2017年8月、本体3,200円、四六判並製554頁、ISBN978-4-7885-1531-4
『ワードマップ 現代現象学――経験から始める哲学入門』植村玄輝/八重樫徹/吉川孝編著、富山豊/森功次著、新曜社、2017年8月、本体2,800円、四六判並製318頁、ISBN 978-4-7885-1532-1
『現代思想2017年9月号 特集=いまなぜ地政学か――新しい世界地図の描き方』青土社、2017年8月、本体1400円、A5判並製246頁、ISBN978-4-7917-1352-3
『現代思想2017年9月臨時増刊号 総特集=かこさとし――『だるまちゃん』『からすのパンやさん』から科学絵本、そしてあそびの大研究まで…広がり続ける表現の世界』青土社、2017年8月、本体1,800円、B5変型判並製284頁、ISBN978-4-7917-1351-6
『現代思想2017年8月臨時増刊号 総特集=恐竜――古生物研究最前線』青土社、2017年7月、本体1,800円、A5判並製254頁、ISBN978-4-7917-1350-9
『現代思想2017年8月号 特集=「コミュ障」の時代』青土社、2017年7月、本体1,400円、A5判並製230頁、ISBN978-4-7917-1349-3



★まず航思社さんの新刊。『ロング・リリイフ』『詩篇アマータイム』『さらばボヘミヤン』は「松本圭二セレクション」の第1回配本(3冊同時発売)。同セレクションは月報付きで全9巻、隔月刊予定で、詩人でありフィルム・アーキヴィストの松本圭二(まつもと・けいじ:1965-)さんの詩集、小説、評論およびエッセイを集めた選集です。前田晃伸さんさんによる瀟洒な造本が際立っています。『ロング・リリイフ』(七月堂、1992年)、『詩篇アマータイム』(思潮社、2000年)の2点は詩集の再刊で、『さらばボヘミヤン』は表題作(『新潮』2009年7月号)、「タランチュラ」(『すばる』2011年12月号)、「ハリーの災難」(『すばる』2012年6月号)の3本をまとめた小説集です。出色なのは『詩篇アマータイム』で、著者解題の言葉を借りると「テクストを重層的に配置」した「交響楽のスコア」のような紙面は必見です。


★次に作品社さんの新刊。『心は燃える』はル・クレジオの中短篇小説集『Cœur brûle et autres romances』(Gallimard, 2000)の全訳。「心は燃える」「冒険を探す」「孤独という名のホテル」「三つの冒険」「カリマ」「南の風」「宝物殿」の7本を収め、巻末に訳者による解題が付されています。『ヤングスキンズ』はアイルランド文学界の期待の新星だというバレット(Colin Barrett, 1982-)のデビュー作『Young Skins』(Stinging Fly Press, 2013)の翻訳。ガーディアン・ファーストブック賞、ルーニー賞、フランク・オコナー国際短編賞などを受賞している話題作で、帯文によれば「経済が崩壊し、人心が鬱屈したアイルランドの地方都市に暮らす無軌道な若者たちを、繊細かつ暴力的な筆致で描きだす、ニューウェイブ文学の傑作」と。カヴァーの個性的な装画は葉山禎治さんによるもの。


★続いて新曜社さんの新刊。『誰が何を論じているのか』は巻頭におかれた著者による「読者の方々へ」によれば、「私が本書に収録された論評を書いたのは、2013年4月から2016年3月である。私はこの時期、朝日新聞の論壇委員という仕事をしていた。この仕事のため、私のもとには、毎月毎週、朝日新聞社からさまざまな雑誌が送られてくる。それを読み、これはと思った論文をとりあげながら論評するのが論壇委員の仕事だ。〔・・・送られてくる様々な雑誌の〕ほぼ全てに目を通し、傍線を引き、付箋を貼り、切り抜き、メモをとる作業を、この六年ほど続けている。論評にとりあげたのは、そのなかのごく一部だ」。目次は書名のリンク先をご覧ください。


★『現代現象学』はシリーズ「ワードマップ」の最新刊で、まえがきによれば「第1部・基本編……現象学的哲学の基本的な発想や概念の解説」「第2部・応用編……哲学の諸問題に対する現象学からのアプローチの試み」という二部構成。同書の刊行を記念し、紀伊國屋書店新宿本店3階哲学思想書エンド台にてブックフェア「いまこそ事象そのものへ!――現象学からはじめる書棚散策」が先月より今月末まで開催中です。同書は新宿本店総合ランキング9位に入る売行で、フェア全体の売上も絶好調と仄聞しています。フェア用に作成された36頁もの力作ブックガイド(第一部「現象学:源流から現代へ」、第二部「哲学の古典的主題」、第三部「現代の哲学・諸学との接点」)が配布されています。ぜひ店頭にてご確認下さい。


★最後に青土社さんの月刊誌「現代思想」でのここ2ヶ月の間に発売された通常号2点と臨時増刊号2点。先日も言及した8月通常号「「コミュ障」の時代」は、國分功一郎さんと千葉雅也による討議「コミュニケーションにおける闇と超越」や、新連載として磯崎新さんによる「瓦礫(デブリ)の未来」などを掲載。8月臨時増刊号「恐竜」では、吉川浩満さんの「私の恐竜」、大橋完太郎さんの「怪物・化石・恐竜――フランスにおける近代自然史の展開から」などを掲載。9月臨時増刊号「かこさとし」では、國分功一郎さんによる、かこさとしさんへのインタビュー「学ぶこと、生きることの意味を求めて――子どもと社会のあいだから」をはじめ、中村桂子さんによる「生活の中での子どもをよく見て、子どもの声を聞く――加古里子さんと生命誌の出会い」、篠原雅武さんの「かこさとしにおける不信と怒り――「怒りの時代」を生き抜くために」などを掲載。9月通常号「いまなぜ地政学か」では、伊勢崎賢治さんと西谷修さんいよる討議「「非戦」のための地政学」や、中野剛志さんへのインタビュー「地政経済学の射程――グローバリゼーションの終焉以後を読み解く」などを掲載。10月通常号の特集は「ロシア革命」と予告されています。


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「ふらんす」に、金澤忠信『ソシュールの政治的言説』の書評

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白水社さんの月刊誌「ふらんす」2017年9月号で、弊社6月刊の金澤忠信『ソシュールの政治的言説』について、加賀野井秀一さんが書評「〈一般言語学〉から遠く離れて」を寄せて下さっています。「金澤氏は10世紀の小新聞・雑誌にいたるまで実に丹念に追跡して」いると評して下さいました。また同書評では同月刊の金澤さん訳によるソシュール『伝説・神話研究』と、7月刊のロゴザンスキー『我と肉』(松葉祥一ほか訳)にも言及して下さり、弊社について「敢闘賞もの」とのお言葉を頂戴しました。『我と肉』は同誌の情報コーナー「さえら」でも書誌情報をご掲載いただいています。加賀野井先生、白水社さん、ありがとうございます。






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