『述語づけと発生――シェリング『諸世界時代』の形而上学』ヴォルフラム・ホグレーベ著、浅沼光樹/加藤紫苑訳、法政大学出版局、2021年12月、本体3,200円、四六判上製230頁、ISBN978-4-588-01134-4
『レペルトワールⅡ[1964]』ミシェル・ビュトール著、石橋正孝監訳、三ツ堀広一郎/荒原邦博/中野芳彦ほか訳、幻戯書房、2021年12月、本体4,500円、A5判上製360頁、ISBN978-4-86488-237-8
『家の馬鹿息子――ギュスターヴ・フローベール論(1821年より1857年まで)5』ジャン-ポール・サルトル著、鈴木道彦/海老坂武監訳、澤田直/黒川学/坂井由加里訳、人文書院、2021年12月、本体20,000円、A5判上製768頁、ISBN978-4-409-14068-0
★『述語づけと発生』は、かのマルクス・ガブリエルの師でドイツの哲学者、ヴォルフラム・ホグレーベ(Wolfram Hogrebe, 1945-)の主著のひとつ『Prädikation und Genesis』(Suhrkamp, 1989)の訳書。訳者による巻末解題によれば本書は、「中期シェリングの未完の遺稿『諸世界の時代』に、20世紀の英米言語哲学の知見をふまえた解釈を施すことによって、シェリング哲学の現代的意義をあきらかにすることを目的としている」。「本書はすでに現代シェリング研究の必読文献に数え入れられている」とのことです。
★「〈或るものが存在する〉というのは何を意味しているのか〔…無意味であるという〕この《嫌疑》をまぬがれうる意味などそもそもない〔…〕〈無意味である〉ということの源泉はまさに〈存在する〉ということにほかならないからである。つまり、私たちが最終的に〈ある〉ということで理解しているのは、あらゆる意味に先立つ何ものかなのである。この洞察の内についにシェリングに世界の秘密が、すなわち、〈ある〉は無意味である、という秘密があきらかになる」(12~13頁)。「ただ自己矛盾としてしかシミュレーションできないような〈ある〉の意味〔…〕が消滅するか、あるいは崩壊する瞬間に、初めて私たちは〈ある〉の意味を会得するのである。〔…〕重要なのは形而上学を復興することではなく、形而上学の危険がどれほどのものであるのかを査定するのを学ぶことなのである。というのも、形而上学の危険というのは、人類の合理性の危険なのだから。私たちがシェリングから学ぶことができるのはこのようなことなのである」(13頁)。
★「シェリングの形而上学がはなつ魅力は、彼の思想による発掘が次のような地層にまで及んでいるということに、その理由の一端がある。つまり、根という根がことごとく朽ち果てるので、そこにはもはやいかなる存在者〔本質〕も根を下ろしえない地層のことである。言いかえると、彼の発掘は理性の深淵に達している。この深淵は理性の前提である。しかしそれにもかかわらず理性はこの深淵に近づいてはならない。私たちがいまだ手に入れたことのない現代性のきらめきが、このような構想にはある。というのもシェリングは、合理主義のとなえる素朴な〈理性の楽観主義〉と相対主義のとなえる現実逃避的な〈理性の悲観主義〉の双方からひとしく距離をとっているからである」(183頁)。ホグレーベは論文単位では翻訳がありましたが、単行本としては本書が初訳となります。
★なお、東洋大学国際哲学研究センター主催のマルクス・ガブリエル連続講演会(2013年12月17日開催)での発表「シェリング『世界年代』の述定存在論」(小野純一訳、原文:Die Ontologie der Prädikation in Schellings Die Weltalter)では、ホグレーベの上記書が言及されています。動画も貼っておきます。述定というのは述語づけのことです。山口大学時間学研究所の小山虎さんによるツイートを引くと、「「述定」(じゅつてい)の簡単な説明:動詞の「述定する」は、述語を使って性質を帰属すること(だから「述語付け」とも訳される)。対象aに性質Fを述定することは「aはFである」という文によってなさるため、名詞の「述定」はこういう文を指すこともあれば、述定行為のことを指すこともある」。
★『レペルトワールⅡ[1964]』は全5巻予定、年1回刊行の第2巻。21篇を収録。hontoの単品頁で目次詳細と各訳者を確認できます。「「テル・ケル」誌への回答」で、「あなたはもともと小説家だとみなされていました。しかし〔…〕じつに多様な活動をされていて、あなたを単純に定義するのは困難です」という問いかけに対してビュトールはこう答えます。「私を単純に定義できないですって? 何よりです! それを迷惑がるのは、すでに分類済みだと思っていた作家の新作のために、再読し、分析し、考える羽目になることを何よりも厭う、レッテル貼り好きのせっかちな批評家くらいでしょう」(311頁)。そして「あなたの短期的な計画、長期的な計画は?」という問いには「私には、さらに百年分もの計画があります」(318頁)と答えます。
★「長編小説(ロマン)における個人と集団」と題されたテクストでは、言葉と社会について次のような考察が展開されています。「どんな言語もまずは対話であって、すなわち、それは孤立した個人の表現ではありえない。〔…〕私がその一員である社会は、対話の集合体であり、とはつまり、誰でも何かしらのことを(いかなることでも、ではない)他の誰に対してでもなんとか語りうるということで、この集合体は部分集合に分割され、編成されている。社会の構成員の全員に向かって、私は同じように話したりはしない」(87頁下段)。「ある個人の「言葉遣い」は、社内の内部においてその人が属しているさまざまな集団によって厳密に規定されている。〔…〕彼が自分の言うことを理解させることに成功するならば、〔…〕彼が実現した総合、創見が彼以外の人々にとっても価値を持ち、同じような人々を集め、彼らのあいだに彼は意思疎通の流儀を確立し、彼らに力を与えることになる〔…〕そうした総合ないし創見は、独創的な集団を組織し、それが社会の相貌およびその言語全体を根底から変形させるだろう」(88頁上段)。
★『家の馬鹿息子5』は全5巻の完結編。第1巻の刊行が1982年ですから約40年かけての完訳となります。原著『L'Idiot de la famille : Gustave Flaubert de 1821 à 1857』全3巻はガリマールから1971~72年に刊行されていますので、そこから数えると約半世紀後の全訳完成です。第5巻では、第Ⅰ編「客観的神経症」と第Ⅱ編「フローベールにおける神経症とプログラム化――〈第二帝政〉」が訳出され、海老坂武さんによる長編解題と、固有名詞一覧が併載されています。付録小冊子「サルトル手帖45」では、鈴木道彦さんによる「未完の魅力」、「サルトル手帖43」からの再録として海老坂武さんによる「サルトルとの一時間」が収められ、さらに1966年のサルトル来日時の日程や、写真、メモ、そして人文書院サルトル著作リストも掲出されています。
★このほか最近では以下の新刊との出会いがありました。
『メディオーム――ポストヒューマンのメディア論』吉田健彦著、共和国、2021年12月、本体2,800円、四六判上製288頁、ISBN978-4-907986-75-9
『新型コロナ〈感染ゼロ〉戦略、ニュージーランド』千種キムラ・スティーブン著、作品社、2021年11月、本体1,400円、四六判並製216頁、ISBN978-4-86182-874-4
『ソ連を崩壊させた男、エリツィン――帝国崩壊からロシア再生への激動史』下斗米伸夫著、作品社、2021年12月、本体2,600円、46判並製322頁、ISBN978-4-86182-880-5
『台湾文学ブックカフェ〈1〉女性小説集 蝶のしるし』呉佩珍/白水紀子/山口守編、白水紀子訳、作品社、2021年12月、本体2,400円、四六判並製282頁、ISBN978-4-86182-877-5
★『メディオーム』は、東京農工大学非常勤講師の吉田健彦(よしだ・たけひこ, 1973-)さんによる「存在論的メディア論」(帯文より)。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。本書の冒頭はこうです。「私たちは既にポストヒューマンとして生きている。〔…〕私たちはサイボーグ化技術やDNAハッキングが身近なものとなる遥か以前、いまから半世紀以上前に「ポストヒューマン」への決定的な一歩を踏み出していた。〔…〕「人間(ヒューマン)」から「ポストヒューマン」への移行は、単に、既に、そして避けがたく起きてしまった歴史的事実に過ぎない。では私たちが既にそうであるところの「ポストヒューマン」とは何か、そしてその移行はなぜ生じたのか。本書はメディア論の立場からそのことを明らかにしていく」(6頁)。
★「人類の営為が地質学的次元で深刻なインパクトを持つことにより、私たちはもはや予測も管理も不可能な環境を生きている。そしてその環境は、完新世的に安定した自然環境ではなく、自然と社会、人間、あるいは技術が不可分となった、まったく未知のものである」(168頁)。「人新世がその名に人を含んだものである以上、人類がいなくなったとき、はじめてこの時代区分は完了する。だとすれば人新世についての人文学的分析は、その時代区分を生み出しその中で生み出された人文学にとって、論理的困難をともなう営為となるだろう。そしてそれはおそらく、ポストヒューマンという視点からのみ解決され得る」(168~169頁)。
★「互いに貫通された者同士として、私たちは存在論的に縫い留められるし、またたとえ相手が単なるモノであったとしても、それは他者として私を貫通しうる。この縫い留められた存在の全体がメディオーム(mediome:media+ome)である」(217頁)。「動的に互いを貫通し合う構造の全体こそがメディオームである。要するにメディオームとは、この私を在らしめる時空を超えた無数の他者たちにより生成される固有の動的な場である。この私が存在することへの確証、そしてこの私と他者たちとの共同性は、メディオームの豊かさによって保証される」(218頁)。
★「この私が他者なくしては存在し得ないという原理自体は変わらない。そしてまた、この私の孤絶した矮小な宇宙の外に現実として他者が在り続けるということも変わらない。それゆえ、私たちがこの病理について正しく理解しようと思うのであれば、メディアとは何か、それが人類の共同性の営みの中でそのように他者とこの私をつないできたのかについて、改めて捉え直していかなければならない」(35頁)。「すべてがデータ化していくこの時代においてなお、私たちは無数のあらゆる他者に対する責任のなかで生きていくことができるはずだ。本書を通してその希望を共有できればと願っている」(283頁)。大書店をはじめ、目下生成されつつある「ポストヒューマン」棚にとって核心的役割を果たしうる、注目すべき一書です。
★作品社さんの発売済最新刊3点。『新型コロナ〈感染ゼロ〉戦略、ニュージーランド』は、クライストチャーチ在住の日本文学研究者で、現在は早稲田大学ジェンダー研究所招聘研究員をつとめる千種キムラ・スティーブン(Chigusa Kimura-Steven)さんによる、ニュージーランドにおける新型コロナ対策の現地報告書です。「将来のパンデミックに対応するにのも役に立つと思い、アーダーン首相と労働党政権がとった新型コロナウイルスへの対応を紹介する」(2頁)と。「科学者の意見を入れて「早期に、迅速に、厳しい」ロックダウンを実施することが、国民の生命と生活を守り、かつまた経済を守ることになる」(211頁)と著者は述べています。
★『ソ連を崩壊させた男、エリツィン』は、政治学者の下斗米伸夫(しもとまい のぶお、1948-)さんによるロシア現代政治史をめぐる一書。巻頭の「はじめに――ソ連崩壊からロシア再生への激動史」によれば、本書は「この矛盾の政治家〔エリツィン〕の政治家を通じて、現代ロシアの政治の位相を捉え直す試み〔…〕この30年間に現れた歴史史料や同時代人の回想を取り込みつつ、エリツィンとロシア再生の苦闘を再構成」(9頁)するもの。
★下斗米さんは「あとがき」でこうも述べておられます。「世界を揺るがした20世紀初めのロシア革命も、ドイツ系ユダヤ人のカール・ラデックやハーバード大出身ジャーナリストのジョン・リードが相当西側の世論に合わせて脚色したドラマであっても、実態はもっと泥臭い現象であったように思われる。こう考えるとソ連崩壊も、またきわめてアルカイックな土着的ロシアの再生であったことになる」(296頁)。古いものとの決別はどこの国でも困難なのかもしれないと、ふと思います。
★『女性小説集 蝶のしるし』は作品社さんの新シリーズ「台湾文学ブックカフェ」全3巻の第1回配本第1巻で、以下の8篇を収録。「コーンスープ」江鵝(チアン・ホー, 1975-)、「別の生活」章綠(チャン・ユアン, 1963-)、「私のvuvu」ラムル・パカウヤン(Lamulu Pakawyan, 1986-)、「静まれ、肥満」盧慧心(ルー・フイシン, 1979-)、「モニークの日記」平路(ピン・ルー, 1953-)、「冷蔵庫」柯裕棻(コー・ユーフェン, 1968-)、「色魔の娘」張亦絢(チャン・イーシュアン, 1973-)、「蝶のしるし」陳雪(チェン・シュエ, 1970-)。今後毎月1点発売で、第2巻『中篇小説集 バナナの木殺し』、第3巻『短篇小説集 プールサイド』が予定されています。