★同じ時期に刊行された新刊書籍どうしには、偶然とも必然とも言いがたい響き合いが生じるときがあります。それは隠された鍵であり、もともと著者が外部へと向けて風穴を開けていることの証左でもあれば、読者側が磁場を作動させてしまう場合もあります。今回の場合、千葉雅也さん、中沢新一さん、サミュエル・ベケットのテクストに、互いを引き寄せ合う何かを感じました。
「デッドライン」千葉雅也著、『新潮』2019年9月号所収、新潮社、2019年8月(本体907円、A5判並製396頁、雑誌04901-09)、7~77頁
『レンマ学』中沢新一著、講談社、2019年8月、本体2,700円、四六変型判上製482頁、ISBN978-4-06-517098-4
『マロウン死す』サミュエル・ベケット著、宇野邦一訳、河出書房新社、2019年8月、本体2,700円、46判上製212頁、ISBN978-4-309-20779-7
★千葉雅也さんの初めての小説作品「デッドライン」が文芸誌「新潮」2019年9月号に掲載されています。目次に記載されている紹介文は以下の通りです。「線上で僕は悩む。動物になることと女性になることとの間で。哲学者から小説家への鮮やかな生成変化。21世紀の『仮面の告白』、誕生!【230枚】」。作品名のリンク先で最初の一部を立ち読みすることができます。とても第一作とは思えないほどの見事な、魅力的な作品です。デビュー作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、2013年;河出文庫、2017年)の前日譚として読むことができます。この作品の魅力と仕掛けは、おそらく千葉さんの人生の振り幅の分だけ存在しており、既刊書で表出されてきた様々な側面は今回の小説と見事に連環しているように思われます。この作品は時間軸に沿って展開するというよりは、過去と現在と未来が折りたたまれた水晶を覗き込むような印象を読者に与えます。60頁から61頁に掛けては、主人公の僕が語る物語の海面がめくれ上がるようにして友人知子が主語として浮上する場面があります。この何気ない特別さ。本作が三島由紀夫にとっての『仮面の告白』に似た意義を帯びるとすれば、千葉さんにとって「デッドライン」はひとつの「生の回復術」たりうるでしょうか。第二作が今から待望されるのも当然だろうと感じる快作です。
★「いま僕の円環はほどけ、僕は振動する線になって伸びていく。上昇し下降し、ある高さに留まり、途切れては再開する。/僕はときに向こうへと飛び越えそうになりながらも、線の手前でただ自転していた。そのバランスが崩れた。それが崩れた先でできることは何か。それは今度は、僕自身が線と一致することだ。外から与えられた線に対して程よい距離を測り続けるのではなく。泳ぎを楽しむ魚のすばやいカーブのような線になる。/僕は線になる。/自分自身が、自分のデッドラインになるのだ」(77頁)。音楽的という以上にこれは音楽なのでしょう。
★『レンマ学』はあとがきによれば、「『チベットのモーツァルト』に始まる三十年以上も続けられてきた私の探究のたどりついたひとつの山頂を示している」もので、「『レンマ学』の第一部をなす」、いわば到達であると同時に始まりでもある一書です。「その間に続けられたさまざまな訓練、読書、旅、問題の所在場所の位置測定、登頂ルートの検討と決定、装備の点検などをへて、私は一人でベースキャンプを出て山頂に向かった。しかしヒマラヤ地帯を歩いた経験からよく知っているのだが、山頂と思ってたどり着いてみると、そのむこうにはさらに巨大な山塊が聳えているのである。本書がたどりついた山頂なども、もっと巨大な山塊の小さな前山にすぎないのであろう。この「あとがき」を書いていても、私には自分の前にくっきりとその姿をあらわしているその「類推の山」(ドーマル)が見えている。この山は知的世界のグーグル地図にもまだ載っていない。しかもその山は想像以上に遠くにある」(457頁)。「とりとめもないほどに多様に思われたさまざまな助走路が、この道のまわりに集合して意味ありげな枝道として互いに結び合うようになった。私は日本人による創造を待っている新しい知的体系というものを探し求め続けてきたが、それに確実に手を掛けたという実感をこの時〔2016年度の南方熊楠賞授賞式講演の準備中〕持つことができた」(458頁)。
★「対称性が働きだすと、ロゴス的知性のつくりだしている「全順序」の構造は壊れてしまう。意識的思考にとってきわめて重要な時間における順序構造が壊れると、過去、現在、未来という時間の線形秩序が壊れてしまう〔…〕。無意識がむき出しの状態で意識を働きを圧倒しだすと、空間の中の点の順序も失われてくる。そうなると空間性じたいが失われていく。運動は時間の中で起こる空間的な場所の置き換えであるから、空間と時間が対称性無意識の働きによって失われると、運動そのものも消えていくことになる」(174頁)。
★『マロウン死す』(原著1951年刊)は、『モロイ』(こちらも原著1951年刊)に続く、ベケット没後30年個人訳三部作小説の第2弾。帯文に曰く「黒いユーモア、根深いペシミズム、そして小鳥の歌のような祈り――「小説三部作」の2作め」。投げ込み栞には、高橋悠治さんによる「声は色褪せ」と、金氏徹平さんによる「風のない夜は、私にとってまた別の風」、の2篇を収めています。宇野さんは訳者あとがきで次のように述べています。「『モロイ』に続けて書かれる『マロウン死す』で、物語を位置づける時空の観念は、もっと不連続で、しばしば唐突に切断される。基底の時間は、話者が自分の死に挑む時間に設定されている。その話者はおよそ三万日生きたとか、年齢は九十あるいは四、五十代であるとも、いい加減に書かれる。時間の観念などないに等しいが、死または終わりの観念ならば確かにある。しかし死はもちろん体験しえない出来事である(それなら生は体験しうるのか?という問いが当然わきあがってくる)。語り手の思考は、体験しえない死をめぐり、死の前のそのまた前の時間のなかにあるしかない。〔…〕〈臨死〉の時間を引き延ばし、加工し、仮構することができるのはベケットの言葉、語り手に託された思考だけである」(198頁)。
★ベケットは末尾付近でこう書いています。「この陰鬱な体たちの絡みあい、それが彼らだ。闇のなかでもはや彼らはひとつのかたまりにすぎない。黙ったまま、ほとんど見えない。たぶんたがいにしがみついている、頭はケープのなかで何も見えない。彼らは湾の遠くにいる、レミュエルはもう漕ぐのをやめ、オールは水のなかを滑っていくだけだ。夜は不条理にちりばめられ」(191頁)。この場面の、死の影をまとった暗さと、千葉さんの「デッドライン」の冒頭と末尾で描かれる、男たちの活力に満ち溢れた肉体と動きを包む闇の暗さとの、対比あるいは表裏一体。
★このほか、以下の新刊と既刊に注目しました。ヴァシェ、ペソア、レーヴィは、彼らが実存主義と分類されることはないかもしれませんが、生の苦悩と死を見つめた思索者であり書き手として、広い意味で20世紀の実存思想の星座を輝かせる、不可欠の存在ではないかと感じます。
『戦時の手紙――ジャック・ヴァシェ大全』ジャック・ヴァシェ著、原智広訳、河出書房新社、2019年8月、本体3,400円、46判上製248頁、ISBN978-4-309-20778-0
『不安の書【増補版】』フェルナンド・ペソア著、高橋都彦訳、彩流社、2019年8月、本体5,200円、四六判上製688頁、ISBN978-4-7791-2604-8
『プリーモ・レーヴィ全詩集――予期せぬ時に』プリーモ・レーヴィ著、竹山博英訳、岩波書店、 2019年7月、本体2,800円、四六判上製272頁、ISBN978-4-00-061353-8
『ラカン――反哲学3 セミネール 1994-1995』アラン・バディウ著、ヴェロニク・ピノー校訂、原和之訳、法政大学出版局、2019年8月、本体3,600円、四六判上製356頁、ISBN978-4-588-01100-9
★『戦時の手紙』はまもなく発売。既訳には『戦場からの手紙』(神戸仁彦訳、ゴルゴオン社、1972年;夢魔社発行、牧神社発売、1974年;村松書館、1975年)などがありましたが、久しぶりの新訳です。帯文はこうです。「シュルレアリスム誕生の霊媒者にして永遠の反抗者、23歳で自殺した伝説の詩人ジャック・ヴァシェ、100年目に降臨」。100年目というのはヴァシェ(Jacques Vaché, 1895-1919)の没年から数えてです。ヴァシェの手紙は今回初めての「ほぼ全訳」とのこと。目次は以下の通り。
はじめに|原智広
戦時の手紙 1915-1918
ジャンヌ・デリアンの証言|ジャンヌ・デリアン
アンドレ・ブルトンの証言|アンドレ・ブルトン
手紙|ジャック・ヴァシェ
小説「血濡れの象徴」|ジャック・ヴァシェ
詩「蒼白なアセチレン」|ジャック・ヴァシェ
自殺に関するアンケート|「シュルレアリスム革命」誌2号、1925年、バンジャマン・ペレ/ピエール・ナヴィル編集
ジャック・ヴァシェの召喚|原智広
ジャック・ヴァシェ年譜
ジャック・ヴァシェに関する書籍
あとがき|原智広
★「自殺に関するアンケート」(141~191頁)は初訳です。問いはこうでした。「自殺はひとつの解決であるか?」。回答者は以下の通り。フランシス・ジャム、ジョゼフ・フロリアン、ピエール・ルヴェルディ、レオン・ピエール=クイント、アンドレ・ルベー、モーリス・ダヴィド、フェルディナンド・ディヴォワール、M・J・ポトー教授、ゴロディシュ博士、ギヨ・ド・セ、ジョルジュ・フレスト、レオン・ウェルト、ルイ・ド・リュシー、ルイ・バストール、ジョルジュ=ミシェル、ポール・ブラッシュ、ピエール・ド・マソ、ジョルジュ・デュヴォー、L・P、クロード・ジョンキエール、ポール・レシュ、フロリアン=パルマンティエ、フェルナンド・グレーグ、ミシェル・コルデー、ミシェル・アルノー、ボニオ博士、レオン・バランジェ、ジョルジュ・ポルティ、マルセル・ジュアンドー、ジャン・ポーラン、モーリス・ド・フルーリー博士、ポール・ルセーヌ教授、クレマン・ヴォーテル、ジャック・ヴァシェ、エ・ラッブ、バンジャマン・コンスタン、ジェローム・カルタン、セナンクール・オーベルマン、フィリップ・カザノヴァ、イヴ・グジャン、アンドレ・ビアーヌ、マキシム・アレクサンドル、アンドレ・ブルトン、アントナン・アルトー、ヴィクトール・マルグリット、ジョルジュ・ベシエール、ピエール・ナヴィル、ルネ・クルヴェル、M・E・テスト氏、アルノルト・バーグレイ、マルセル・ノル。アルトーの回答の出だしが印象的です。「いいえ、自殺は未だひとつの仮説にすぎない」(169頁)。
★ヴァシェは手紙でこう書いています。「薄汚い泥のような国家の統治は絶対的で、誰も反論を許さない。腐ったマヨネーズのような臭い、肢体から大量の腐った液体が滲み出る。少しでも耳を傾ければ、あなたたちの水面下では意味空疎な歌声が響き渡る、なんてひどい有様だ! どいつもこいつも綺麗ごとを歌っている。人々は瓦礫の中で片輪になりもがいている! 住居は粉々に潰され、人々は殺され、衰退している。これが進歩だって? 生活を改善するって? 火事の最中で火傷を負い、ひりひりする感じだ。見ろよ、こいつが「革命」ってやつさ! 実に見事なものだ。黙示録の契りの中で、よりよい都合がよりよい状況を生み出す、戦争という神像を崇めるものどもに天罰を下すために遣わされた仲介者が、あなたたちのおつむの中に湧いてくる、創世記に交わされた業という名の契りだ」(75頁)。訳者の原智広(はら・ともひろ:1985-)さんによる「ジャック・ヴァシェの召喚」はいわゆる訳者解説ではなく、ヴァシェの憑依によって成ったと言うべきテクストです。
★『不安の書【増補版】』は、2007年の新思索社版『不安の書』に、同書の底本であるクワドロス版(1986年)と重複していないピサロ校訂版(2010年)の断章6篇を選んで訳出し、増補分(621~633頁)として加え、合計466篇の断章を提示するもの。新思索社版は版元の廃業のため入手不可能になっていたので、今回の再刊は驚きであるとともに喜ばしいものとなりました。同書の抄訳版には、澤田直さん訳による『不穏の書、断章』(思潮社、2000年;新編、平凡社ライブラリー、2013年)があります。澤田さんは同書に添えた「止みがたき敗北への意志――ベルナルド・ソアレス著『不穏の書』解題」で、「ソアレスの反デカルト的言辞には、実存主義の背景にある世界への不安を先取りするものも見え隠れする」と指摘しておられます。
★「世界は感じない人間のものだ。実用的な人間になるための本質的な条件は感性に欠けていることだ。生活を実践する上で大切な資質は行動に導く資質、つまり意志だ。ところが、行動を妨げるものがふたつある。感性と、結局は感性をともなった思考に過ぎない分析的な思考だ。あらゆる行動はその性質上、外界に対する個性の投影であり、外界は大きく主要な部分が人間によって構成されているので、その個性の投影は、行動の仕方次第では、他人の進む道を横切ったりさえぎったり、他人を傷つけたり踏みつけたりすることになる。/したがって、行動するには、われわれは他人の個性、彼らの苦悩や喜びを容易に想像できないでいることが必要になる。共感する者は立ち止まってしまう。行動家は外界をもっぱら動かない物質――彼が踏みつけたり、道から取り除いたりする石のように、それ自身動かないものであれ、あるいは石のように取り除かれるか踏みつけられるかして抵抗するすべもないまま、石と同様に動かない人間であれ――そうした物質から構成されていると見なす。/実用的な人間の最高の例は、最高の行動集中力を持ち、しかもそれを最高に重要視するので、戦略家だ。人生はすべて戦争であり、したがって、戦闘は人生の総合だ」(断章103より、188~189頁)。
★私はペソアの中に、現代人の苦悩を見る思いがします。また、自分が考えてきたこと、書き記したこと、経験したことの原型と変奏を見出します。ペソアは現代人の隣人であり続け、『不安の書』はこれからも人々の共感のもとに読み継がれるに違いありません。おそらく本書は外国文学の棚に置かれるのでしょうけれども、カフカのアフォリズムやシオランの著書などと併せて、ペソアの思索は人文書の哲学思想棚においても、その一角を占めるにふさわしい深度を持っていると感じます。
★『プリーモ・レーヴィ全詩集』の原書である、生前最後の詩集『予期せぬ時に』は、まず1984年にガルツァンティ社から刊行され、1990年に同社から増補版が刊行されています。訳書ではこの増補版の全訳に加え、エイナウディ社版『プリーモ・レーヴィ全集』(1997年、2016年)に収められた、新たに見つかった詩3篇も併せて収録している、いわば特別版です。
★1984年10月29日の作品「ある谷」から印象的な前半部を引用します(137~138頁)。
私だけが知っているある谷がある。
そこには簡単にたどり着けない、
入り口に絶壁があり、
灌木が生い茂り、隠された徒渉場があり、流れは急で、
道は見分けがたい踏み跡になっている。
多くの地図にはその場所が出ていない。
そこに続く道は私一人で見つけた。
何年も費やし、
よくあるように、何度も間違えたが、
むだな時間にはならなかった。
私の前にだれが来たのか分からない、
一人か、何人か、あるいはだれも来なかったのか。
この問いは重要ではない。
岩の表面にしるしがある、
そのいくつかは美しいが、みな謎に包まれている、
★レーヴィ(Primo Michele Levi, 1919-1987)は、『予期せぬ時に』が刊行された1984年10月当時、評論家のアントニオ・アウディーノによるインタヴューに応えてこう発言しているそうです。「詩とは限界にまで凝縮された言語であり、意味論的に豊かで、わずかな言葉が多くの意味を持つ。〔…〕私は散文で書くものには、そのあらゆる言葉に責任を持てるが、詩ではそうできない。ある種の言い方をするなら、私は詩を興奮状態で書くと明言できるだろう」(訳者解説の引用より、214~215頁)。1981年には別の評論家ジュゼッペ・グラッサーノに答えて「私は詩をある方法に則って書くことはできない……それはまったく制御できない現象だ」(同、215頁)とも。ちなみに訳者解説では、レーヴィによるツェラン評にも言及されています。レーヴィはツェランに対し、こう書いているといいます。「意味不明な不完全な言語で、死にかけている、孤立した人が発するものだ。我々が死ぬ時はみながそうであるように。だが我々生者は孤立していないので、あたかも孤立しているように書くべきではない。我々は生きている限り責任を負っている。我々は書く言葉の一つ一つに責任を持つべきで、その言葉がきちんと目標に届くようにすべきなのだ」(レーヴィ「分かりにくく書くこと」)。
★竹山さんは次のように指摘します。「レーヴィはこうして詩の内容が読者に伝わるような書き方を理想として、詩作を進めたわけだが、実際に彼の詩がすべての人に分かりやすいかと言えば、必ずしもそうではない。彼は散文で使う言葉には責任を持てるが、詩ではそうできないと言っている。それは詩が理性で制御できないものを含んでいて、そうしたものは比喩や寓意を使って表現せざるを得ないからだ。この詩集では理性の人であるレーヴィが半分に裂かれ、制御できないもう一人の自分と向き合うさまを読むことができる」(218~219頁)。興味深いことに、レーヴィの詩はツェランより遥かに理解しにくいものとなっているように感じます。上記に引用した部分はまだ想い浮かべやすい方ですが、後半部まで読むと、前半部で示されたように感じたレーヴィの内面世界が結局のところ何を象徴しているのか、はっきりとは分からなくなります。それはレーヴィの意に反して極めて暗号的です。
★『ラカン』はバディウの講義録『Le Séminaire - Lacan : L'antiphilosophie 3 : 1994-1995』(Fayard, 2013)の全訳。書名にある通り、1994年から1995年にかけて、ラカンを講じた全9講の記録です。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。バディウは巻頭の序文でこう書いています。「前世紀の50年代末以降、ラカンは私の知的道程の、必要不可欠でもあれば近づき難くもある道連れだった」(1頁)。そして第Ⅰ講冒頭ではこう宣言しています。「今年は、現代の反哲学について一昨年はじめた一連の講義の仕上げをしたいと思います。われわれは現代の反哲学を創始するニーチェの立場からはじめ、昨年はウィトゲンシュタインの立場を検討しました。そしてラカンで締めくくりということになります」(7頁)。講義の第一の課題は「どのような意味でラカンが反哲学者なのかを立証すること」であり、第二の課題は「ラカンが反哲学者というだけでなく、現代の反哲学の締め括りであると考えられうるのはなぜなのか、その理由を明らかにすること」だと表明されています。
★より大きな構想ではラカン論は次のようなバディウ自身の見取り図の中にあります。「1994~1995年度の〈セミネール〉は、最も著名な反哲学者をまさに取り上げた四部作に組み込まれている。この四部作を締めくくったのが反哲学の根本的な伝道者、すなわち聖パウロ〔『聖パウロ――普遍主義の基礎』河出書房新社、2004年〕であったのに対し、まず取り上げられたのは現代の反哲学者たち、つまりニーチェ(1992~1993年度)、ウィトゲンシュタイン(1993~1994年度)そしてラカンであり、これらの三人は古典的反哲学者の三人組、パスカル、ルソーそしてキルケゴールに対置されていた。この三人組については、おそらくいつかセミネールを行なうことになるだろう。彼らは十分それに値するし、そもそもすでに私の著作のなかで頻繁に召喚されている」(3頁)。訳者あとがきによれば、「ファイヤール社からはこの50年にわたるセミネールのうち、1983年から2013年までが順次刊行される予定であり、ラカンを取り上げた1994~1995年のセミネールは、その嚆矢として2013年に刊行されたものである」とのことです。なお、本書ではセミネール一覧も掲載されています。
★本書は、ラカンにとってのマルクスについて論及される第Ⅴ講、ジャン=クロード・ミルネールとのやり取りから成る第Ⅸ講、など、興味深い内容ばかりで、今まで日本語で読むことのできたラカン論の中でもっとも異色かつ明晰な切り口になっているように思われます。
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