『哲学探究』ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳、講談社、2020年11月、本体2,800円、四六判上製546頁、ISBN978-4-06-219944-5
『入門フリーメイスン全史――偏見と真実』片桐三郎著、文芸社文庫、2020年10月、本体1,000円、A6判並製300頁、ISBN978-4-286-22116-8
★『哲学探究』は、藤本隆志訳(大修館書店『ウィトゲンシュタイン全集8』、1976年)、黒崎宏訳(産業図書『『哲学探究』読解』、第1部1994年、第2部1995年、合本版1997年)、岡沢静也訳(岩波書店、2013年)に続く4番目の新訳。底本は2009年にブラックウェルから刊行されたP・M・S・ハッカーとヨアヒム・シュルテの編纂による独英対訳の改訂第4版。「この版においてはじめて第一版のテキストに対して様々な実質的変更が加えられ、アンスコムの英訳にもいくつかの修正が施されました」と「訳者解説」にあります。なお直近の丘沢訳の底本は第一部がヨアヒム・シュルテ編纂による2003年刊のズーアカンプ版で、第二部がブラックウェルの第2版3刷(1967年)でした。
★鬼界さんは「訳者まえがき」で今回の翻訳の動機と意図について次のように明かしておられます。「この書物にはすでに三つのすぐれた翻訳があります。にもかかわらず、今回あえて『探究』の新しい訳を出すのは、読者が『探究』という作品の全体像に触れることができるような翻訳を提供したいと思ったからです。読者が個々のテキストを読みながら、常にそれが『探究』全体とどのようにつながり、『探究』というウィトゲンシュタインの思想的宇宙のどこに位置しているのかを意識できるような翻訳を提供したいと考えて、この翻訳を手掛けました」(5頁)。帯文に曰く今回の新訳は「章立て・見出しを付し、その哲学の構造を明らかにした」と。凡例によれば章立てや見出しはすべて訳者によるものです。
★例えば有名な断片309「哲学における君の目的は何か? ――蠅に、蠅取り壺からの出口を示すことだ」(219頁)は、パートⅢ「心とその像をめぐる哲学的諸問題」、第九章「感覚――誤った文法像とパラドックス」、(f)「「感覚」に関する誤った文法像と感覚のパラドックス」、(f3)「感覚語を巡る誤った文法像とパラドックス」に属しています。章の冒頭に置かれた訳者注記によれば「本章の考察の核心は、感覚概念に関して我々の中に深く刻み込まれている誤解の分析と、それに由来する哲学的問題の解消である。その誤解とは、「痛み」に代表される感覚語とは、我々の内的な体験の名である、という感覚語の文法に関する誤解である」(190頁)。
★『入門フリーメイスン全史』はアムアソシエイツより2006年に刊行された単行本の文庫化。文庫化にあたり巻末に橋爪大三郎さんによる解説「正統フリーメイスン論の原点」が加えられています。著者の片桐三郎(かたぎり・さぶろう:1925-2018)さんは、米国海軍で事務方として奉職後、横浜のファー・イースト・ロッジにて入会。日本コカ・コーラで取締役として働いたり海外の会社社長を務めたのち、日本グランド・ロッジのグランド・マスターに2004年に就任されました。本書は就任後に刊行したものです。「日本では一般に公開されていない情報にも言及」(カバー表4紹介文より)があり、歴史的資料として重要です。
★「本書の執筆にあたっては、わが国の国内で出版されているフリーメイスン関係の資料にはほとんど信頼できるものが見当たらないので、主として海外で学問的に正当性が認められ信頼できる資料を中心とし、これに加えてフリーメイスンには直接の関連はないが、日本の先人の手になる信頼できる記録や資料に従って、今日入手できるかぎり最も真実に近いと考えられる情報に基づいて、読者の知的興味に訴えたつもりです」(5頁)。ちなみに本書でも明かされていますが、日本人のメイスン第一号はかの西周(にし・あまね:1829-1897)です。文芸社文庫は時としてこうした特異な書目を出して、たちまち品切になったりするので、急いで買っておくのが吉です。
★このほか以下の注目新刊がありました。
『クリスタル☆ドラゴン 第30巻』あしべゆうほ著、ボニータコミックス:秋田書店、2020年11月、本体454円、新書判並製178頁、ISBN978-4-253-26005-3
『恐怖と奇想 現代マンガ選集』川勝徳重編、ちくま文庫、2020年11月、本体800円、文庫判354頁、ISBN978-4-480-43677-1
『ツイッター哲学――別のしかたで』千葉雅也著、河出文庫、2020年11月、本体780円、文庫判216頁、ISBN978-4-309-41778-3
『はじめてのスピノザ――自由へのエチカ』國分功一郎著、講談社現代新書、2020年11月、本体860円、新書判184頁、ISBN978-4-06-521584-5
★『クリスタル☆ドラゴン 第30巻』は1年9か月ぶりの続巻。アリアンロッドとバラーとの最終決戦前夜に射す様々な彩りが、異様にゆったりとした流れのなかであちこちに浮かび上がってきます。すべての道具立ては揃っているように見えますが、終幕の困難を感じさせるものがあるようにも感じます。
★『恐怖と奇想』はシリーズ「現代マンガ選集」全8巻の最新刊。どの作品も印象的ですが、小松崎茂さんの「関東大震災」(1975年9月)は著者の体験に基づいており、未来への警告が胸に鋭く刺さります。シリーズは残すところあと1巻、来月発売の、恩田陸編『少女たちの覚醒』のみとなりました。
★『ツイッター哲学』は2014年の単行本の改題文庫化で、巻頭の「はじめに」によれば「2019年までのツイートを加え、全体的に配列を再検討し、テーマを立てて章を分けました。また読みやすさを考え、元ツイートの語句を若干修正したところもあります」とのことです。書名の正副題が文庫では逆順になっています。今春文庫化された『勉強の哲学 増補版』(文春文庫、2020年3月)への多彩な補助線として読むこともできると思います。巻末解説は小泉義之さんによる「〈あいだ〉の秘密、〈あいだ〉の苦闘」です。
★『はじめてのスピノザ』はNHK特番「100分de名著」のテキスト『スピノザ『エチカ』――「自由」に生きるとは何か』(NHK出版、2018年)に書き下ろしの新章やあとがきを加えて、全体を再構成したもの。第五章「神の存在証明と精錬の道」が新章です。「哲学が研究の場に閉じ込められるようなことは断じてあってはなりません。哲学を専門家が独占するようなことも断じてあってはなりません。哲学は万人のためのものです」(あとがき、180頁)という明確な断言が印象的です。
★また、最近では以下の新刊との出会いがありました。
『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』國分功一郎/熊谷晋一郎著、新曜社、020年11月、本体2,000円、4-6変判並製432頁、ISBN978-4-7885-1690-8
『同意』ヴァネッサ・スプリンゴラ著、内山奈緒美訳、中央公論新社、2020年11月、本体1,800円、四六判上製240頁、ISBN978-4-12-005353-5
『世界のどんぐり図鑑』徳永桂子著、原正利解説、2020年11月、本体6,800円、A4変判上製192頁、ISBN978-4-582-54263-9
『われらが〈無意識〉なる韓国』四方田犬彦著、作品社、2020年11月、本体2,700円、四六判上製320頁、ISBN978-4-86182-829-4
『つげ義春――「ガロ」時代』正津勉著、作品社、2020年11月、本体2,200円、四六判上製224頁、ISBN978-4-86182-828-7
★『〈責任〉の生成』は巻末特記によれば「2017年7月から2018年4月まで4回にわたり、「中動態の世界をめぐって」および「中動態の世界から考える」と題して行われた対談(於・朝日カルチャーセンター新宿)と、2018年11月に行われた講義(於・東京工業大学、本書序章)をもとに大幅に加筆修正を施し、再構成したもの」。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。第一章「「意志」と「責任」の発生」から印象的な一節を引きます(154~155頁)。
國分 〔…〕スピノザにおいては、真理は自分で体験しなければならない。真理は体験の対象として捉えられているのですね。
熊谷 まさに当事者研究で言うところの「ディスカバリー」ですね。
國分 なるほど。またそれは本来、日常的に僕らが経験していてなんとなくわかっていることでもあると思うんです。でも、今の僕たちの言語がそれに向いていないということがある。僕たちの言語ではスピノザの言っていることがうまく理解できないと言ってもいい。その意味ではスピノザ哲学は当事者研究によって再発見されつつあると言ってもいいかもしれませんね。
熊谷 それはすごい!(笑)
國分 このシンクロは本当にすごいんです。(笑)
★『同意』は、フランスの名門出版社ジュリヤールの編集者で作家のヴァネッサ・スプリンゴラ(Vanessa Springora, 1972-)の自伝『Le consentement』(Grasset, 2020)の訳書。今年1月に刊行されてから20万部を超えるベストセラーとなり、ジャン=ジャック・ルソー賞(自伝部門)を受賞したといいます。訳者あとがきに曰く「本書はスプリンゴラが14歳から1年余りにわたって、当時50歳であった作家Gと性的関係にあった体験を、30年の時を経て告白したものである」。Gとはフランスの作家ガブリエル・マツネフのこと。マツネフとの関係が耐え難くなったヴァネッサがマツネフの友人であったエミール・シオランを訪問し相談した際のエピソードはただただ痛ましいです。70年代末に実際にあった、とある事件に関する公開状や嘆願書に署名した作家や思想家たちの豪華な行列への言及についても、忘れるべきではないと感じます。
★『世界のどんぐり図鑑』は、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカの代表的な132種のどんぐりを約1000点の細密なイラストで紹介するもの。オール・カラーのイラストの数々は写真よりも親しみやすく、温かみを感じます。「どんぐりの仲間はブナ科に属し、世界に8~10属ありますが、日本のあるのは5属」(まえがきより)とのことで、徳永さんの前著『日本どんぐり大図鑑』(偕成社、2004年)とともに、植物図鑑が好きな方にお薦めしたい一冊です。
★最後に作品社さんの11月新刊より2点。『われらが〈無意識〉なる韓国』は、後記によれば「2000年から2020年までに韓国について書いた文章から約半数のものを選んで、本書を編んだ」とのこと。目次を数え上げると、書き下ろしを含め30篇が収録されています。本書の書名は、四方田さんの最初の韓国論集『われらが〈他者〉なる韓国』(PARCO出版、1987年;平凡社ライブラリー、2000年)と対になるものとのことです。四方田さんの実体験をもとにしたエッセイの数々は媚びでも嫌悪でもなく、味読に値するものばかりです。
★『つげ義春』は「いっとき湯治巡りをともにするなど、かなり親密にしてきた」(12頁)というベテラン批評家による、つげ義春論。「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」をはじめとする「ガロ」誌での代表作16篇が俎上に載せられています。もともとはウェブマガジン「neoneo」で連載されていたものを大幅に改稿したものとのこと。第四章で「峠の犬」を論じる際に、柳田國男「峠に関する二、三の考察」や、真壁仁の詩篇「峠」が、つげさんの年譜や回想と渾然一体となって引かれて、そのフォークロア的世界観が説明されるくだりには強い感銘を覚えました。