『わたしたちがこの世界を信じる理由――『シネマ』からのドゥルーズ入門』築地正明著、河出書房新社、2019年11月、本体2,700円、46判上製256頁、ISBN978-4-309-24936-0
『柳田國男全自序集Ⅰ』柳田國男著、中公クラシックス、2019年11月、本体1,800円、新書判272頁、ISBN978-4-12-160184-1
『柳田國男全自序集Ⅱ』柳田國男著、中公クラシックス、2019年11月、本体1,800円、新書判272頁、ISBN978-4-12-160185-8
『窓展――窓をめぐるアートと建築の旅』東京国立近代美術館編、平凡社、2019年11月、本体2,500円、B5判並製206頁、ISBN978-4-582-20718-7
★『わたしたちがこの世界を信じる理由』はまもなく発売(14日予定)。築地正明(つきじ・まさあき:1981-)さんの初めての単独著です。宇野邦一さんは推薦文で「映画論をはるかに超えて『シネマ』の深さを探索する読みにうたれた」と評価されています。目次は以下の通り。
序
第一章 仮構作用と生
一 巨人の製造
二 ヒトラーと神話
三 「仮構作用」のマイナーな使用法を発明すること
第二章 映画と二十世紀の戦争
一 大戦という断絶
二 断絶の内側で
三 「記憶」概念の変容
四 異常な運動
第三章 記憶と忘却、そして偽の力
一 記憶と仮構
二 言葉、偽の力と記憶
三 有機的な体制と結晶的な体制
四 「偽の力」の理論へ
第四章 真理批判――裁きと決別するために
一 真正な語りと「判断の体系」
二 ニーチェ主義――「裁きの体制」との戦い
三 善悪の判断から、良いと悪いの評価へ
四 超越的な裁きから内在的な正義へ
第五章 自由間接話法と物語行為
一 新たな物語の構築へ向けて
二 現実と虚構の対立を乗り越えるために
三 現代映画の使命
第六章 民が欠けている
一 何をもって「マイナー」と呼ぶか
二 民が欠けているとは
三 語る行為による抵抗
第七章 言葉とイマージュの考古学
一 言語と非言語の境
二 イマージュと言葉
三 考古学
四 抵抗――出来事を創造すること
第八章 精神の自動人形のゆくえ
一 映画の自動運動
二 精神の自動人形の二つの極み
三 この世界を信じること
結論 この世界を信じる理由――ユーモアと生成
注
あとがき
★「序」の冒頭より引きます。「二十世紀後半を代表する哲学者のひとり、ジル・ドゥルーズ(1925-1995)は、もうひとりのフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの主著、『物質と記憶』(1896年)に依拠して、『シネマ1』(1983年)と『シネマ2』(1985年)を書いた。タイトルが示すとおり、「映画」についての研究書である。しかしそれらは、極めて多彩な要素から成り立っており、「映画」という一ジャンルに関する考察と呼ぶには、あまりにも広範なテーマと問題群を扱っている。しかも驚くべきことに、『シネマ』において「映画」は、ほとんど「世界」の別名であるかのように、そして「映画」を論じることは、そのままこの「世界」について論じることでもあるかのように、論述が展開されているのである。とはいえ、ドゥルーズは「映画」と「世界」を同一視しようとしているわけでも、両者を単純に関連づけようとしているわけでもない。ドゥルーズはむしろ、両者の変更関係を、互いへの還元不可能性を強調する。そして映画の意義は、「イマージュ」を通じて、この「世界」を信じる理由を生み出すこと、創造することにあると述べることになるだろう。しかしそれには、もはや人々がこの世界を信じていない、という事態が前提となるはずである。すると、なぜそうなってしまったのかが、併せて問われなければならないだろう。この世界を信じるとは、そもそも何を意味し、どのような問題を孕んでいるのか。これらすべての問いは、二十世紀の映画史と世界史が交差しながら進展していく過程と、実は密接に関連している。ドゥルーズは、映画における古典時代を、主に第二次世界大戦よりも前に位置づけ、他方で大戦後の映画のあるものを、「現代映画」として規定している。そして両者のあいだには、深い亀裂が走っていると考えるのである」(7~8頁)。
★「戦争を境に、何かが決定的に変わってしまったのだとドゥルーズは見ていた。後でまた触れるが、ドゥルーズは『シネマ』全編を通じて、具体的な作品の比較考察によって、その〈何か〉を繰り返し描写している。/その一つに、それまで映画の主題として扱われることの非常に少なかった、「マイノリティ」の存在が、戦後になって次第に可視化されていったことが挙げられる」(9頁)。「注意すべきなのは、「マイノリティ」が、新たなファシストへと生成する危険を、常に伴った存在だという点である。〔…〕ドゥルーズによれば、革命家とテロリストとの、解放者とファシストとの見分けがつかなくさせる識別不可能性のグレー・ゾーンというものがあるのだ。おそらく「現代映画」の重要な意義のひとつは、そうしたことを身をもって証明してみせた点にある(ゴダール、ローシャ)。〔…〕ドゥルーズの読者は、彼のテクストを前にする時、この両義性のうちに身を置き、絶えずそのあいだを縫って進まなければならない」(10頁)。
★昨夏、福尾匠(ふくお・たくみ:1992-)さんが上梓したデビュー作『眼がスクリーンになるとき――ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社、2018年7月)がやはり『シネマ』の鋭利な読解で話題を呼んだことは記憶に新しいです。今年もまた『シネマ』を契機にした新鋭のデビュー作が登場したことになります。なお、9月末に発売となった平倉圭(ひらくら・けい:1977-)さんの第2作『かたちは思考する――芸術制作の分析』(東京大学出版会、2019年9月)の第8章「普遍的生成変化の〈大地〉――ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』」でも『シネマ』が扱われていることは周知の通りです。
★『柳田國男全自序集』全2巻は、明治35年の『最新産業組合通解』から昭和36年の『海上の道』までの序文、附記、解題、などをまとめた、オリジナル編集版。「著作活動60年、著書101冊/全業績を一望する自著解題」と帯文に謳われています。第Ⅰ巻巻頭の解説「柳田國男による柳田國男」は佐藤健二さんによるもの。「解説を書くために、あらためて柳田國男の自序を読んだ。そのいくつもが、ねたましいほどにうまい」(9頁)と佐藤さんは冒頭でお書きになっています。「序の文でありながら、それ自体がひとつの作品となって、主題の曲折を、叙情ゆたかに描き出している。構え組み立ての格調は高く、落ちついた声で低く語られる案外の一節が、世の風潮や無自覚への切れ味のよい論評としてひびく。なかなか、こういう序を書ける学者はいない」(同頁)。
★『窓展』は同名の展覧会(東京国立近代美術館、2019年11月1日~2020年2月2日;丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、2020年7月11日~9月27日)の巡回展公式カタログ。同展はその名の通り、「マティスやクレーの絵画から現代美術まで、窓に関わる多様な美術作品を一堂に集め」たもの(主催者の「ご挨拶」より)。「また建築家の貴重なドローイングも展示し、ジャンルを横断して広がる窓の世界をご紹介します。東京国立近代美術館の前庭には建築家、藤本壮介の大型コンセプト・モデル〔「窓に住む家/窓のない家」〕も出現します」(同)。カタログは英文表記。一見、ごく平凡な主題のようにも思えますが、写真、油彩、水彩、版画、ドローイング、シルクスクリーン、ミクストメディア、動画、インスタレーション、等々、多彩な作品群には飽きることがありません。一冊の本として密度と美を備えつつまとまっていることにも魅了されました。巻頭に古代から現代に至るまでの「窓と建築の年表」、巻末には2篇の論考、蔵屋美香さんの「窓からの眺め、リミックス」と、五十嵐太郎さんの「ピクチャー=ウィンドウ論――絵画とは窓である」が掲載されています。
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