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注目新刊:木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド』、ほか

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a0018105_00020518.jpg『ダークウェブ・アンダーグラウンド――社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』木澤佐登志著、イースト・プレス、2019年1月、本体1,850円、四六判並製272頁、ISBN978-4-7816-1741-1
『侵略者は誰か?――外来種・国境・排外主義』ジェームズ・スタネスク/ケビン・カミングス編、井上太一訳、以文社、2019年1月、本体3,400円、四六判上製320頁、ISBN978-4-7531-0351-5
『天然知能』郡司ペギオ幸夫著、講談社選書メチエ、2019年1月、本体1,700円、四六判並製256頁、ISBN978-4-06-514513-5



★『ダークウェブ・アンダーグラウンド』はブロガーで文筆家の木澤佐登志(きざわ・さとし:1988-)さんによる注目のデビュー作。個人的にとても楽しみにしていた一冊です。目次詳細が掲出されているアマゾン・ジャパンの単品頁では新人への洗礼と言うべきかすでに辛口の評言がいくつか寄せられています。指摘の一々はおそらくご本人も承知の上でしょう。アカデミックでもなく、サブカルでもなく、そのあわいを素早く一瞥する最初の身振りが本書であろうと感じます。その一瞥にもセンスが問われるわけで、私は書店員さんに本書を推したいです。読者が不足に思う部分は本書の参考文献を一助として自身で探査する自由がある。どこかに腰を据えて深く掘り下げる行為には、その場の磁力に絡めとられる不都合が伴うわけで、少なくとも人文書にコミットせざるをえない私としては、内容といい造本といい、書名にせよ帯文にせよ、人文書にありがちなルートからは外れていて「良かった」と思えます。木澤さんが拓いた回路は新たなルートへと発展するはずです。ちなみに分類コードは0036つまり「社会」です。ネットカルチャーを論じている以上それは常道なのですが、もちろん文芸書売場の「ノンフィクション」に置かれてもいいし、人文書売場の「現代思想」に置かれてもいいのでは、と。



★序章「もう一つの別の世界」から引用すると、本書の構成は以下の通り。「第1章〔暗号通信という「思想」〕は、ダークウェブの土台を成す暗号技術に焦点を合わせ、カウンターカルチャーが「暗号」をどのように取り扱ってきたのかを確認する。私たちはそこで、暗号空間としてのダークウェブに、かつてのサイバースペースの夢があたかも回帰するかのような事態を見るだろう。/続く第2章〔ブラックマーケットの光と闇〕、第3章〔回遊する都市伝説〕、第4章〔ペドファイルたちのコミュニティ〕は、ダークウェブという舞台に表れた様々なサイトや人物たちと、そこで起こったドラマの数々を見ていくことを通してダークウェブの光と闇を考察する。/第5章〔新反動主義の台頭〕は、新反動主義と呼ばれる、インターネット上のコミュニティを震源とする思想を扱う。新反動主義がどのようにオルタナ右翼に影響を与え、現在のインターネットの「空気」を醸成しているのかを説明する。/終章となる第6章〔近代国家を超越する〕では、インターネットの未来を考えるためにブロックチェーンを例に取り上げて論じる。思想とインターネット技術が絡み合うことで、私たちの現実社会すら根本から書き換えていくさまを幻視しようと思う。/補論では本省で取り上げきれなかったトピックを扱う。補論1〔思想をもたない日本のインターネット〕では日本におけるダークウェブの実態と日本とインターネット思想の関係を、続く補論2〔現実を侵食するフィクション〕ではインターネット・ミームという観点からフィクションと現実の関係を再考する」。関連記事に「欧米を揺るがす「インテレクチュアル・ダークウェブ」のヤバい存在感――「反リベラル」の言論人ネットワーク」(現代ビジネス、2019年1月17日付)があります。


★『侵略者は誰か?』は『The Ethics and Rhetoric of Invasion Ecology』(Lexington Books, 2016)の訳書。帯文に曰く「外来種を侵略者と読み替える「国境」の論理――それが生み出す、人間と人外の動物への「排外主義」とは何か。本書は、「人新世」や「多元的存在論」など、人間と自然の関係を再検討する諸概念・研究を手がかりに、既存の外来種論の見直しを図る人文社会科学からの応答である」。章立てと執筆者を以下に転記しておきます。


序章 種が侵略者となるとき |ジェームズ・スタネスク/ケビン・カミングス
第一章 いと(わ)しい存在の管理を超えて |マシュー・カラーコ
第二章 外来種生態学〔エイリアン・エコロジー〕、あるいは、存在多元論の探究 |ジェームズ・スタネスク
第三章 客か厄か賊か――種に印づけられた倫理と植民地主義による「侵略的他者」の理解 |レベカ・シンクレア/アンナ・プリングル
第四章 ユダの豚――サンタクルス島の「野生化」豚殺し、生政治、ポスト商品物神 |バシレ・スタネスク
第五章 帰属の大活劇――多種世界における市民権の非登録化 |バヌ・スブラマニアム
第六章 よそ者を迎えて――繁殖の脅威論と侵略種 |ケルシー・カミングス/ケビン・カミングス
第七章 楽園と戦争――アルド・レオポルドと復元生態学におけるレトリックの起源 |ケイシー・R・シュミット
第八章 根無し草の根を育てる――ピーター・ケアリーの『異星の快楽』にみられる侵略種と不気味な生態系 |マイカ・ヒルトン
原注
参考文献
訳者あとがき


★「人新世とは、人間活動が初めて生態系に傷跡を残した頃から続く時代を指す。人新世が進むにつれ、傷跡は指数級数的に規模を広げ、地球には消し去ることのできない損傷が加えられた。仮に、人びとが分かっているとしよう。集団、衆人、または個人として、意識的に、あるいは、もしかすると無意識的に、人間が自分たちのもたらしてきた過去と現在の損害を認知しているとする。となれば、自分たちの最悪の習性をまとめて他の非在来動物の身に着せるのは、どれほど気楽な話だろう。ましてそう前提することで私たちが救い主の役柄を演じられるのであればなおさらである。/非在来種に対する管理戦略が、社会の片隅で暮らす移民その他の人びとに対する警備戦略に重なるものだとすると、周縁部に生きる全ての者を結束させる、肥沃な連合の基盤が広がっているはずである。思想と学問の脱植民地化論は、おもにローラン・セザリ、フランツ・ファノン、エドゥアール・グリッサン、シルビア・ウィンターらの著作を通して形成された。脱植民地化論の中核には帝国主義への批判がある。ヨーロッパ思想の遺産を受け入れ、先住民の征服を讃えるのではなしに、脱植民地化論はワルテル・ミニョーロのいう「認識論的不服従」に関わる。米・『サイエンティスト』誌に載った2011年の特集「侵略種の思想」の中で、研究者のマシュー・チューとスコット・キャロルは記した。「認めがたいのは、深く広く根を下ろした『非在来種』という概念上の分類群を相手に、終わりも望みもない戦争を続ける頑なな態度である。それは、今となっては移入種が重要な役割を担う生態系を絶えず搔き乱す紛争となる」。この永続的な戦争を求め続ける声に対抗し、本書の各章は認識論的不服従を呼びかける」(13~14頁)。本書が注目に値する理由がこの序章の言葉にはっきりと表れていると感じます。


★『天然知能』はひょっとすると郡司さんの著作の中でもっとも親しみやすい本となるかもしれない画期的な一書。目次詳細と巻頭の「ダサカッコワルイ宣言」は書名のリンク先にある「試し読み」で見ることができます。「おしゃれなかっこよさは、自分に都合の悪いものは排除し、自分のコントロールできる範囲で、自分の世界に事物を配置することで実現されます。かっこいいは、そういった独我論的世界観、一人称的世界観に裏付けられています。かっこいい者にとって、外部なんて存在しないのです」(12頁)。「一・五人称的知性としての天然知能は、「わたし」と無関係な、それ自体として存在する「わたしの外部の実在」を問題とします。「わたし」と関係のある、「わたし」に有用なものだけで構想される、そういった世界の、外部に目を向けます。/それは最近話題の、新しい実在論や、外部の実在を構想する思弁的実在論と、密接な関係にあることが予想されるでしょう。ところがむしろ、新しい実在論の延長線上に、天然知能が位置することが示されるのです。つまり先にあるということです」(13頁)。「本書では、知覚できないが存在する、という存在様式を認める知性について、一つの理論を提案します」(同頁)。ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』が選書メチエで刊行されたのがちょうど一年前でした。再びいま私たちは新たなステージの知的刺激を本書から受け取るることになるのではないでしょうか。「世界の見方を変えてくれます」(養老孟司)、「AIみたいな人間と人間みたいなAIにあふれる社会への挑戦状」(吉川浩満)というお二人の推薦文はけっして大げさではないでしょう。


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★続いて、最近出会った新刊を列記します。


『フーコーの言説――〈自分自身〉であり続けないために』慎改康之著、筑摩選書、2018年1月、本体1,600円、四六判並製272頁、ISBN978-4-480-01674-4
『天皇組合』火野葦平著、河出書房新社、2019年1月、本体1,700円、46判並製256頁、ISBN978-4-309-02773-9
『リバタリアニズム――アメリカを揺るがす自由至上主義』渡辺靖著、中公新書、2019年1月、本体800円、新書判並製224頁、ISBN978-4-12-102522-7
『硫黄島――国策に翻弄された130年』石原俊著、中公新書、2019年1月、本体820円、新書判240頁、ISBN978-4-12-102525-8
『風土記と古代の神々――もうひとつの日本神話』瀧音能之著、平凡社、2019年1月、本体2,400円、4-6判並製246頁、ISBN978-4-582-46912-7
『大清律・刑律1――伝統中国の法的思考』谷井俊仁/谷井陽子訳解、東洋文庫893、2019年1月、本体3,600円、B6変判上製函入500頁、ISBN978-4-582-80893-3



★『フーコーの言説』はフーコーの講義録や著書の数々を翻訳し新訳してきた慎改康之(しんかい・やすゆき:1966-、明治学院大学教授)さんの初の単独著。50年代のテクストから最晩年の絶筆『性の歴史(4)肉の告白』に至るまでの思考の足取りを読み解くものです。主要目次はアマゾン・ジャパンの単品頁で確認することができます。「フーコーの言説のうちに、主体性の支えや倫理的原則を期待しても無駄である。彼の歴史研究が我々に与えてくれるのは、特定の思考や行動のための処方ではなく、「思考をそれがひそかに思考しているものから解放し、別の仕方で思考することを可能にする」ための道具である。その道具をどのように使用するのか、そしてそれによって実際に自分自身からの離脱へと導かれるかどうかは、我々一人ひとりの選択、我々一人ひとりの努力に委ねられているのだ」(258頁)。「一方では、自分自身から身を引き離すことによって、主体と真理との関係を新たなやり方で考える可能性が開かれるということ。そして他方では、人間、主体、真理をめぐる問題を、さまざまな領域、さまざまな軸のもとで扱うことによって、自分自身からのさらなる離脱へと導かれるということ。主体性をめぐる問題を、以前の自分自身とは異なるやり方で思考するにはどのようにすればよいか。自分自身からの新たなる脱出のために、主体と真理との関係をどのように問い直せばよいか。こうした二重の問いこそ、フーコーの言説全体を特徴づけることのできる優れてフーコー的な問いなのだ」(266~267頁)。



★『天皇組合』は、芥川賞作家の火野葦平(ひの・あしへい:1907-1960)さんが1950年に中央公論社より上梓した小説を、評論家の陣野俊史さんと高沼利樹さんによる解説を付して再刊したもの。帯文はこうです。「戦後の混乱期、われこそ真の天皇と名乗り出るものが続々と出現。そのひとり、虎沼天通の一かは現天皇の体位をもとめる天皇の組合結成を思い立った。戦後の風俗を背景に個性あふれる人物たちが右往左往するユーモアあふれるドタバタ劇」。本文からひとつだけ引きます。「この「君が代」は、誰のための歌か? 誰のために、自分は歌うのか? 通軒はちぐはぐな気持ちで、ただ機械のように、口だけ動かしていたが、やがて、いつの日にか、自分のために歌われる日が来る、その日のための練習をみんながやっているのだ、と考えることによって、わずかに、勇気をとりもどした。(自分のために、歌うのだ)と自得して、少し声が大きくなった。そして、天皇組合を早く結成して、所期の大目的を怱急に達成せねばならぬと、焦燥の思いが一段と強まるのである」(140頁)。


★中公新書の1月新刊から2点。『リバタリアニズム』は「中央公論」誌の連載「リバタリアン・アメリカ」(2018年4月号~2019年1月号、全10回)に加筆したもの。トランプ政権誕生後のアメリカ各地を取材し、若い世代に拡がりつつあるというリバタリアニズム(自由至上主義)の実情に迫っています。さまざまな活動家や団体が紹介されていますが、そのひとつ、ピーター・ティールから資金援助を得て設立されたNPO「シースティング研究所」が興味深いです。「人類を政治家から解放すること」を目指すという同研究所は、かのミルトン・フリードマンの孫でグーグル出身のエンジニア、パトリ・フリードマン(1976-)が会長を務めています。彼は「バーニングマン」に霊感を得て、公海上に洋上自治都市を多数つくろうとしています。「自国から自由になりたい人は大勢います。そうした人びとの受け皿になりたい」(29頁)と。「シリコン・バレーには世界や人類を本気で変えてやろうと思っている人が多くいます。「議論は止めろ、作ってしまえ」という雰囲気も好きです。ピーター(・ティール)と知り合えたのもここならでは」(29~30頁)。彼の父親はデヴィッド・フリードマン(1945-)。無政府資本主義の理論家で、『自由のためのメカニズム――アナルコ・キャピタリズムへの道案内』(勁草書房、2003年)などの著書があります。


★もう1点、『硫黄島』は「忘れられてきた硫黄列島の近現代史を再構成するとともに硫黄列島民の視点から、日本とアジア太平洋の戦前・戦争・戦後を問い直す作業である」と(vii頁)。本書には二つの目的があると言います。「一つは、硫黄列島の歴史を従来の「地上戦」一辺倒の言説から解放し、島民とその社会を軸とする近現代史として描き直すこと」(vi頁)、そして「もう一つは、日本帝国の典型的な「南洋」植民地として発達し、日米の総力戦の最前線として利用され、冷戦下で米国の軍事利用に差し出された硫黄列島の経験を、現在の日本の国境内部にとどまらないアジア太平洋の近現代史に、きちんと位置づけることである」(同頁)。「硫黄列島民が近現代の日本とアジア太平洋世界のなかで強いられてきた、激動と苦難に満ちた130年間は、「帝国」「戦争」「冷戦」の世紀であった20世紀が何であったかを、その最前線の地点から鮮烈に照らし出すことになるだろう」(vii頁)と。「軍事利用のために約75年にわたって島民全体が帰郷できない」(v頁)という現実を、国民のどれくらいが知っているでしょうか。


★『風土記と古代の神々』は日本古代史がご専門の駒沢大学教授、瀧音能之(たきおと・よしゆき:1953-)さんの最新著。「風土記から見た「記・紀」神話」と「地域の神々の神話」の二部構成。「中央政府によってまとめられた『古事記』『日本書紀』に対して、地方の国単位で編纂された『風土記』という対峙を重視し」(8頁)、「「記・紀」神話の体系を可能な限り、諸国の『風土記』の内容でカバー」し「「記・紀」神話と『風土記』の神話との間に新しい関係性を見出す」(9頁)とともに、「「記・紀」ではあまりとりあげられていない地域の神や神社について、主に『風土記』を用いて、その実像を追いかけ」(同頁)たもの。第二部の主要目次を列記しておくと、「地域の大神」「出雲の四大神と二大社」「目ひとつの鬼」「荒ぶる神――半ばを生かし、半ばを殺しき…」「カラクニイタテ神社と新羅」「古四王神社の由来」。


★『大清律・刑律――伝統中国の法的思考』は全2巻予定で、まず第1巻が発売。帯文はこうです。「前近代中国の成文法を代表する法典『大清律』のうち刑罰を定めた「刑律」を全文訳し、当時の最も優れた注釈書に基づいて解説を加えた書。中国の伝統的な法的思考がよくわかる」。第1巻では「賊盗篇」「人命篇」「闘殴篇」「罵詈篇」「訴訟篇」を収録。「闘殴篇」の「殴受業師」では「およそ教えを受けた師を暴行したならば、一般人に二等を加える。死なせたならば、斬」(306頁)と記されます。二等とは絞首刑のこと。斬は斬首刑。


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