『パストゥールあるいは微生物の戦争と平和、ならびに「非還元」』ブリュノ・ラトゥール(著)、荒金直人(訳)、以文社、2023年7月、本体5,000円、A5判上製528頁、ISBN978-4-7531-0378-1
『HAPAX II-1 特集=脱構成』HAPAX(編)、以文社、2023年7月、本体2,200円、A5変形判上製224頁、ISBN978-4-7531-0377-5
『FEU[創刊号]』イーケーステイス、本体1,800円、A5変形判並製184頁、ISBN978-49910041-2-4
『乾杯、神さま』エレナ・ポニアトウスカ(著)、鋤柄史子(訳)、ルリユール叢書:幻戯書房、2023年7月、本体4,800円、四六変型判上製544頁、ISBN978-4-86488-278-1
『モン゠オリオル』ギ・ド・モーパッサン(著)、渡辺響子(訳)、ルリユール叢書:幻戯書房、2023年7月、本体3,500円、四六変型判上製376頁、ISBN978-4-86488-279-8
★以文社さんの7月新刊は2点。ラトゥール『パストゥール』は、『Pasteur : guerre et paix des microbes, suivi de Irréductions』(La Découverte, 2001)の全訳。帯文に曰く「ブリュノ・ラトゥールの思想、その核心「非還元」とは何か。還元主義の過剰服用の酔いから覚めて――本質でもなく、構造でもなく、あらゆる物事との同盟関係へ」。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。ラトゥール自身による類書としては過去に、岸田るり子/和田美智子訳『細菌と戦うパストゥール』(偕成社文庫、1998年11月;原著『Pasteur. Bataille contre les microbes』Nathan, 1988)がありました。
★もう1点『HAPAX II-1 特集=脱構成』は、夜光社さんから刊行されてきた雑誌(第一期全14号)の第二期創刊号です。目次詳細は誌名のリンク先をご覧ください。帯文に曰く「世界的な反乱が呼びかける生と政治の新たな転換点。思想と政治の最前線、リニューアル最新号」と。判型は第一期より一回り大きな縦長です。本文は横組で、かつて以文社さんから刊行されていた雑誌『VOL』を思い出します。『VOL』は前田晃伸 (まえだ・あきのぶ, 1976-)さんの設計で、『HAPAX II』は大友哲郎(おおとも・てつお, 1981-)さんです。
★『FEU[創刊号]』は、原智広さんが主宰する合同会社イーケーステイスの『ILLUMINATION』に続いて創刊した新雑誌です。読み方は「フー」。フランス語の「炎」です。版元紹介文にとよれば「仏・米・露の翻訳文学や物故作家に纏わる創作、エッセイ、写真、ドローイングを収録し、評判を呼んだアンソロジー『イリュミナシオン』の姉妹誌が登場。基本的なコンセプトは同誌と共有しつつ、実験的な言語表現や独自の写真表現を探る場として立ち上げました。タイトルは火、明かり、そして砲火を意味する『FEU(フー)』と命名しました。目次詳細は誌名のリンク先をご覧ください。美しい造本設計は、二誌とも栗原弓弦さんによるもの。
★幻戯書房さんの「ルリユール叢書」の今月の最新刊は2点。『乾杯、神さま』は第32回配本、44冊目。フランスに生まれメキシコで活躍するジャーナリスト、小説家のエレナ・ポニアトウスカ(Elena Poniatowska, 1932–)の『Hasta no verte, Jesus mío』(1969年)の初訳です。帯文に曰く「ジャーナリストの経験を活かし、一個人の証言を多声的な〈女性〉の物語へと昇華させた、セルバンテス賞受賞の女性作家によるルポルタージュ文学の傑作長編」。ポニアトウスカの既訳書には、『トラテロルコの夜――メキシコの1968年』(北條ゆかり訳、藤原書店、2005年)、『レオノーラ』(富田広樹訳、フィクションのエル・ドラード;水声社、2020年)があります。
★『モン゠オリオル』は第32回配本、45冊目。フランスの作家モーパッサン(Guy de Maupassant, 1850–1893)の『Mont-Oriol』(1887年)の新訳です。帯文に曰く「温泉リゾート「モン゠オリオル」を舞台に種々様々な人間たちの「感情」が絡み合う、モーパッサンが描く一大〈人間喜劇〉」。モーパッサン(Guy de Maupassant, 1850–1893)はフランスの小説家。主要作や短篇集は新潮文庫や岩波文庫、光文社古典新訳文庫などで読むことができます。本作の既訳には杉捷夫訳『モントリオル』(上下巻、岩波文庫、1957年)などがあります。「モン゠オリオル」はカナダに実在する都市ではなく架空の地名で、作中には「オリオル」という地主の名前が繰り返し登場します。
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【雑記20】
日販の引き算がいよいよ佳境に入ったように思われる。同社が掲げる出版流通改革によって、脱委託に向けた大きな流れはここ何年間かでいくつかの節目を刻んできた。自らの生き残り策としてであれ、株主や銀行へのアピールとしてであれ、その成果がリポートとして逐次報告されてきたし、計画概要が明かされてもいる。インペナ契約PPIプレミアムによる書店粗利改善、CCC/紀伊國屋による版元直取引の新会社への物流網の提供、そしてCCCとの合弁会社MPDの社名変更と業務統合(卸業務およびFC事業)。これらすべては日販にとって取次本業の再編すなわち選択と集中の、過程であり目標でもあったものであると見て良い。
こうした流れは控えめに言っても厳しい取捨選択を伴うものだった。帳合書店の相次ぐトーハンへの帳合変更はその表れのひとつである。取引先書店はもはや引き止められない。また、ブックホテル「箱根本箱」や入場料書店「六本木文喫」といった新形態も、選択を否応なく行うものだった。書籍を世界に向って差し出す既成書店に対する従来のサポートを、世界の中に書籍を置き直すための新しい場所づくりの実践へと転換したのだ。入場料書店の誕生はCCCのシェアラウンジ設置への示唆となっただろう。主役は書籍そのもの(とその販売)ではもはやない。書籍のある場所(への課金)が主役となる。これにより、書店だけでなく書籍もまた取捨選択され、選別のふるいに掛けられる。
出版社もまた選別対象となる。PPIプレミアムの契約版元の商品は優遇され、その売上達成は他の契約外版元との通常取引よりも優先される。また、アマゾン・ジャパンの商品調達の重要拠点となっている王子のウェブセンターでは、日販とMD契約を結んだ版元への商品発注が優先される。未契約版元の商品は発注が最小限となり、販売機会の損失が危ぶまれる。優越的地位の濫用に通じる圧迫を日販自身が取引版元に対して通告してくるのである。この圧力は売上下位版元に対しても容赦なく向けられる。公正取引委員会は出版界で起きていることに気づきはしないし、関心もないだろう。
アマゾンはたとえ特定の出版社の商品が品薄になっても、マーケットプレイスへの出品者から客が買えればいいと勘違いしている。自社で在庫を抱えるのではなく、出品者から手数料を取れればそれで良いのだ。まだ版元在庫があるのにアマゾンや日販が充分に在庫を抱えられず補充も充分かつ迅速ではないため、顧客は出品者が再販制を無視して高額出品された商品を時として買うはめになる。アマゾンの顧客第一主義はすでに多くの矛盾を抱え欺瞞に陥っている。それを日販はどうすることもできないし、日販自身もアマゾンによって疲弊させられている。あとは版元に応分の負担をしてもらいたい、平たく言えばカネを出せ、というわけだ。
帳合変更による書店の減少と、インペナ契約による特定版元の商品販売への業務集中、アマゾンへの補充の縮小。これらによって、日販が失いつつあるのは、専門書版元や小零細版元の委託配本であり、ロングテールである。委託配本のためには書店からのまとまった受注が必要だが、インペナ契約版元を優先している書店チェーンは、契約外の版元の商品を発注する余力に欠ける。支店が発注権限を持っていない場合もある。人員不足、人材不足の側面もあり、社内教育の仕組みは整っていない。不振の背景にはコロナ以後の売上縮小があるが、増益のために導入したインペナ契約に縛られた結果、契約外の出版社への発注は劇的に減っている。取次側から見て委託配本が可能になれば、新たな契約をそもそも結ばなくても、分戻しという大きなアドバンテージが出版社から得られるにもかかわらず、それをみすみす放棄することになるのである。
発注が減れば、入荷も減る。AIを導入しても予想に反して売れる兆候を見せた銘柄に対して補充発注を行うスピード感は、アマゾンにも日販にもまったくない。好条件の契約版元との取引を優先するからである。契約を結んだ出版社の本を優遇することに汲々とするあまり、ロングテールの基盤を急速に自己破壊する方向性を選んでいる。今まで維持していた売上をわざわざ失っても、確実に「取れるところからカネを取りたい」のだ。この手の過激な方向転換はおおよそのところ後年に破綻して、元に戻そうとすることがよくある。しかし今回は不可逆的な結末に至るかもしれない。
書店の現実も同様だろうが、中小の既成出版社は従業員の高齢化が進んでいる。若い世代には出版社へのあこがれはあっても、体感としては実際の志望者数は少なくなっているように思う。出版界を日々支える現役世代でうまく逃げきって(稼ぎきって)引退できる者はもういない。アマゾンや日販での売上が大きく減るならば、有効な代替手段を見出しにくい現在では、出版社は特定分野からの撤退や大胆な人員整理、あるいは廃業すらも短期的に選択せざるをえなくなる可能性がある。その兆候はあちこちで見出せる。アマゾンないし日販と優先契約を結べばいいではないか、というリアリストも世間にはいるかもしれないが、本の内容ではなくカネを払うかどうかで扱いが決まるならば、そんな取引はもともとロクでもないものだ。
独自の発注権を有している旗艦店は、今はまだ専門書も零細版元の書籍も、発注すれば入荷する、という恩恵に浴しているかもしれないが、それがいつまでも続くかどうかは極めて怪しい。なぜならば出版社にとって、限られた数の旗艦店からの受注のみでは、新刊配本のライン取りをするにはもはや足りないからである。初版部数も絞らざるをえない。すでに小零細版元や専門書版元にとって、日販帳合はそのような危険水位に達している。日販の出版流通改革は、日販自身を助はしても、契約外にあるその他大勢の出版社や個人書店までは助けはしない。日販が選んだ道は、改革という美名の舗装を剥がせばカネをめぐる競争ずくの修羅の道だ。もはや引き返すべくもない過酷なサバイバルである。
それが日販のすべてだとは言わない。社内には別の意見や試みがあったろうし、今もあるだろう。しかし、日販は自らの選択と集中がどのような副作用を持っているのかにもっと自覚的であるべきだった。PPIプレミアムを売上の7割まで上昇させる時、日販の本業は安定するかもしれないが、ロングテールを失うだろう。業界ではひとり出版社やひとり書店がようやく増えてきたというのに、大取次の変容の余波で、その勢いは鈍化するかもしれない。もともと大取次は小さな新興勢力との取引実績に乏しいけれども、取引がなくても影響力としては無関係とは言えないのだ。
中小版元のロングテールが縮小すれば、それがかろうじて担保していた出版物の多様性は形骸化するだろう。形骸化に読者が気づいてくれれば良いが、衰弱は静かに進むものであり、他業界と同じように、気づいた時にはもう手遅れだ。そこには荒廃しかない。それをフラットに「変化」と呼んで、私たちはやり過ごしてきた。崩壊過程は解明されず、歴史は失敗を何度でも繰り返す。過去から学ばない者に未来はない。取次や書店がインペナ契約という名のフィルタリングを続ければ、そのドーピングの毒は読者にも及ぶ。「欲しい本がない」と読者が嘆く時、それは必ずしも「今売れている本がない」ことを意味しない。どの書店に行ってもあるような版元の本は、昔から言われている「金太郎飴」を印象づける要素である。見たこともないような本は店頭にそもそも「ない」のであり、そうした本の存在に気づくことは困難になる。
これは出版社が書店への営業努力によって店頭に本を置いてもらえばいい、という話ではない。こんにちでは読者がネットを検索する努力を惜しまなければ、見たこともない本たちの存在を知ることは可能だ。一方、チェーン書店の場合、自らは金太郎飴を否定的には見ないことがある。どの店舗でも類似する売場を構成するのには、しっかりした商品調達力が必要だからである。それはそれで労力が掛かる。だが読者の欲望としては、どこへ行ってもどこで買っても同じ、というようなサービスは味気なく映る場合がある。平準化された売場では出会いも平板になる。異なる視点、異なる商品、他では見ない品揃えや売場構成を求める読者もいると思われる。効率化を目指したあげくに多様性の追求を断念するのは、袋小路に自らを追い込むようなものだ。
今は30社程度のPPIプレミアム契約版元が例えば300社に増えたなら、今でも手一杯の契約書店の業務は完全に機能不全に陥りかねない。契約版元の本に掛かりきりになるなら、書店員の仕事はもはやロボット労働に置き換えるしかないほど、過酷でつまらないものになるかもしれない。そもそも書店の売場面積は限られているのだから、優先順位の渋滞はまったく好ましいことではない。さらなる上位優先契約による差別化や階層化が必要になるだけである。取次は人力を可能な限り排し、複雑なオペレーションを排したコンビニ併設に書店の未来を託しているのだろうか。書店ゼロの自治体にも出店する、という大義は美しい。しかし本当に大事なのは、書店数の多寡よりも、書店員の仕事という専門職の貴重さを評価し、保持し、継承し、育てることである。これは出版社の仕事も同様のはずだが、本当の意味で世間から顧みられることは少ない。
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