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注目新刊:ギヨーム・ルブラン『生命と規範の哲学』以文社、ほか

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★まず以文社さんの新刊から。


『生命と規範の哲学――カンギレム『正常と病理』を読む』ギヨーム・ルブラン[著]、坂本尚志[訳]、以文社、2023年4月、本体2,700円、四六判上製184頁、ISBN978-4-7531-0373-7​
『正常と病理〈新装版〉』ジョルジュ・カンギレム[著]、滝沢武久[訳]、叢書ウニベルシタス:法政大学出版局、2017年1月(初版1987年)、本体3,600円、四六判上製320頁、ISBN978-4-588-14038-9

『働くってどんなこと?人はなぜ仕事をするの?』ギヨーム・ル・ブラン[文]、ジョシェン・ギャルネール[絵]、伏見操[訳]、10代の哲学さんぽ:岩崎書店、2017年1月、本体1,300円、4-6判上製88頁、ISBN978-4-265-07915-5



★『生命と規範の哲学』は、フランスの哲学者ルブラン(Guillaume Le Blanc, 1966-)の初期作『カンギレムと規範』(Canguilhem et les normes, PUF, 1998)の全訳。底本は2010年刊行の原著第二版第二刷とのことです。訳書巻頭には「日本語版への序文」が加えられています。ルブラン(ル・ブランとも表記)の著書が訳されるのは『働くってどんなこと?人はなぜ仕事をするの?』に続く2冊目です。


★「カンギレムが構築した生命の哲学は、規範の概念に関係している。〔…〕(1)生命の哲学的分析は規範の概念から出発することでしか行われえない。(2)規範の概念は生命の観念に必然的に帰着する。生命とは規範概念によって把握される観念である。/われわれが提案するのは、『正常と病理』をこの観点から読み直すことである。なぜならまさにこの著作において、カンギレムは生命の規範に対する関係を分析しているからである」(4~5頁)。


★ルブランはこう続けます。「『正常と病理』が明らかにしたのは、正常な状態と病的な状態における有機体の異なる諸機能である。不調に陥った機能とは、正常な状態がその真の状態であるような逸脱した状態ではない。病理的なものとは規範の不在ではない。反対にそれは組織の新たな配置であり、異なる諸規範の確立によって、外的或いは内的な環境の変調に対して生物がとることのできる適応である。このように、病理学はそれが生物についてまったく新しい問いかけを引き起こすがゆえに、本質的な役割を演じている」(同5頁)。


★「カンギレムが『正常と病理』の最初の版を、彼が偉大な対独レジスタンスであり、レジスタンス組織の中で医学を実践していた第二次世界大戦という文脈において書き上げたということは無視してはなりません。『正常と病理』は大災害について、大災害の中で書かれた本なのです」(日本語版への序文、vi頁)。「より広く言えば、カンギレムの著作において個人のレベルでなされた正常と病理の分析は、日本のような社会や国家のレベルで捉え直されるべきだと私には思えます。〔…〕病気であったという事実によって、回復した健康は病気以前の健康と同一ではありえないのです。厳密に同一の意味において、フクシマ以後の日本はフクシマ以前の日本では決してありえないでしょう」(同v頁)。「カンギレムが可能にしたのは、ある社会が大災害という試練によって混乱するそのさまざまなあり方について考えるということなのです」(同vi頁)。


★ルブランの訳書第一作『働くってどんなこと?人はなぜ仕事をするの?』では、労働をめぐるカンギレムの言葉が重要な参照項として登場します。この訳書は、岩崎書店のシリーズ「10代の哲学さんぽ」(第1期と第2期で全10巻)の1冊として刊行されていますが、このほかには、エリザベット・ド・フォントネ(Élisabeth de Fontenay, 1934-;エリザベートとも)の『動物には心があるの?人間と動物はどうちがうの?』(伏見操訳、2011年)、フランソワーズ・ダステュール(Françoise Dastur, 1942-;ダスチュールとも)の『死ってなんだろう。死はすべての終わりなの?』(伏見操訳、2016年6月)、ドゥニ・カンブクネ(Denis Kambouchner, 1953-;カンブシュネルとも)の『人がいじわるをする理由はなに?』(伏見操訳、2016年10月)など、おそらく児童書売場には置かれても人文書売場ではお目に掛らず見過ごされがちだったかもしれない注目作があります。


★続いて、法政大学出版局さんの新刊より。


『視覚と間文化性』加國尚志/亀井大輔[編]、法政大学出版局、2023年4月、本体4,500円、A5判上製342頁、ISBN978-4-588-15133-0
『うつむく眼――二〇世紀フランス思想における視覚の失墜』マーティン・ジェイ[著]、亀井大輔/神田大輔/青柳雅文/佐藤勇一/小林琢自/田邉正俊[訳]、叢書ウニベルシタス:法政大学出版局、2017年12月、本体6,400円、四六判上製796頁、ISBN978-4-588-01073-6

『はじまりのバタイユ――贈与・共同体・アナキズム』澤田直/岩野卓司[編]、法政大学出版局、2023年4月、本体2,800円、四六判上製416頁、ISBN978-4-588-13035-9

『村松剛――保守派の昭和精神史』神谷光信[著]、法政大学出版局、2023年4月、本体4,500円、四六判上製556頁、ISBN978-4-588-46020-3



★特記したいのは、『視覚と間文化性』です。亀井大輔さんによる巻頭の「はじめに」によれば「本論集は、西洋思想において「視覚」がもつ意味を探究するために、哲学を中心とする日本の人文学・社会科学系の研究者が、それぞれに専門とするヨーロッパのさまざまな哲学者や思想家における「視覚」の問題について考察した論考を集めたもの」。米国の思想史家マーティン・ジェイ(Martin Jay, 1944-)の視覚論『うつむく眼――二〇世紀フランス思想における視覚の失墜』(Downcast eyes: the denigration of vision in twentieth-century French thought, University of California Press, 1993;法政大学出版局、2017年)の訳書刊行をきっかけに、ジェイの日本講演「融合する地平?」(Fused Horizons? Downcast Eyes in Japan;立命館大学、2018年3月)をはじめ、日本の研究者による応答13篇が収められています。詳細は書名のリンク先をご参照ください。


★亀井さんの簡潔な要約を借りると、『うつむく眼』は「古代ギリシア以来のヨーロッパ思想が、視覚中心主義と言うべき〔…〕ものである一方で、その視覚優位が次第に崩れていき、とりわけ20世紀フランスの諸思想には「汎視覚中心主義」〔…〕が浸透していることを描き出した」本です(3頁)。ジェイ自身は『うつむく眼』について「本書の研究の主な目的は、〔…〕近年の、さまざまな分野に渡る非常に多くのフランス思想のなかには、視覚に対する、また近代における視覚の覇権的役割に対する強い疑念が何らかのしかたで沁み込んでいるということ、これである」(『うつむく眼』14頁上段)と書いています。「私は、近代性〔モダニティ〕とポストモダニティにかんしていまおこなわれている議論にとって、視覚の権威剝奪がどのような意味をもつのかを明らかにしたいと思う」(同下段)。


★最後に、最近出会いのあった雑誌新刊から。


『世界思想 50号 2023春』世界思想社編集部[編]、世界思想社、2023年4月、無料、A5判並製128頁
『文藝 2023年夏季号』河出書房新社、2023年4月、本体1,350円、A5判並製552頁、雑誌07821-05



★特記したいのは、無料PR誌『世界思想』の第50号(2023春)。今年の特集は「歴史」で、山根一眞さんによる写真エッセイ、堀川惠子さんと藤原辰史さんの特別対談「歴史の地層を掘る――聞くことと書くこと」、斎藤幸平さんによる特別講義「脱成長の未来のために」のほか、「歴史とは何か」「ジェンダー、実在、感覚」「語り、社会、国家」の三部構成で、18篇の論考が収められています。巻末には寄稿陣と編集部による「歴史のブックリスト」が添えられています。


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【雑記8】


客注における美本希望をめぐる問題は、そもそも何が美本なのか、というおそらくは個々人の感覚によって異なる基準のために、往々にして、客注主も書店も版元も、誰も得をしないトラブルに発展することがある。結論としては、美本を買うには書籍代以外の出費を厭わない限り、無理が生じることはしばしば避けられない、というものである。


書店店頭で美本を見つけられなかった場合、それを取り寄せ注文したところで美本が入荷するかどうかはかなり怪しい。取次の物流現場は疲弊していて、書店や出版社の実感としてはその荷扱いは年々徐々に粗くなっている。取り寄せということは、1冊だけを出版社から取次を経由して書店に届けるということだ。むき出しの1冊が綺麗なままで書店に届くかと言えば、それは100%保証できるというものではない。5冊とか10冊とか、キャラメル梱包のまま複数冊を書店が追加発注するならばその中からあるいは美本を選べるかもしれないが、1冊の美本のために最小ロットを仕入れることができる余裕のある書店など存在しないだろう。


出版社から直接購入するのが美本を買う近道にはなる。それがひとつの模範解答ではある。なお、通販書店からの購入やリアル書店での取り寄せと違って、出版社によっては送料がかかることもある。送料無料に慣れ切ってしまった現代人にはまるで損をしたような感覚になるかもしれないが、送料は実際のところ客ではない誰かが実費を負担しているわけだ。


版元直販はしかし、これまた100%の美本保証とはならないことがある。そもそも古い本で美本がない場合があるし、新本のはずだがコンディションが最善とは言えない時もある。完全な美本を送ったつもりが輸送事故に遭ったり、出荷担当者にとっては完全な美本でも、客にとってはまだ満足できない、となることもある。完全さとは何か、という話。


美本問題でしばしば取次や書店は他人事のように振る舞うことがある。そして代替品を出版社に再注文するのだが、出版社としてはわざわざコンディションの明らかに悪い本を出荷することはしない。取次は本来、書店に届けるまでその物流品質の責任を負わねばならないし、書店もまた取次を経由することの品質の限界を知っていなければならない。知らないでは済まない切実な問題だ。一方的に返品入帳と再出荷との責任を版元に負わせるのは、特に少部数出版をもっぱらとする出版社にとっては腹立たしい話である。出版社に返品された本は、それが取次の輸送事故だとしても通常通り返品手数料を取られる上に、コンディションによっては改装できずに廃棄処分となる。


取次の輸送途中の事故や、書店店内での事故については、それぞれが責任を負うべきである。それが当然なのだが、しばしば忘れられているように思える。大量返品による大量廃棄を見込んだうえで大量に印刷し、大量のバラ撒き配本を行う版元はどれくらいいるだろうか。少なくとも専門書や学術書ではありえないことだ。


書店から「美本希望」の客注があった場合、版元営業はトラブルを避けるために事前に客注担当者とお互いの責任の範囲について確認をする必要がある。出版社ができる最善の方策としては、注文品をエアキャップで包み、その外側に注文書とスリップを貼って出荷することだ。注文書によって「美本希望」であることは物流現場でも了解されるし、エアキャップに包まれた商品が何なのか、スリップのバーコードで確認することができる。注文書やスリップを本に差し込んだまま外側をエアキャップで包めば、どんな本か確認できずにせっかくのエアキャップは取次に外されてしまうだろう。


スリップレス化が進むこんにちでは、エアキャップの外に注文書を貼ることはできてもスリップを貼ることができない出版社もあるかもしれない。注文書にバーコードがついている場合はスリップレスでも大丈夫だろう。あるいは出版社によっては取次の検品の手間を省くような似姿と宛名紙を用意できているかもしれない。事情はあくまでも個々の出版社によって異なるだろうけれども、客注すべてをエアキャップで包んで出荷しなければならないなら、作業代や資材代が馬鹿にならない。


そもそも、取次の荷扱いが粗いままで良いわけがない。〈物流品質〉がますます問われるようにはなるだろう。ただし、倉庫内の作業代にせよ、輸送料金にせよ、それぞれの部署の人員不足を含めて、現実を取り巻く状況はかなり厳しい。それでもなお人件費を削らねばならないとするなら、紙の本をめぐる仕事はどこまで無人化できるだろうか。


物流の現場や小売の現場はますます無人化を進めることになるのだろう。一歩引いて俯瞰するならば、無人化は取次や書店だけの課題ではない。生成AIが個人の好みや望みに応じてコンテンツを提供する時代が到来しつつあるいま、出版業界はその全体がひっくり返されようとしている、と言えないだろうか。無人化の果てにある結末を見極める必要がある。それがバラ色の世界だとは私にはとうてい思えない。


美本問題に戻ると、アマゾン・ジャパンでは、帯が輸送途中で破れたりしても、返品や帯の交換に応じないことがある(困ったことに、アマゾンの荷扱いもまた、年々粗くなりつつあるようだ)。誰もが知っている通り、帯の有無は古書の価値を決めるひとつの基準であり、重要でないわけがない。出版社もまた、帯が破損してもお客様には我慢して欲しい、などとは思っていない。むろん帯は出版社によっては予備を作っていなかったり、作っていても少なかったりして、交換に応じられないことがある。一般論として言えることは、帯も大事だという場合は、新刊を発売直後、ひと月以内になるべく早く店頭で買うか、出版社の直販を利用することだ。


文庫本などの並製本の小口が研磨されているのが嫌いだ、という方もおられるかと思うが、そうした場合も、発売後ただちに購入することをお薦めする。研磨具合は出版社によって違うし、何度も研磨された本はもはやカバーより本体が小さくなっている場合がある。当たり前のことではあるけれども、それは常識の範囲として知っておいて損はない。


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