★6月下旬から7月に発売された新刊で今まで言及できていなかった書目を列記します。
『症例でわかる精神病理学』松本卓也著、誠信書房、2018年7月、本体2,700円、A5判並製300頁、ISBN978-4-414-41644-2
『わたしは不思議の環』ダグラス・ホフスタッター著、片桐恭弘/寺西のぶ子訳、白揚社、2018年7月、本体5,000円、菊判上製620頁、ISBN978-4-8269-0200-7
『心の進化を解明する――バクテリアからバッハへ』ダニエル・C・デネット著、木島泰三訳、青土社、2018年7月、本体4200円、四六判上製712+33頁、ISBN978-4-7917-7075-5
『思弁的実在論と現代について――千葉雅也対談集』千葉雅也著、青土社、2018年7月、本体1,800円、四六判並製316+iv頁、ISBN978-4-7917-7080-9
『絶望する勇気――グローバル資本主義・原理主義・ポピュリズム』スラヴォイ・ジジェク著、中山徹/鈴木英明訳、青土社、2018年7月、本体2,800円、四六判並製507頁、ISBN978-4-7917-7086-1
『新世界秩序――21世紀の“帝国の攻防”と“世界統治”』ジャック・アタリ著、山本規雄訳、作品社、2018年7月、本体2,400円、四六判上製358頁、ISBN978-4-86182-702-0
『異議申し立てとしての宗教』ゴウリ・ヴィシュワナータン著、三原芳秋編訳、田辺明生/常田夕美子/新部亨子訳、みすず書房、2018年7月、本体6,000円、四六判上製464頁、ISBN978-4-622-08662-8
『解釈学』ジャン・グロンダン著、末松壽/佐藤正年訳、文庫クセジュ:白水社、2018年7月、本体1,200円、新書判並製184頁、ISBN978-4-560-51021-6
『山頭火俳句集』夏石番矢編、岩波文庫、2018年7月、本体1,060円、文庫判並製544頁、ISBN978-4-00-312111-5
★まずは心、意識、病いをめぐる三冊。松本卓也『症例でわかる精神病理学』は様々な精神障害の症例を精神病理学の観点から解説したもの。注目の若手による入門書で、1ヶ月足らずですでに重版がかかっています。「「精神」が物質的な身体(脳)や心理(こころ)と関係をもちながらも、「精神」と呼ぶよりほかない人間独自の領域を形づくっていることも理解できるようになるはずです」(「まえがき」iv頁)。「精神病理学が目指すのは、患者さんの主観的な体験に寄り添い、それに言葉を与えていくための手助けをすることにほかなりません」(同、v頁)。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。あとがきによれば「書き足りないことがまだ山ほどある」とのことで、続篇が期待できそうです。
★松本さんは、後段で取り上げる千葉雅也さんの対談集『思弁的実在論と現代について』に収められた、松本=千葉対談「ポスト精神分析的人間へ――メンタルヘルス時代の〈生活〉」でもこう述べています。「他者と向かい合ったときに、いったん、了解してみる、その重要性が増しているように思えます」(277頁)。「人間学的精神病理学では、その人が生きている生活世界のなかで、その人がどういうふうに存在しているのか見ていく。そこに豊かな知が生まれる可能性があるわけです」(同)。『症例でわかる精神病理学』における臨床のスタンスと同様のものを感じます。
★ホフスタッター『わたしは不思議の環』は2005年に再刊された2点、20周年記念版『ゲーデル、エッシャー、バッハ』と新装版『メタマジック・ゲーム』(ともに白揚社)以来の新刊で、完全新作としては久しぶりのもの。原書は『I Am a Strange Loop』(Basic Books, 2007)。「つまるところ、自己を自覚し、自己を発明して、蜃気楼に囚われているわれわれは、自己言及が生みだしたささやかな奇跡だ」(550頁)。「われわれ人間は〔・・・〕虹や蜃気楼に似た存在であり、自分で自分を表現する気まぐれな詩でもある。〔・・・〕時によってはことのほか美しい詩なのだ」(550~551頁)。探せば探すほどバラバラになり中心が希薄となる「私」という意識をめぐる、この知的冒険の書は、10代の頃からこの主題に取り憑かれていたというアメリカの認知科学者ホフスタッター(Douglas Richard Hofstadter, 1945-)にとってライフワークであると言っても良いと思います。『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の日本語訳書の副題が原題の「永遠の黄金の組ひも」ではなく「あるいは不思議の環」とされていたことは実に因縁深いです。主題から言っても『わたしは不思議の環』は『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の正当な続篇と見るべきでしょう。
★デネット『心の進化を解明する』は『From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds〔バクテリアからバッハへの往還路――心の進化〕』(W. W. Norton, 2017)の訳書。ホフスタッターの盟友であり、共著書(『マインズ・アイ』)もあるアメリカの哲学者デネット(Daniel Clement Dennett Ⅲ, 1942-)の最近作です。「本書の内容は、私たちの心がいかに存在するに至ったか、私たちの脳がその驚異のわざを生みだすのはいかにしてか、それにとりわけ、心と脳について、暗に潜む哲学的罠の数々に引っかからずに考えるにはどうすべきか、といった問題に関する、今のところ最善の科学的説明の素描であり、またその根幹となるものである」(12頁)。序論ではホフスタッターの『わたしは不思議の環』への言及があります。「〔『わたしは不思議の環』は〕心というものを、複数の円環から自らを組み立てるものとして描く。〔・・・〕一読をお薦めする。想像力がローラーコースターに乗せられ、たくさんの驚くべき真理を学べること請け合いである。本書での私の物語は、それよりもさらに大きな循環過程から成り立っている。その過程がホフスタッターのような心を、単なる諸分子に過ぎないものから生みだしたのである。この作業は循環的なものなので、私たちはどこか中くらいの地点から出発して、何周も循環を繰り返さなくてはならない」(30頁)。訳者や版元さん同士が示し合わせたわけではないだろうとは思いますが、ホフスタッターとデネットの本がほぼ同時期に発売されたのは実に意義深いです。
★千葉雅也『思弁的実在論と現代について』は、2013年から2016年の間に各誌で発表されてきた対談をまとめたもの。巻頭の書き下ろしの「序」での説明を参考にすると、第Ⅰ部「思弁的実在論」は広義のポスト・ポスト構造主義をめぐる、小泉義之、清水高志、岡嶋隆佑、A・ギャロウェイの各氏との対談であり、「思弁的実在論入門」として読むことができる、とのことです。第Ⅱ部「現代について」は現代社会や文化をめぐる、いとうせいこう、阿部和重、墨谷渉+羽田圭介、柴田英里+星野太、松本卓也、大澤真幸+吉川浩満の各氏との対談を収めており、こちらは千葉さんのデビュー作『動きすぎてはいけない』の応用編として読める、と。千葉さんは自著と絡めてこう書いています。「思弁的実在論とは、我々人間とは無関係に、事物がそれ自体として独立的に実在するということを論じる、現代の哲学的立場です。私は思弁的実在論を、一種の「無関係の哲学」として捉えています。人間とは無関係の、あるいは非人間的な、外部の方へ向かうこと」(12頁)。「私は『動きすぎてはいけない』で、「接続過剰から非意味論的切断へ」というテーマを掲げました。自分と他者との間にあまりにも多い関係性、そして、そこに生じるあまりにも多い責任を想定すると、我々は何もできなくなる。というのは、何か行為をするにあたって考慮すべきパラメーターが無限化し、行為に移れないからです。〔・・・〕自分と他者をある程度は「無関係化」しなければ、利他的に何かをすることはできない」(17頁)。
★切断と無関係化の重要性に関しては、いとうせいこうさんとの対談「装置としての人文書――文学と哲学の生成変化論」での次のやりとりが印象的でした。
千葉 〔『動きすぎてはいけない』の「序――切断論」では〕僕としてはむしろ「憑依されすぎ」の恐ろしさからどうやってギリギリ身を守るかの方を強く言ってるんです。
いとう 憑依は千葉雅也自身に起きているの?
千葉 僕がそういうタイプなんです。〔・・・〕
いとう 『動きすぎてはいけない』というのは千葉くん自身の悪魔祓いの本なんですね(笑)。
千葉 そうです(笑)。
★このあと、いとうさんの16年間の「書けない状況」の話が続いていくのですが、陳腐ではありえない生々しい人生論が哲学と文学との狭間に湧出するのはこの二人の対談だからこそだろうと感銘を覚えました。なお、大澤真幸さんと吉川浩満さんとの対談「絶滅と共に哲学は可能か」は、吉川さんの新刊『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社、2018年7月)でも収録されています。
★ジジェク『絶望する勇気』は、『The Courage of Hopelessness: Chronicles of a Year of Acting Dangerously』(Penguin Books, 2017)の訳書。訳者あとがきでも触れられていますが、原著の表紙ではこの題名の中に隠れている「AGE OF HOPE」の部分に赤い取り消し線が引かれてるのがシンボリックです。「序論――『V フォー・ヴァンデッタ パート2』」にはこう書かれています。「20世紀のコミュニズムから得られる教訓は、われわれは絶望を全面的に受け入れる力をつけなければならない、ということである。ジョルジョ・アガンベンはあるインタビューのなかで「思考とは絶望する勇気である」と述べている。今日では、きわめて悲観的な現状分析でさえ、いわゆるトンネルの出口を示すなんらかの光を意気揚々とほのめかして終わるのが常となっているが、こうした時代状況にあって、このアガンベンの明察はとりわけ重要な意味をもっている。真の勇気とは、代替案を想像することではなく、明確に述べられるような代替案は存在しないという事実から帰結することを受け入れることである。代替案という夢をいだくことは理論的思考が臆病であることの証拠であり、そうした夢は、われわれが袋小路に陥ったみずからの苦境について最後まで考え抜くことを妨げるフェティッシュとして機能する。要するに、真の勇気とは、トンネルの先に見える光は反対側からわれわれのほうに近づいてくる別の列車のヘッドライトかもしれない、ということを認めることなのだ」(11頁)。
★ちなみにこのアガンベンのインタヴューというのは、フランスの「テレラマ」誌へ2012年3月に掲載された、ジュリエット・セルフによるインタヴュー記事「Le philosophe Giorgio Agamben : "La pensée, c'est le courage du désespoir"」のことかと思われます。これは「テレラマ」誌のウェブサイトで読むことができますし、英訳版がアメリカの版元ヴァーソのブログに「Thought is the courage of hopelessness: an interview with philosopher Giorgio Agamben」として掲出されています。このインタヴューでアガンベンは、おおよそ次のように発言しています。「自分はペシミストだと言われるがそんなことはまったくない。そもそも悲観論だの楽観論だのは思考とは無関係だ。ドゥボールがよく引用していた言葉だが、マルクスは《私が生きている社会の絶望的状況はむしろ私を希望で満たす》と言っている。あらゆるラディカルな思考は絶望というもっとも厳しい立場を常に取るものだ。シモーヌ・ヴェイユは《虚しい希望で胸中を温めようとする人々を私は好きになれない》と言った。思考は、私にとって端的に言って、絶望の勇気だ」(英訳版より趣意)。
★ジジェクの本に返ると、グローバル資本主義は四種の困難に見舞われていると言います。原理主義やテロリズムの脅威、中国やロシアなどとの地政学的緊張、ヨーロッパにおける急進的政治運動、難民の流入。類似する問題は国際社会の一員として日本も抱えており、厳しい分析から再出発することの重要性はこの国でも変わりません。副題にあるグローバル資本主義・原理主義・ポピュリズムをめぐるジジェクの議論に耳を傾けるべきかと思われます。
★アタリ『新世界秩序』は『Demain, qui gouvernera le monde ?』(Fayard, 2012)の訳書で、日本語版序文として巻頭に「30年後の新世界秩序はどうなっているか?――帝国の攻防と世界のカオス化のなかで」が付されています。ジジェクの本と同様にアタリの本においても資本主義社会のひずみが論じられているのですが、アタリの本は古代から現代に至る世界秩序の形成と変容を概観しつつ21世紀を占っており、ジジェク以上に多い観点から様々なカタストロフの可能性を分析しています。ジジェクと明確に異なるのはアタリの場合、実務家として最終章で3つの戦略と10の方策を示していることです。これはアタリがオプティミストであることの証左だというよりは、完璧な回答やゴールではないにしても構想として方向性は示すことができる、という彼の明確な問いかけだろうと感じます。実際にアタリの提言は、日本の行政と政治がどうあるべきかを考える上で重要であるだけでなく、たとえば、出版業界の危機をどう乗り越えるかを考える場合の理念的指標としても読み替えたり応用することができそうです。
★ヴィシュワナータン『異議申し立てとしての宗教』は日本語版独自編集本で、単行本としては著者の初訳本です。「世俗批評を越えて」「世俗批評としての改宗」「異端批評に向けて」の三部構成で、1998年から2014年に発表された7本の論考と、2013年に来日した際に収録されたインタヴューを収録。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。著者については編訳者の三原さんによる「まえがき」に詳しいです。ヴィシュワナータン(Gauri Viswanathan, 1950-)はインド生まれの比較文学研究者で、コロンビア大学で教鞭を執っています。サイードに師事した彼女は「サイードの愛弟子にして後継者」(まえがき)であり、サイードのインタヴュー集『権力、政治、文化』(上下巻、大橋洋一ほか訳、太田出版、2007年)の編者もつとめています(同訳書での表記は「ゴーリ・ヴィスワナタン」)。『異議申し立てとしての宗教』では、著者のデビュー作『征服の仮面』(1989年)以降の、第二作『群れをはなれて』(1998年)の出版時期から近年までの仕事と関心のエッセンスを、三原さんによる懇切な解題とともに見渡すことができます。著者は現在、『ブラヴァツキー夫人を求めて』という著書を準備中で、インタヴューでは「デリダとブラヴァツキー夫人にかんするチャプターは書き上がっています」(382頁)とのことです。今回の新刊においても第三部に収められた2篇の論考が神智学を題材にしており、異他的思想(heterodoxy)をめぐる彼女の考察の一端を窺うことができます。
★グロンダン『解釈学』は2006年刊『L'herméneutique』の翻訳。底本は2017年の第4版です。シュライエルマッハー、ディルタイ、ハイデガー、ブルトマン、ガダマー、リクール、ローティー、ヴァッティモらが取り上げられています。ガダマーと対決した人物としてハーバーマスやデリダにも論及があります。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。グロンダン(Jean Grondin, 1955-)はカナダの哲学者。文庫クセジュではこれまでに彼の『ポール・リクール』(杉村靖彦訳、2014年)と『宗教哲学』(越後圭一訳、2015年)が翻訳されています。
★『山頭火俳句集』は種田山頭火(1882-1940)の俳句を1000句と、日記、随筆を収めたもの。俳句は本書の3分の1強の分量で、本書では山頭火の生きざまと俳句を読み解くための文書をふんだんに載せているのが特徴と言えそうです。巻末に編者による解説、略年譜、俳句索引が付されています。俳句索引は有名句(「分け入つても分け入つても青い山」38頁、「鉄鉢の中へも霰」56頁)をはじめ、うろ覚えの句を探すのにも便利です。ちなみに文庫で読める山頭火の句集には、 村上護編『山頭火句集』(ちくま文庫、1996年)や、同氏編『山頭火句集』(山頭火文庫、春陽堂書店、2011年)などがあります。
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