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注目新刊:新鋭によるドゥルーズが目白押し『眼がスクリーンになるとき』『カオスに抗する闘い』、ほか

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a0018105_23195713.jpg『眼がスクリーンになるとき――ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』福尾匠:著、フィルムアート社、2018年7月、本体2,200円、四六版並製304頁、ISBN978-4-8459-1704-4
『カオスに抗する闘い――ドゥルーズ・精神分析・現象学』小倉拓也:著、人文書院、2018年7月、本体4,500円、4-6判上製366頁、ISBN978-4-409-03100-1
『ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』仲正昌樹:著、作品社、2018年7月、本体2,000円、46判並製448頁、ISBN978-4-86182-703-7



★7月26日発売で3点のドゥルーズ論が刊行されています。そのうち、まず2点のデビュー作から。まず1点めの『眼がスクリーンになるとき』は、ドゥルーズの『シネマ』をめぐる修士論文を大阪大学に昨年提出した福尾匠(ふくお・たくみ:1992-)さんによる書き下ろし。修論の直後に現代美術展「クロニクル、クロニクル!」の関連イベントとして行われたレクチャー「5時間でわかるドゥルーズ『シネマ』」が本書執筆のきっかけとなっているとのことです。帯文には千葉雅也さんの推薦文が記載されています。曰く「目からウロコの超解読」と。



★『シネマ』は哲学書であり、映画に喚起された諸概念を発明している、と福尾さんは述べます(287頁)。「理論と実践の分割などでなく、映画も哲学も固有の「思考」をそなえた実践である。できあいの理論を「適用」するのでなく〔…〕、「見たままの〔リテラルな〕イメージしか信じない」という態度が必要とされている」(同)。これは適用主義を避けるための前提であり、「物の知覚」という境位を示している(同)。「このリテラルなイメージの全面化は破局的でもある。身動きが取れず、見ていることしかできず、思考は不可能性に直面し……といった一連の不可能性と切り離せないからだ」(287~288頁)。「われわれが〔…〕考えてきたのは、この破局はいかにして回避されうるのかということだ」(288頁)。「本書は「たんに見る」ことの難しさと創造性をめぐって書かれる」(11頁)。これは現代人にとっても非常にアクチュアルな問題だと思います。


★二つめ。福尾さんのあとがきの謝辞に登場する小倉拓也(おぐら・たくや:1985-)さんも、大阪大学に3年前に提出された博士論文を改稿した『カオスに抗する闘い』を上梓されました(ちなみに福尾さんは『眼がスクリーンになるとき』第五章の注6において小倉さんの博士論文に言及し、参考文献にも掲げています)。小倉さんのあとがきの謝辞には今度は福尾さんが登場するのですが、親愛の情に溢れているという印象です。小倉さんの著書は「ドゥルーズ哲学を、晩年に前景化する「カオスに抗する闘い」という観点から体系的に読解するもの」(20頁)。ドゥルーズ哲学の「秘密の一貫性」を明らかにし、その哲学を新たな相貌のもとに(21頁)捉える試みです。「ドゥルーズ哲学をその総体において捉えるなら、表象=再現前化の批判によって見いだされる下-表象的なものとしてのシステムは、そもそも「カオスに抗する闘い」によってはじめて存立可能となるものなのである」(22頁)。


★「思考は自分自身から逃れ去り、観念は漏出し、感覚は要素を取り逃がし、何ひとつとどまることなくほどけていく。カオスから出来したものたちの、カオスへの不可逆的な崩壊。これが『哲学とは何か』における「老い」の問題である」(26~27頁)。「カオスに抗する闘い」は「私たちが生まれて、生きて、死んでいく存在であるかぎり、敗北を余儀なくされた、勝ち目のない闘いなのである。だからこそドゥルーズは、カオスを切り抜け、崩壊を乗り越える、「「来るべき民衆」の影」――それは「影」でしかない――を幻視することで、『哲学とは何か』を閉じることになる」(27~28頁)。「カオスに抗する闘いとは、経験を構成しうる諸要素が、現れると同時に消えていき、いかなる形態もなすことがない、そんな空虚から、様々な程度の一貫性――局所的なもの、大域的なもの、開かれたもの――を構築し、それらをシステムと呼ばれるものへと総合すること、そして、そのような構築や総合が破綻し、空虚へと落下する危機には、それに反発し、最小限の一貫性を保持することである」(355頁)。老いて疲労していくドゥルーズに果敢に向き合いつつ、そこから生々しい力を引き出した労作ではないでしょうか。


★最後に、仲正昌樹『ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』は、2016年9月から2017年2月に読書人スタジオで行われた全6回の連続講義に大幅加筆したもの。主要目次は以下の通りです。


はじめに
講義第一回 新たなる哲学のマニフェスト――第一章
講義第二回 精神分析批判と家族――第二章第一節~第六節
講義第三回 エディプス・コンプレックスの起源――第二章第七節~第三章第三節
講義第四回 資本主義機械――第三章第三節後半~第一〇節
講義第五回 「分裂分析」と「新たな大地」への序章――第三章第一一節~第四章第三節
講義第六回 分裂しつつ自己再生し続ける、その果て――第四章第四節~第五節
あとがき
わけのわからない『アンチ・オイディプス』をよりディープに理解するための読書案内
『アンチ・オイディプス』関連年表


★『アンチ・オイディプス』の分かりにくさをめぐって、400頁を超えるヴォリュームで丁寧に解説を加えた本書は、1頁あたりの文字数も多いのでかなり読み応えがあります。『千のプラトー』に比べても『アンチ・オイディプス』が難解である理由の一端を、仲正さんは次のように説明されています。「恐らくドゥルーズ+ガタリの認識では、「エディプス」言説は、西洋の知識人、特に精神分析や構造主義、現象学などを学び、そのスタイルを取り入れた、エリート知識人たちの思考・表現様式を――本人たちが自覚しないうちに――かなり深いところまで規定しており、彼らにとっていつの間にか半ば常識化している。教科書的にきれいに記述すると、彼らの“常識”に揺さぶりをかけることができず、素通りされてしまう可能性がある。あまりに文学的、場合によっては、(私たちが生きる社会で)“狂気”と見なされるような言葉でないと、響かないかもしれない。それらの効果を計算に入れて、全体の流れが構成され、文体が選択されているように思える」(3頁)。


★仲正さんの講義は昨年末に発売された、佐藤嘉幸さんと廣瀬純さんのお二人による『三つの革命――ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(講談社選書メチエ、2017年)とは対照的で、ドゥルーズとガタリのコンビを「革命」の方向性では読んではいません。そうした読解は、後半の第四回から第六回の講義と質疑応答から窺えると思います。



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★また最近では以下の新刊との出会いがありました。


『誰のために法は生まれた』木庭顕:著、朝日出版社、2018年7月、本体1,850円、四六判並製400頁、ISBN978-4-255-01077-9
『労働者のための漫画の描き方教室』川崎昌平:著、春秋社、2018年7月、本体1,800円、四六判並製472頁、ISBN978-4-393-33363-1
『暴力とエロスの現代史――戦争の記憶をめぐるエッセイ』イアン・ブルマ:著、堀田江理:訳、人文書院、2018年7月、本体3,400円、4-6判上製360頁、ISBN978-4-409-51078-0
『原発事故後の子ども保養支援――「避難」と「復興」とともに』疋田香澄:著、人文書院、2018年8月、本体2,000円、4-6判並製276頁、ISBN978-4-409-24121-9
『現代思想2018年8月号 特集=朝鮮半島のリアル』青土社、2018年7月、本体1,400円、A5判並製230頁、ISBN978-4-7917-1368-4



★木庭顕『誰のために法は生まれた』は、4月にみすず書房から『憲法9条へのカタバシス』を上梓し、遠からず『現代日本法へのカタバシス』(羽鳥書店、2011年)の新版を同じくみすず書房から刊行予定だというローマ法研究者による、親しみやすい一冊。2017年9月~11月にかけて横浜市の桐蔭学園で中高生を相手に行われた全5回の授業を記録したものだそうです。映画の「近松物語」(溝口健二監督、1954年)や「自転車泥棒」(ヴィットーリオ・デ・シーカ監督、1948年)、ローマ喜劇のプラウトゥス「カシーナ」および「ルデンス」、ギリシア悲劇のソフォクレス「アンティゴネー」および「フィロクテーテース」、さらには日本の最高裁の判例集などを題材に、中高生と「老教授」がざっくばらんな議論を交わします。ともすると現実離れしてしまいがちな法律をめぐる話を、人生に関わる視点で捉え直す、非常にしなやかな対話篇です。なお本書は同社の「高校生講義シリーズ」の最新刊とのことです。



★川崎昌平『労働者のための漫画の描き方教室』は、これまでの川崎さんの執筆活動や編集者としての生きざまのエッセンスをすべて投入して昇華させた、入魂の一書。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。「はじめに」に曰く「本書の目標は、毎日を懸命に働く労働者に、漫画という表現手法を手にしてもらうという、その一点に尽きる。そのための思考を、全霊を賭して伝えるのが、本書の役割である」(3頁)。「別に私は「表現者になれ!」と主張しているのではない。そうではなく、労働者としてあり続けるためにも表現をしよう、表現者としての側面を自分に築いて、疲れた心身を蘇らせようと呼びかけたいのである」(5頁)。「忙しいという理由で、あなたは表現を放棄してはいけない。なぜならば、表現をしなければ、あなたは忙しい日々に漫然と殺されてしまうかもしれないからだ」(4頁)。試し読み小冊子で、本書の位置づけを「過酷な現代を生き延びるための「哲学書」」としているのは、なるほどなと思いました。



★イアン・ブルマ『暴力とエロスの現代史』は、2014年に刊行されたブルマの評論集『Theater of Cruelty: Art, Film, and the Shadows of War〔残酷の劇場――芸術、映画、そして戦争の影〕』に収録された全28篇から序文を含む15篇を選び、さらに各紙誌に寄稿した2篇を加えて一冊とした、日本版オリジナル編集本です。「戦争、その歴史と記憶」「芸術と映画」「政治と旅」の三部構成。ここ20年の間に発表されたものばかりです。目次詳細は書名のリンク先でご確認いただけます。ブルマの鋭い批評精神は本書のもっとも初期のテクスト「被害者意識、その喜びと危険性」(1999年)にも如実に表れています。東アジア研究や中国現代史研究で著名なシュワルツ(Vera Schwarcz, 1947-)の著書『Bridge across Broken Time』(Yale University Press, 1998)に対して「これは非歴史的な本だ。犠牲者の歴史的な経験が、一種の「苦しみのスープ」に混ぜ合わされて調理されている」(33頁)と厳しく指摘しています。このテクストの末尾でブルマは「癒し」を求める言説や感傷主義に注意を喚起しつつ、真実とフィクションの区別を曖昧にすることの危険性に警告を発しており、こんにちの「ポスト・トゥルース」の議論を先どりしているように感じました。


★疋田香澄『原発事故後の子ども保養支援』はまもなく発売。福島原発事故以後の、保護者や子供たちへの支援活動のひとつである「保養」をめぐる本。保養とは転地療養であり「心身の健康回復を目的として汚染が少ない地域へ移動するプログラム」(11頁)である、自然体験やリフレッシュキャンプなどの活動。誰もが被ばくのリスクを不当に押し付けられない権利を持っているはずだ、という著者の信念のもと、参加者や支援者など様々な関係者らの肉声を紹介し、危険に常にさらされている人々とその社会が抱える様々な問題を取り上げています。カバーに使用されている写真の、橋の上でリュックを背に走り出す子供たちの背中が印象的です。


★『現代思想2018年8月号 特集=朝鮮半島のリアル』は、李鍾元+梅林宏道+鵜飼哲の三氏による討議「南北の平和共存と北東アジアの未来――南北首脳会談・米朝首脳会談はいかなる可能性を拓いたのか」にはじまり、北朝鮮、米朝交渉、核問題、脱北者、離散家族、ろうそく革命、フェミニズムなどの切り口から主題に接近する論考が並んでいます。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。『現代思想』9月号は特集「考古学の思想」、10月臨時増刊号は総特集「マルクス・ガブリエル(仮)」とのことです。


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