★最近出会いのあった新刊を列記します。『世界史が苦手な娘に宗教史を教えたら東大に合格した』『空海論/仏教論』は発売済、『眠りつづける少女たち』はまもなく発売。
『世界史が苦手な娘に宗教史を教えたら東大に合格した――島田裕巳の世界宗教史入門講義』島田裕巳[著]、読書人、2023年4月、本体2,400円、四六判並製320頁、ISBN978-4-924671-58-4
『空海論/仏教論』清水高志[著]、以文社、2023年4月、本体2,600円、四六判上製264頁、ISBN978-4-7531-0374-4
『眠りつづける少女たち』スザンヌ・オサリバン[著]、高橋洋[訳]、紀伊國屋書店、2023年4月、本体2,500円、46判上製432頁、ISBN978-4-314-01197-6
★特筆しておきたいのは『眠りつづける少女たち』。アイルランド出身の神経科医オサリバン(Suzanne O'Sullivan)の第三作『The Sleeping Beauties: And Other Stories of Mystery Illness』(Picador, 2021)の全訳です。訳者あとがきによれば「本書で著者は、〈謎の病〉とされる症例の実態を確かめるべく世界各地に赴き、患者と関係者へのインタビューをもとに地域固有の文化や社会背景を踏まえて考察し、〈謎〉の正体に迫っている。/不可解な病のエピソードに続く著者の洞察は鋭く、筆力のある著者の文章もぐいぐいと読ませる」と。取り上げられるのは、スウェーデンの「あきらめ症候群」、ニカラグアの「グリシシクニス」、カザフスタンの「眠り病」、キューバの「ハバナ症候群」、コロンビアの「解離性発作」、北米北東部の都市ル・ロイと南米ガイアナの「集団心因性疾患」、最後は著者自身が担当したロンドンの患者の「解離性発作」です。
★耳慣れないグリシシクニスは、DSMすなわち『精神疾患の診断・統計マニュアル』では「苦痛の文化的概念」として分類されるもので、幻覚と異常行動を伴う症状。現地の民間療法では邪悪な精霊が引き起こすものとされ、時として集団発生へと発展することもあるのだとか。一方、ハバナ症候群は、都市伝説界隈では「外交官らに対する音響兵器による外傷性脳損傷」として知られてきたものです。オサリバンはこう書きます。「いかなる医学的問題も、生物学的側面と心理的側面と社会的側面の複合体をなす。変化するのは、各側面の重要度のみである」(16頁)。本書は一昨年(2021年)、英国王立協会科学図書賞の最終候補作となった話題作とのことです。
★続いて、人文書院さんの4月新刊より3点。『アンカット・ファンク』と『幻想の終わりに』は発売済。『エンタイトル』はまもなく発売。
『アンカット・ファンク――人種とフェミニズムをめぐる対話』ベル・フックス/スチュアート・ホール[著]、吉田裕[訳]、人文書院、2023年4月、本体2,700円、4-6判並製256頁、ISBN978-4-409-03122-3
『幻想の終わりに――後期近代の政治・経済・文化』アンドレアス・レクヴィッツ[著]、橋本紘樹/林英哉[訳]、人文書院、2023年4月、本体4,500円、4-6判上製344頁、ISBN978-4-409-24155-4
『エンタイトル――男性の無自覚な資格意識はいかにして女性を傷つけるか』ケイト・マン[著]、鈴木彩加/青木梓紗[訳]、人文書院、2023年4月、本体2,800円、4-6判並製266頁、ISBN978-4-409-24153-0
★特筆しておきたいのは『アンカット・ファンク』。ポール・ギルロイの仲介のもと1996年のロンドンで行われたベル・フックスとスチュアート・ホールの対話に、ギルロイの「序文」とフックスの「はじめに」を加えた『Uncut Funk: A Contemplative Dialogue』(Routledge, 2018)の全訳。対話は「フェミニズムとの出会い」「家父長制と人種」「戯れ、死、病」「アイデンティティ・ポリティクス、あるいは自己を語ることの不可能性」「男らしさと不安」「フェミニズムと連帯の可能性」の全六章構成です。フックスの「はじめに」はホール(Stuart Hall, 1932-2014)の死後に書かれたもののようです。ギルロイは本書をこう紹介しています。「この対話は、ラディカルな文化のなかで、世代、ジェンダー、戦略といったそれぞれの持ち場にともない否応なく立ち上がる不和がますます手に負えないものとなっている現在、実戦的かつ教育的な事例となるだろう」(9頁)。
★最後に作品社さんの4月新刊より3点。3点とも発売済です。
『巴里の雨はやさし』小川征也[著]、作品社、2023年4月、本体2,000円、46判上製252頁、ISBN978-4-86182-973-4
『光と陰の紫式部』三田誠広[著]、作品社、2023年4月、本体2,400円、46判並製276頁、ISBN978-4-86182-975-8
『マチスのみかた』猪熊弦一郎[著]、作品社、2023年4月、本体2,700円、A5判並製208頁、ISBN978-4-86182-970-3
★特筆しておきたいのは『マチスのみかた』。1938年に渡仏しアンリ・マティスに指導を受けた洋画家、猪熊弦一郎(いのくま・げんいちろう, 1902-1993)さんの、マティスにかんする評論やエッセイを集成したもので、マティス最初期の油絵から晩年の切り絵まで、100点超の作品も収録されています。猪熊さんは美術出版社の「少年美術文庫」で『マチス』という小著を1951年に上梓していますが、これは『マチスのみかた』の巻頭に収録されています。このほか1940年代から50年代にかけて各誌書で発表された10篇と、1993年に発表された「マチス先生の思い出」が収められています。
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【雑記9】
出版社が書店さんから尋ねられてしばしば困る質問のひとつに「御社の商品はフリー入帳でしょうか」というものがある。つまり、了解を取らずとも返品できるかどうかを尋ねておられるのだが、この問いかけに何の迷いもなく答えられる版元は実際どれくらいあるのだろうか。まず新刊書の委託分については了解を取らずとも所定の期間内であれば了解なしで返品できる。しかし既刊書の発売後の書店発注分については返品自由とはならない。出版業界の商習慣が特殊であるためと、〈出版社=取次〉間と〈取次=書店〉間の関係性が対称的ではなく、さらには出版社間、書店間の違いがあるため、しばしば見えにくくなっていることがある。それは「委託」とは本来は「返品条件付買取」を意味しているという現実である。そして「注文」の場合、この返品条件はもとより付かない。
いわゆる買切条件の出版社の本だけが買取なのではなく、すべての出版社の本が基本的に買取なのである。一部の特権的書店チェーンはそうした事実を無視して「どんな本でも仕入れることができ、どんな本でも返品することができる」と勘違いしていることが多い。そのためか(話がいったん脇道に逸れるが)、そうした特権的書店チェーンでは新規店の発注においても、出版社への挨拶状や出店概要、発注書や専用宛名紙などから成る「出品依頼書」一式を送ることなしに、取次の「客注」電算短冊を散発的に寄こしてくる。「客注」とは返品なし、満数出荷、即時出荷の3条件を満たすものとして、版元も書店もキャンセルなしで扱う特殊な注文である。新規店の出品依頼は「客注」ではない。開店時の売場を埋めるための場当たり的な本部発注であり、本部の意図など説明されてはいない店頭の担当者から数か月後には「棚替えのため」などという理由でしれっと返品される可能性が大きい。
話を返品の件に戻そう。大手や老舗版元が例外かもしれないが、その他大勢の出版社の本は「どんな書目も何冊でも仕入れることができ、どんな書目も何冊でも返品することができる」ものではない。既刊書を仕入れた場合、それは書店が責任をもって売り切らねばならない注文となる。取次の営業担当者が書店に対して「返品了解は出版社からもらって下さい」と言うことの建前のひとつは、そこにある(実際のところ取次は出版社の了解など無関係に返品してくるが、それはまた別の問題である)。
完全なフリー入帳を謳う出版社がどれくらいあるかは分からない。フリー入帳を謳っていても細則や付帯条件があったりすることもある。少部数出版社や専門書出版社は少なくとも返品自由とはなりにくい。大量に作って大量にバラまく版元はそういう無駄も許容するかもしれない。だが、店頭に置けば自然に売れるという時代ではもはやない。店頭に置かれてお客の眼に触れるのが最大の広告だ、と思いこむのも危険だ。当然のことながら、書店はどこも売場面積が限られている。ダンボールを開けても店頭に出さないまま返品することがあるのだし(いわゆる即返である)、幸運にも店頭に出してもらったとしてもお客の眼に留まらないことはもっとある。
書店がフリー入帳の本しか扱えないとなると、その扱い点数は必然的に限られる。書店が発注しなければ入荷のない出版社と、発注しなくても勝手に送品してくる出版社。この違いは大きい。発注の手間を掛けなくても商品が入荷して売場が埋まるならそれはそれでいいかもしれないが、そうした「自動化」は結局、小売側の仕入れる力を取次や出版社が弱めているだけである。書店は売りたい本を仕入れ、責任を持って売る。出版社や取次は頼まれてもいない本は送品しない。本の洪水で小売の現場を疲弊させない。昨今喧伝されている「マーケットイン」はそこを目指しているはずだ。しかしさんざん長年にわたってバラまき配本を行い、人気商品や補充品の発注を自動化したあげく、小売の現場で起きたのは「人員削減」である。これが書店減少と並行し、ますます危機がひっ迫することになる。出版社も売上が落ちて疲弊している。
そう書いてしまえば悪循環の仕組みはわりと簡単に把握できてしまうように思えなくもない。それは勘違いである。現実はもっと複雑で厳しい。良かれと思ってやっていることが功を奏さない事例はたくさんあるだろう。売上減少や資材代の高騰で、紙の書籍はますます値段が高くなり、発行部数は絞られる。近年、フィルム包装されるのは、コミックだけでなく文庫もである。過去には部数を多く刷ってきたであろう商材の発行部数が減少しているのが窺える。汚損による廃棄を少なくしたいという考えもあろう。どんどん刷ります、フリー入帳です、とは最大手版元ですら言えなくなりつつある。
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