『ゲンロン0:観光客の哲学』東浩紀著、ゲンロン、2017年3月、本体2,300円、A5版並製320頁、ISBN978-4-907188-20-7
『勉強の哲学――来たるべきバカのために』千葉雅也著、文藝春秋、2017年4月、本体1,400円、四六判並製240頁、ISBN978-4-16-390536-5
『五感〈新装版〉――混合体の哲学』ミッシェル・セール著、米山親能訳、法政大学出版局、2017年3月、本体6,200円、四六判上製584頁、ISBN978-4-588-14039-6
★このところ人文書では話題の新刊が続いています。今月は東浩紀さんや千葉雅也さんの新刊が書店さんの店頭にほぼ同時期に並ぶことになり、私がよくお邪魔している某店では國分功一郎さんの先月新刊『中動態の世界』を加えて三冊の「白い本」が強烈な波動を放っています。お店によってはさらに今月新刊の、西兼志さんの『アイドル/メディア論講義』(東京大学出版会)を並べておられることでしょうし、星野太さんの『崇高の修辞学』の重版(月曜社)を一緒に展開して下さっていることもあるかと思います。偶然かもしれませんが、東さんの本も千葉さんの本も「~の哲学」という書名で、哲学的思索の再起動を垣間見る思いがします。
★「~の哲学」といえば、少し前にミシェル・セールの『五感――混合体の哲学』も再刊されました。セールはつくづく「未来の哲学者」です。東さんや千葉さんが盛り上げてくださっている売場で、若い読者がセールの柔らかで魅力溢れる知的文体に出会うことを期待したいです。本書は『Les cinq sens : philosophie des corps mêlés Tome 1』(Grasset, 1985)の翻訳で、1991年に刊行されました(その後一度カバーデザインが変わったのは2004年の復刊時だったでしょうか)。「偉大な思想ほど価値のあるものは何もない。なぜならその思想は、雑多な色の波型模様を描きつつ、壮大な風景を開くからであり、その思想をよりよく理解することの奇跡のような歓喜は、誰であれ凡庸な部屋のなかで眠っている者の住居を拡げ、宮殿としての彼の世界を突然改造するからである」(528頁)。それに続く一連の美しい論証を見るとき、私は哲学の再起動がいかに世界(の見方)を変えるか、その鮮やかさを思います。
★『ゲンロン0:観光客の哲学』は「『郵便的』から19年、集大成にして新展開」(帯文より)の新著で、「いままでの仕事をたがいに接続するように構成されている」(はじめに、7頁)のだと言います。つまり本書は、『存在論的、郵便的』(新潮社)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『一般意志2・0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)のいずれの続編としても読めるもので、その基本的主題は「誤配こそが社会をつくり連帯をつくる。だからぼくたちは積極的に誤配に身を曝さねばならない」(はじめに、9頁)というものです。第4章「郵便的マルチチュードへ」には次のように記されており、これは帯文にも引かれています。「ネグリたちのマルチチュードは、あくまでも否定神学的なマルチチュードだった。だから彼らは、連帯しないことによる連帯を夢見るしかなかった。けれどもぼくたちは、観光客という概念のもと、その郵便化を考えたいと思う。そうすることで、たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう。そのような錯覚の集積がつくる連帯を考えたいと思う。ひとがだれかと連帯しようとする。それはうまくいかない。あちこちでうまくいかない。けれどもあとから振り返ると、なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる。そしてその錯覚がつぎの連帯の(失敗の)試みを後押しする。それが、ぼくが考える観光客=郵便的マルチチュードの連帯のすがたである」(159頁)。
★さらにこのあとこう書かれてもいます。「マルチチュードが郵便化すると観光客になる。観光客が否定神学化するとマルチチュードになる。〔・・・〕連帯の理想を掲げ、デモの場所を求め、ネットで情報を集めて世界中を旅し、本国の政治とまったく無関係な場所にも出没する21世紀の「プロ」の市民運動家たちの行動様式がいかに観光客のそれに近いか、気がついていないのだ。〔・・・〕観光客は、連帯はしないが、そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす。デモには敵がいるが、観光には敵がいない。デモ(根源的民主主義)は友敵理論の内側にあるが、観光はその外部にあるのだ」(160頁)。本書は昨年から今年にかけての冬の三ヶ月に執筆されたそうです。「本書の執筆を終え、ぼくはいま、かつてなく書くことの自由を感じている」(はじめに、7頁)という東さんの本書は、かつてない疾走感に満ちた同時代感覚を読者に届けるものです。それは誤配のユートピア、とでも言うべきものでしょうか。
★「21世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。そして、そのような実践の集積によって、特定の頂点への富と権力の集中にはいかなる数学的な根拠もなく、それはいつでも解体し転覆し再起動可能なものであること、すなわちこの現実は最善の世界ではないことを人々につねに思い起こさせることを企てる。ぼくには、そのような再誤配の戦略こそが、この国民国家=帝国の二層化の時代において、現実的で持続可能なあらゆる抵抗の基礎に置かれるべき、必要不可欠な条件のように思われる。21世紀の秩序においては、誤配なきリゾーム状の動員は、結局は帝国の生権力の似姿にしかならない。/ぼくたちは、あらゆる抵抗を、誤配の再上演から始めなければならない。ぼくはここでそれを観光客の原理と名づけよう。21世紀の新たな連帯はそこから始まる」(192頁)。
★「観光客の哲学とは誤配の哲学なのだ。そして連帯〔ローティ〕と憐み〔ルソー〕の哲学なのだ。ぼくたちは、誤配がなければ、そもそも社会すらつくることができない」(198頁)。毎回インスピレーションを感じるのですが、東さんの著書はすべて出版論に読み替えることが可能だと思います。誤配は皮肉にも物流においてもっとも忌避すべき過ちだからこそ、東さんの言う「誤配」を出版人は真剣に受け止めねばならないと思うのです。なぜならば、私たちは「子として死ぬだけではなく、親としても生き」(300頁)るべきだからです。ここでは実体的な家族のことを論じられているという以上に、リレーのありようが問われているのです。
★いっぽう、千葉さんの『勉強の哲学』は、東さんにとっての『弱いつながり』のように、本来的な意味での「自己啓発」書へと踏み出された一歩ではないかというのが第一印象です。「人生の根底に革命を起こす「深い」勉強、その原理と実践」と帯文にはいたわれています。「勉強を深めることで、これまでのノリでできた「バカなこと」が、いったんできなくなります。「昔はバカやったよなー」というふうに、昔のノリが失われる。全体的に、人生の勢いがしぼんでしまう時期に入るかもしれません。しかし、その先には「来たるべきバカ」に変身する可能性が開けているのです。この本は、そこへの道のりをガイドするものです。/勉強の目的とは、これまでとは違うバカになることなのです。その前段階として、これまでのようなバカができなくなる段階がある。/まず、勉強とは獲得ではないと考えてください。勉強とは、喪失することです。これまでのやり方でバカなことができる自分を喪失する」(はじめに、13~14頁)。
★書名のリンク先では「はじめに」と第一章の最初の二ページ分の立ち読みも可能です。本書はもとより千葉さんのデビュー作『動きすぎてはいけない』(河出書房新社、2013年)に比べて親切な語り口の本ですが、さらに結論では本書の主題が端的にまとめられており、通読した方にとってはおさらいになるとともに、未読の方にとっては本書の通覧的な見通しを得るよすがとなります。こうしたネタバレを恐れない書き方は、本書に細部があるからこそできることです。第1章「勉強と言語――言語偏重の人になる」は原理編その1であり「勉強とは、これまでの自分の自己破壊である」と要約されています。第2章「アイロニー、ユーモア、ナンセンス」は原理編その2であり、「環境のノリから自由になるとは、ノリの悪い語りをすることである」。第3章「決断ではなく中断」は原理編その1であるとともに実践編その1で、「どのように勉強を開始するか。まず、自分の現状をメタに観察し、自己アイロニー〔自己ツッコミ〕と自己ユーモア〔自己ボケ〕の発想によって、現状に対する別の可能性を考える」。第4章「勉強を有限化する技術」は実践編その2であり、「勉強とは、何かの専門分野に参加することである」。
★本文では重要な語句や文章はゴシック体で組まれています。「ツイッター哲学」としての『別のしかたで』(河出書房新社、2014年)の次の、千葉さんの最新作が勉強論だということはしばらく前から知られていたことではありました。こうしてひもといてみると、千葉さんの思考と実践のエッセンスがぎゅっと凝縮された本で、なおかつそれを可能なかぎり明晰に明瞭に記述しえた魅力的な本だと感じます。結論の後にある「補論」は。「本書の学問的背景を知りたい方、専門家の方へ」と始まり、「本書は、ドゥルーズ&ガタリの哲学とラカン派精神分析学を背景として、僕自身の勉強・教育経験を反省し、ドゥルーズ&ガタリ的「生成変化」に当たるような、または精神分析過程に類似するような勉強のプロセスを、構造的に描き出したものです」(222頁)と説明されています。こうした種明かしは自画像に似て、自意識との困難な格闘が伴うものですが、千葉さんにとってこうした相対化は、ある種必然だったのではないかと思われます。というのも、『勉強の哲学』は、NHKの特番を書籍化した『哲子の部屋Ⅲ: “本当の自分”って何?』(河出書房新社、2015年)で言及されていた「変態の哲学」を出発点に、詳しく方法論を示したものだとも読めるからです。
★「僕が言いたいことはシンプルです――「最後の勉強」をやろうとしてはいけない。絶対的な根拠を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるベストな勉強など、ない」(136頁)。また、後段ではこのようにも書かれています。「アイロニーの批判性を生かしておくには、絶対的なものを求めず、そして、複数の他者の存在を認めなければならない。アイロニカルな批判は、むしろハンパな状態にとどめておく必要があるのです」(145頁)。そして、「複数の他者のあいだで旅しながら考えること」(146頁)の可能性が説明されます。「信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である」(148頁)という千葉さんが言う、「出来事と出会い直そうとする」(153頁)ことや「「変化しつつあるバカさ」で行為する」(170頁)ことをめぐる議論は、どこか東さんの「観光客の原理」と交差する部分があるような予感がします。
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★さらにここ最近の文庫新刊では以下のものに注目したいと思います。
『点と線から面へ』ヴァシリー・カンディンスキー著、宮島久雄翻訳、ちくま学芸文庫、2017年4月、本体1,000円、文庫判256頁、ISBN978-4-480-09790-3
『枕草子』上・下巻、清少納言著、島内裕子校訂訳、ちくま学芸文庫、2017年4月、本体1,400円/本体1,500円、文庫判464頁/528頁、ISBN978-4-480-0978-6/978-4-480-09787-3
★『点と線から面へ』と『枕草子』上下巻は今月のちくま学芸文庫の新刊。このほかには納富信留『哲学の誕生』、アルフレッド・W・クロスビー『ヨーロッパの帝国主義』が発売されています。カンディンスキー『点と線から面へ』は、中央公論美術出版社の「バウハウス叢書」の第9巻として1995年に刊行されたものの文庫化。底本は原著第二版(1926年)。既訳には『カンディンスキー著作集(2)点・線・面――抽象芸術の基礎』(西田秀穂訳、美術出版社、1959年;改訂版1979年;新装版2000年)がありますが、こちらの底本は1955年の第3版(ベンテリ社版)です。巻末の文庫版あとがきによれば、再刊にあたり、訳語の修正が行われています。ちくま学芸文庫さんには今後もバウハウス叢書の品切本の文庫化を期待したいところです。
★いっぽう島内裕子校訂・訳『枕草子』上下本は文庫オリジナル。凡例によれば「現代では「三巻本」で『枕草子』を読むことが主流となっているが、昭和20年代頃までは「枕草子を読む」とは、基本的に、北村季吟『春曙抄』を読むことであった。日本文化に大きな影響を与えてきた『枕草子』の本分に触れるために、本書の底本を『春曙抄』とするゆえんである」と(下巻巻末の「解説」には『春曙抄』に対するさらなる言及あり)。構成は段ごとに本文、現代語訳、評というシンプルなもの。語釈や補注が欲しいという方は、石田穣二訳注『新版 枕草子―――付現代語訳』(上下巻、角川ソフィア文庫、1979~1980年)や、上坂信男/神作光一全訳注『枕草子』(全3巻、講談社学術文庫、1999~2003年) などが参考になるかと思います。このほか、橋本治さんによる『桃尻語訳 枕草子』(全3巻、河出文庫、1998年)や、大庭みな子さんによる『現代語訳 枕草子』(岩波現代文庫、2014年)をはじめ、様々なヴァージョンがあります。
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★このほか、最近では以下の新刊との出会いがありました。
『もうひとつの〈夜と霧〉――ビルケンヴァルトの共時空間』ヴィクトール・E・フランクル著、諸富祥彦編、広岡義之編訳、林嵜伸二訳、ミネルヴァ書房、2017年4月、本体2,200円、4-6判上製208頁、ISBN978-4-623-07936-0
『18歳で学ぶ哲学的リアル――「常識」の解剖学』大橋基著、ミネルヴァ書房、2017年4月、本体2,800円、A5判並製306頁、ISBN978-4-623-07937-7
『『新しき土』の真実――戦前日本の映画輸出と狂乱の時代』瀬川裕司著、平凡社、2017年4月、本体4,500円、A5判上製376頁、ISBN978-4-582-28264-1
『2100年へのパラダイム・シフト』広井良典+大井浩一編、作品社、2017年3月、本体1,800円、A5判並製217頁、ISBN 978-4-86182-597-2
★ミネルヴァ書房さんの新刊『もうひとつの〈夜と霧〉』『18歳で学ぶ哲学的リアル』はともにまもなく発売(今月20日頃)。フランクル『もうひとつの〈夜と霧〉』はドイツ語版『夜と霧』の初版に付録として併載されていた思想劇「ビルケンヴァルトの共時空間――ある哲学者会議」(Synchronisation in Birkenwald : Eine metaphysische Conference. 初出は1948年『ブレンナー峠』誌第17号)の、初の単行本化です。既訳には武田修志訳(『道標』第33号、人間学研究会、2011年6月、2~54頁)があるとのこと。この思想劇について広岡さんは巻頭の「はしがき」で「強制収容所を舞台として展開されており、『夜と霧』の内容がリアルに戯曲化されている」と紹介されています。この思想劇はまず、スピノザ、ソクラテス、カントが天国で話し合うところから始まります。「人間は地獄でも人間であり続けることができるということを証明する」とソクラテスは述べ、3人は下界のビルケンヴァルト強制収容所へ降りていきます。そこで語り合う被収容者らを観察し、さらに議論を交わします。淡々とした劇ですが、作者の血涙が行間に滲み出るような内容です。本書の後半はこの劇作の詳細な解説。
★『18歳で学ぶ哲学的リアル』の著者、大橋基さん(おおはし・もとい:1965-)は現在法政大学文学部・社会学部兼任講師。共著や共訳書がありますが、単独著は本書が初めてになります。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。巻頭の序章にはこう書かれています。「本書は「哲学入門」に先立つ緩やかなエントランスである。ここから「哲学」のなかに踏み込んでも、「社会科学」や「自然科学」に立ち返ってもかまわない。学校の勉強とは無関係な「怖いものみたさ」でも大歓迎だ。/君たちが、自分に似た「哲学者」を見つけたとき、彼らは君たちを「非日常」へのいざなう「秘密の友人」になる」(8頁)。各章末には参考文献が列記され、巻末には用語集と索引が配されています。本書は「大学の社会科学系学部に在籍する学生向けの「哲学案内」として企画された。〔・・・〕内容は〔・・・〕「近代以後の規範的倫理学」を中心とするものとなっている」(あとがき)。本書執筆に至りつくまでの苦労の一端は終章の最終節「ある日の夕暮れどき、「教室」で」にリアルに描写されています。
★瀬川裕司『『新しき土』の真実』はまもなく発売(今月14日頃)。帯文に曰く「若き原節子を〈世界の恋人〉たらしめた、戦前における「最初で最後の本格的輸出映画」の真相に切り込む力作。日独共同製作の裏側で囁かれ、現在でも定説として語り継がれる数々の嘘と虚報を、ドイツ側の視点も含めて丹念に検証し、『新しき土』という怪物を生み出した時代の精神を明らかにする。「日独防共協定の産物」か、「ナチのプロパガンダ」か、果ては「国辱映画」か」。目次についても列記します。序章「世界への夢」、第一章「日本映画の海外進出」、第二章「『新しき土』の誕生」、第三章「伊丹版・ファンク版の相違点」、第四章「批評の諸相」、第五章「『新しき土』製作期以降の輸出映画」、第六章「関係者の運命」、最終章「『新しき土』を生み出したもの」、あとがき、参考文献。序章の末尾には各章が次の通り要約されています。「第一章で『新しき土』以前の日本における映画輸出の流れを確認し、第二章で『新しき土』が企画されてから完成後の海外プロモーション活動までの経過、第三章で『新しき土』における〔両監督〕伊丹〔万作〕版と〔アーノルト・〕ファンク版の相違点、第四章で『新しき土』が受けた批評の諸相、第五章で『新しき土』製作時期以後の日本映画輸出の試み、第六章で『新しき土』に関わった主要人物のその後の運命を扱い、最終章で何が同作を生み出したかについて総括をおこなう」。
★『2100年へのパラダイム・シフト』は発売済。帯文はこうです。「日本を代表する50人の知性が“21世紀の歴史”の大転換を予測する。資本主義の危機、ポピュリズムの台頭、宗教とテロ、覇権交代の国家……世界、そして日本はどうなるのか?」。「国家と紛争の行方」「脱〈成長〉への道」「〈核〉と人類」「新しい倫理」「変貌する学と美」の五部構成で、それぞれの冒頭には編者の広井さんと識者による討議が置かれ、そのあとに7~10本の寄稿が並べられています。収録作はオンライン書店「honto」に上がっています。「述」とあるのが各部冒頭の討議です。
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★さらに注目すべき新刊としては、4月5日発売となったらしいもののその値段ゆえに書店店頭ではまだ見かけていない二冊本、伊藤博明『ヨーロッパ美術における寓意と表象――チェーザレ・リーパ『イコノロジーア』研究【付属資料『イコノロジーア』一六〇三年版全訳】』(ありな書房、2017年4月、本体36,000円、B5判上製函入272頁+別冊432頁、ISBN978-4-7566-1751-4)があります。図像学のかの大古典、リーパの『イコノロジーア』の全訳が成ったということで、2017年の大ニュースのひとつになるべきところですが、版元ドットコムでの特記や雑誌広告を除くと、アマゾンでもhontoでもこの驚嘆すべき付属資料について記載がなく、もっと宣伝したらいいのに、と感じます。アマゾンでは在庫なしですが、買い物カゴが付いているので取り寄せ可能ということでしょう。hontoでは「現在お取り扱いができません」となっており、丸善、ジュンク堂、文教堂のいずれにも店頭在庫なし。まあこの値段ですから今後も書店さんが仕入れるというのは難しいかもしれません。さほど発行部数は多くないでしょうからうかうかしていると図書館に買われて品切、となる可能性もあります。ただ、ありな書房さんの前回の高額本『ヴァールブルク著作集 別巻1 ムネモシュネ・アトラス』(2012年3月刊、本体24,000円、ISBN978-4-7566-1222-9)に比してもさらに高いわけなので、なかなか手が届きにくいですね。
★最後にもうひとつ。これまで復刊ドットコムでは「ジャガーバックス」の復刊が行われてきましたが、ついに「ジュニアチャンピオンコース」の復刊も開始となりそうです。しかもその第一弾は、斎藤守弘著『なぞ怪奇 超科学ミステリー』(1974年)だというのです。子どもの頃愛読していたにもかかわらず大学生になる前に一括処分してしまい、あとあとになってそのことを悔やんだだけに、購入を決断するには一秒もかかりませんでした。身も蓋もないことを言うと、子供だった時分のインパクトは、復刊されて見直す際にはずいぶん薄れてしまっていることに気づくことが多いです。それでも、この本とともに生きたことを思い出すのは、自分の奥に埋もれて見つけがたくなってしまったものをもう一度掘り起こすきっかけになるわけで、その意味で復刊本は「特別な装置」たりうるのです。
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