『ニュー・アソシエーショニスト宣言』柄谷行人著、作品社、2021年2月、本体2,400円、46判上製295頁、ISBN978-4-86182-835-5
『NAM総括――運動の未来のために』吉永剛志著、航思社、2021年2月、本体3,600円、四六判並製400頁、ISBN978-4-906738-44-1
『100分de名著 カール・マルクス『資本論』――甦る、実践の書』斎藤幸平著、NHKテキスト:NHK出版、2021年1月、本体524円、A5判並製144頁、ISBN978-4-14-223121-8
『ラグジュアリーコミュニズム』アーロン・バスターニ著、橋本智弘訳、堀之内出版、2021年1月、本体2,700円、四六判並製360頁、ISBN978-4-909237-43-9
『法の哲学――自然法と国家学の要綱(上)』ヘーゲル著、上妻精/佐藤康邦/山田忠彰訳、岩波文庫、2021年1月、本体1,200円、文庫判480頁、ISBN978-4-00-336302-7
★『ニュー・アソシエーショニスト宣言』は、2008年から2018年にかけて各所で行われたスピーチや講演、さらに2012年から2016年に各媒体に掲載されたテクストに、書き下ろしとなるいくつかの序文を加えて表題のもとにまとめたもの。「NAM〔ニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント〕再考」と「さまざまなアソシエーション」の二部構成で、付録として『NAMの原理』(太田出版、2001年)から「NAMの原理」「NAMの結成のために」が転載され、2002年にウェブで発表された「FA宣言」も付録に加えられています。
★巻頭の書き下ろし「序文」の書き出しはこうです。「本書は、アソシエーショニスト運動〔ムーブメント〕を検証し、その可能性をあらためて示すものである。アソシエーショニスト運動というのは、私が提起したものではない。むしろ、一般名詞である。簡単にいうとこれは、自由かつ平等な社会を実現するための運動である。アソシエーショニスト運動の歴史は長く、内容は多様である。そして、もちろん現在も存続している。私は、これは誰にでも実践できるものであり、現実のもろもろの危機への最後の砦となるものだと考えている。/私が、友人たちとともにNAMという一つのアソシエーショニスト運動の組織を発足させたのは2000年のことである。これは、私が当時雑誌に連載した『トランスクリティーク――カントとマルクス』で提示した、カントとマルクスの総合、アナーキズムとマルクス主義の総合を、実践的レベルで追及するための試みであった」(7頁)。
★「本書の第Ⅰ部は、このとき〔『社会運動』誌〕のインタビューを加筆・修正したものである。これは、組織としてのNAMの推移を振り返りながら、アソシエーション運動の歴史を検証する形になっている。第Ⅱ部は、アソシエーション運動の様々な形態に関わる、インタビューや講演を集めたものである。巻末には「NAMの原理」を、「NAM結成のために」、「FA宣言」とともに付した。これらは改訂するつもりでいたのだが、読み返してみたところ、そのままでよいと感じた。よって、ほぼ当初のまま収録することにした」(10頁)。
★「この間、アソシエーショニスト運動は、見直されてきたのではあるまいか。生産、流通、金融などの現在の諸システムの問題点が浮き彫りになったためだろう。多くの人が自給自足や地域のネットワークなどの重要性に気づき始めたようだ。〔…〕コロナをきっかけに、困難とともに、新たなアソシエーションの可能性が向こうからきた、といえるのではないだろうか」(11頁)。確かにいま、アソシエーションの重要性は再び問われています。じっさいは一度もその問いが廃れたことはなかったのだとも言えます。最後に柄谷さんが考えるアソシエーションの一端について引きますが、この発言は初出時の6~7年の時をやすやすと超えて、再読のチャンスを気づかせてくれる一節ではないかと感じました。
★「私はあらためて、超出的な対抗運動の意義を強調したいと思います。非資本主義経済を自ら創り出すことは、対抗運動として必要であるという以前に、むしろ多くの人たちにとって、生存のために必要です。つまり、リスクを避けるために。しかし、私はやはり、それを資本と国家を揚棄するような対抗運動として考えたい。/新自由主義の下で、貧富の差が広がっているといわれます。それは事実ですが、この格差が「階級闘争」をもたらすことはないでしょう。なぜなら一般的にいって、富んだほうは、支配階級というよりも「勝ち組」であり、貧しいほうはプロレタリアートというよりも、たんに「負け組」だからです。つまり、勝ち組になりたかったがなれなかった者です。彼らは子供のころからたたき込まれた中産階級の規範的意識を出られない。彼らは互いに連帯することができないし、闘うこともできない。また、そのような人たちが戦闘的になると、大概、排外主義的な運動になりがちです。それがポピュリズムです。/それに対して、非資本主義的な経済空間は、勝ち組になるための競争を放棄した人たちによって形成される。とはいえ、それは負け組ではありません。私がいうアソシエーションは、むしろそのような者たちが形成するものです。「素人の乱」の松本哉がいう「マヌケ」のような人たちが」(73頁)。
★『NAM総括』は、帯文に曰く「「資本と国家への対抗運動」はなぜ、わずか2年半の短期間で解散したのか。解散から20年、運動の最初期に加入して末期には組織中枢で実務を担当した著者が、運動の「現場」の視角から総括、問題提起する。新たな社会運動の礎となるために――」。巻末には「NAM関連年表」もあり。著者の吉永剛志(よしなが・たけし、1969-)さんの経歴には「元NAM関心系LETS連絡責任者、センター評議会事務案件議事進行」とあります。現在の肩書は、「使い捨て時代を考える会/安全農産供給センター」事務局とのこと。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。柄谷さんの『ニュー・アソシエーショニスト宣言』とほぼ刊行時期が重なったのは偶然かもしれませんが、実に良いタイミングです。
★巻頭の「はじめに」から引きます。「理論が困難に突き当たった実践の場を再構成したい。そしてその困難を実践的に克服することを目指したい。本書はそういう意識のもとで書かれている。/2000年代初頭、NAM(New Associationist Movement)という運動体がああった。小難しい理屈はいろいろついている。が、根っこにあるのは、人や自然を自分たちに都合よく食い物にすることをしない世の中を目指すということだ。そこから具体的運動を形づくろうとするシンプルなものだった。/NAMはたいしたものだった。私はそう思っている。「歴史」を意識した運動だった。また一般に思われているより広がりのある大きな運動だった。もっとも二年半で解散した。私自身は、関心系LETSの連絡責任者を経て末期のNAMセンター評議会で実務案件の議事進行をつとめた。/いろいろ困難も毀誉褒貶もあった。が、俯瞰的に見れば、ありえない奇跡的な動きだった」(7頁)。
★「言いたいことは、「政治と文学」とか「文芸への関心から政治活動家へ転身」などという既成の概念を脱し、新しい表現と活動を創設しようとするところにNAMの特色はあったということだ。さらには冷戦体制とグローバリゼーションの進展。この二つを思考し、よりましな世界をどうつくるか。それがNAMだった。だから私は柄谷行人が呼びかけたNAMに共感し参加した。/そして、このNAMの特色は決して恣意的なものではなく、歴史的な必然性に迫られてのものだったと私は思っている」(10~11頁)。
★NAMの存在理由は「平たく言えば社会的にガチガチに固定化された立場性を超えた出会いと出会いが生み出す行動を増幅させていくことにあった。/私自身はそのことの恩恵を充分に受けた。/人生もそういうものだと思うが、運動の行方は大体シビアな予測の通りになるものだ。しかし、予測を遠く飛び越えた結果が到来することがある。それは予測通りの結果になることを予測しながら、運動し続けていないと、到来しない」(11頁)。とここまで引用すると、何やら礼讃本のように思えるかもしれませんが、これらはほんの序文であって、本論ではNAMの起承転結とそれに対する解説注釈が丁寧に書かれていて実に興味深い歴史書となっています。労作です。
★『100分de名著 カール・マルクス『資本論』』は1月にNHK-Eテレで放送された、斎藤幸平さん講師による全4回講義のテキスト。『人新世〔ひとしんせい〕の資本論』(集英社新書、2020年9月)がすでに7万部を突破とのことで、注目度が高かった番組です。目次内容は以下の通り。
はじめに 人新世の危機に甦るマルクス
第1回 「商品」に振り回される私たち
第2回 なぜ過労死はなくならないのか
第3回 イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を生む!?
第4回 〈コモン〉の再生――晩期マルクスのエコロジーとコミュニズム
★斎藤さんは「はじめに」でこう書いています。「今回は、これまでの研究では必ずしも重視されてこなかった「資本主義の暴力性」に注目してマルクスの問題意識を浮かび上がらせることを主目的とします。できるだけ身近な事例を挙げながら、現代社会の問題と、ポスト資本主義の社会像を考えていきたいと思います」(11頁)。「マルクスというと、ソ連や中国のような共産党による一党独裁社会を連想する人も多いと思いますが、マルクス自身は「共産主義」とか「社会主義」という言葉をほとんど使っていません。代わりにマルクスが用いたのが「アソシエーション」という用語です」(12頁)。
★また第4回ではこう解説しておられます。「マルクスは、『資本論』第三巻の草稿に、こう綴っています。資本主義に代わる新たな社会において大切なのは、「アソシエート」した労働者が、人間と自然との物質代謝を合理的に、持続可能な形で制御することだ、と。アソシエートするとは、共通の目的のために自発的に結びつき、共同するという意味です」(108頁)。「来たるべき社会のあり方を語るときに、彼が繰り返し使っていたのは、「アソシエーション」(自発的な結社)という言葉なのです。〔…〕マルクスが目指していたのは、人々の自発的な相互扶助や連帯を基礎とした社会です」(109頁)。
★この「自発的な相互扶助」を、かの政治家が言う「自助、共助」と混同しないことが重要でしょう。斎藤さんはこうも述べています。「彼〔マルクス〕が思い描いていた将来社会は、コモン〔共有財産〕の再生に他なりません。いわば、コモンに基づいた社会、つまり、コミュニズムです。わかりやすくいえば、社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして、自治管理していく、平等で持続可能な定常型社会を晩年のマルクスは構想していたのです」(117頁)。「コミュニズムは贈与の世界といってもいいでしょう。対価を求めない「贈与」、つまり、分かち合いや助け合いの相互扶助によって、富の持つ豊かさをシェアしていこうということです」(118頁)。贈与の世界は愛の世界でもあるでしょう。奪い合うのではなく、分かち合い、与え合う世界。
★『ラグジュアリーコミュニズム』は、英国のジャーナリスト、アーロン・バスターニ(Aaron Bastani, 1984-)の第一作『Fully Automated Luxury Communism』(Verso, 2019)の全訳。「本書で提示するのは、〈第三の断絶〉が展開しはじめた世界の概略である。予想されるさまざまな危機――環境的、経済的、社会的な危機――とともに、潤沢さが可能にする新たな代案を提示したい。それを起点にして、われわれが直面している困難と潜在的には手元にある手段の両方から、ひとつの政治地図を構成することが可能になるだろう。その地図こそ「完全自動のラグジュアリーコミュニズム〔FALC〕」に他ならない」(25頁)。
★バスターニはこう続けます。「続く数章ではまず思弁的な議論を行い、そのうえで、現在の世界、あるいは現在出現しつつある世界を論じる。そこでわれわれは、自動化〔オートメーション〕、エネルギー、資源、医療、食料といった各分野における一見たがいに異質な諸テクノロジーを精査し、欠乏や労働から解放された新たな社会を作る素地が形成されつつあると結論づける。こうしたテクノロジーがどこに帰着し誰の利得に資するのかについては、一切が不確実である。しかしながらたしかなのは、こうしたテクノロジーが集団の連帯や個人の幸福へ向けた政治的企図と結びつけられたならば、そこからある素因を導き出すことができるということだ。/「完全自動のラグジュアリーコミュニズム〔FALC〕」が避けがたい未来などではなく、ひとつの政治である理由はここにある」(25~26頁)。
★斎藤幸平さんは本書の帯に推薦文を寄せておられます。「ほんとに技術革新で贅沢なコミュニズムができるの? 「脱成長コミュニズム」への挑戦!」と。訳者あとがきで橋本さんはこう解説されています。「バスターニはこの左派加速主義の見方を(部分的な留保や修正を加えつつ)継承し、素朴政治とは一線を画す、現行の資本主義を変革し未来を切り拓く新たな政治として「完全自動のラグジュアリーコミュニズム」を提唱している。/バスターニのビジョンの新しさと魅力は、資本主義への場当たり的な反発に終始してきた近年の左派運動を刷新し、すべての人々に贅沢〔ラグジュアリー〕をもたらすことを目指すという大胆さにあるだろう」(333頁)。
★『法の哲学』は全二巻(下巻は続刊予定)。帯文にある「刊行200年、初の文庫化」というのは、原著が公刊された1821年から数えたものでしょう。文庫という形態では確かに初めてです。親本は岩波書店版『ヘーゲル全集』第9a巻および第9b巻に収められた新訳本(2000~2001年刊)ということで良いかと思われます。上巻は、第一部「抽象法」と第二部「道徳」、共訳者の佐藤さんと山田さんによる「解説(上巻)」を収録。これまた帯文にある「ミネルヴァの梟は、夕暮れの訪れとともに、ようやく飛びはじめる」という有名な言葉は、序言の末尾付近で出てきます。直前の文章も読んでおいた方がいいでしょう。以下の通りです。
★「この移ろいゆく現世においては、何でもおそらく悪くゆくか、あるいはせいぜいほどほどにゆく程度であり、よりましなことなどないゆえに、この現実と和解するほかない、ということを容認するような冷めた絶望にも理性は満足しない。認識があたえるものは、現実とのより熱い平和である。/なお、世界がいかにあるべきであるかの教訓を語ることについていえば、そもそも哲学はつねに到来が遅すぎるのである。現実がその形成過程をおえ、みずからを完成させてしまったあとになって、はじめて、哲学が世界についての思想として時間のなかに現れるのである。このことは概念が教えるところであるが、また必ず歴史が示すところでもあって、現実が成熟するなかで、はじめて理念的なものが実在的なものに対峙するかたちで現れ、そして、この理念的なものがこの世界を実体において把握し、これを知性の王国の形態へと形成するのである。哲学がみずからの灰色を灰色で描くとき、灰色に灰色を重ねてみてもその形態は若返らず、単に認識されるにすぎない。ミネルヴァの梟は、夕暮れの訪れとともに、ようやく飛び始めるのである」(39~40頁)。
★この時期に『法の哲学』が入手しやすくなったのは、これまた偶然ですが、柄谷さんがマルクスとカントを結びつけることの必然的根拠である、マルクスのヘーゲル批判(「ヘーゲルの観念論を唯物論的に転倒すること」)を理解する上で、喜ぶべきことではないかと思われます。おそらく、カントとヘーゲルの戦いは終わってはいないのです。
★続いて、まもなく発売となる、ちくま学芸文庫の2月新刊4点5冊をご紹介します。
『比較歴史制度分析(上・下)』アブナー・グライフ著、岡崎哲二/神取道宏監訳、ちくま学芸文庫、2021年2月、本体1,600円/1,500円、文庫判512頁/432頁、ISBN978-4-480-51011-2/978-4-480-51012-9
『重力と力学的世界――古典としての古典力学(上)』山本義隆著、ちくま学芸文庫、2021年2月、本体1,300円、文庫判400頁、ISBN978-4-480-51033-4
『ナチュラリストの系譜――近代生物学の成立史』木村陽二郎著、ちくま学芸文庫、2021年2月、本体1,200円、文庫判288頁、ISBN978-4-480-51035-8
『考古学はどんな学問か』鈴木公雄著、ちくま学芸文庫、2021年2月、本体1,200円、文庫判 304頁、ISBN978-4-480-51037-2
★『比較歴史制度分析(上・下)』は、2009年にNTT出版から刊行された単行本の分冊文庫化。『Institutions and the Path to the Modern Economy: Lessons from Medical Trade』(Cambridge University Press, 2006)の訳書。文庫版監訳書あとがきによれば、訳者4氏が改めて訳文をチェックされたとのことです。「経済紙のゲーム理論的分析という新しい研究者アプローチを開拓しただけでなく、契約の自律的執行のメカニズムやそこでの文化に根差した予想役割など、経済社会のしくみに関する一般性のある洞察を数多く提示しており、社会科学の古典としての地位を確立している」と監訳者2氏は本書を評価しておられます。
★『重力と力学的世界』は、淡いブルーの背表紙のMath&Science枠。1981年に現代数学社から刊行された単行本の分冊文庫化で、上巻では第1章「重力とケプラーの法則」から第9章「オイラーの重力理論」までを収録。ケプラー、ガリレイ、デカルト、ニュートン、オイラーの成果が論じられます。まえがきに曰く「本書は、古典力学の形成とその外延の拡大の途上での紆余曲折、とりわけ〈重力〉をめぐる諸問題の設定と却下の諸相を再現することにより、力学的世界が何であり何をもたらしたのかを明らかにしようとしたもの」(5頁)。下巻は来月、3月発売。
★『ナチュラリストの系譜』は、1983年に刊行された中公新書の文庫化。カバー表4紹介文に曰く「本書は、ルネサンスに始まり、フランス植物学の父ツルヌフォール、ビュフォン、リンネ、ルソー、ラマルクを経て、ド・カンドルにいたるまで、偉大なナチュラリストたちの情熱に満ちた生涯と業績」を追う一冊。文庫版解説は植物学者の塚谷裕一さん。「本書タイトルにあるナチュラリストとは、自然史(ナチュラル・ヒストリー)を追う人、という意味の言葉だ。〔…〕本書の舞台となったフランスの国立自然史博物館を訪れれば〔…〕この国で培われてきた自然史の歴史をありありと感じる。その歴史の内容を克明に知ることができる点、本書はパリ訪問に携えるのにふさわしい」と塚谷さんは評価されています。
★『考古学はどんな学問か』は、2005年に東京大学出版会から刊行された単行本の文庫化。文庫化にあたり、著者のお弟子さんにあたる櫻井準也さんによる解説「時空を超えて考古学のおもしろさを究める」が掲載されています。櫻井さんは次のように紹介されています。「本書は、「Ⅰ 考古学はどんな学問か」、「Ⅱ 縄文文化を復元する」、「Ⅲ f歴史考古学の広がり」の三部で構成されている。このうち、Ⅰ部では考古学がどのような学問であるのか、主に一般読者に向けてわかりやすく開設され、Ⅱ部では著者が長年にわたる縄文時代研究で実践してきた研究の成果が示され、Ⅲ部では歴史考古学という著者が1980年代以降に取り組んだ研究分野に関する論考が掲載されている」。
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